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結局、多様性ってなんだろうね

多様な性の在り方がある。

多様な生き方がある。

好きな服を着ればいい、好きなメイクをすればいい、好きな髪型にすればいい。

人の価値観・考え方は人それぞれだ。

寛容な考え方、寛容な世界になってきている。


でも、それって本当なのだろうかと、疑問に思うことがある。


例えば、欲求の話。

誰かを殺したいとか、性的興奮を覚える対象が子どもだとか、行動に起こしたら犯罪になってしまうような欲求を持つ人もいる。

欲求のまま行動してしまったら、もちろんそれは犯罪だし、被害者が生まれるということになる。

でも、欲求を持っているだけで行動しなければ、もちろん罪には問われない。

罪には問われないけれど、身近にそういう人がいたら距離を置きたいと思う人は多いんじゃないだろうか。

だって怖いから。誰だって身の回りは安心なもので固めたいはず。


でもこの対象が、LGBTQ+と呼ばれる性的マイノリティだったら、「あなたは差別的だ」と糾弾されるだろう。

だって性的マイノリティの人は、他の人と何ら変わらない人だから。

私もそう思う。性的マイノリティだからと言って、態度を変えたり、差別をするのはおかしい。もしそんな人がいたら、距離をとる。


でも、少し立ち止まって考えてみてほしいことがある。


それは、人を殺したいと思う人も、小児性愛者の人も、性的マイノリティの人も、性的マイノリティを差別する人も、隣の家の人も、あなたの友人も、あなたの家族も、そしてあなたも、

みんな結局、「多様性」の一部だということ。


犯罪者も多様性の一部だから許すべき、だなんて言いたいわけじゃない。

被害を受けている人がいる限り、加害者は罰するべきだと思う。


けれど、最初に言ったように「欲求」の段階なら、犯罪ではない。

思想・良心の自由は、憲法で定めらている人権だ。


そうだとしても、そういった欲求をもっている人がいたら、「気持ち悪い、怖い」と思ってしまう人は多い。私も怖いと感じると思う。

結局、世間で言われている「多様性」って、本当の「多様」じゃないんだと思う。

安全で安心で、無害な事柄だけが「多様性」に含めてもらえるんだと思う。


多様性を認める、多様な生き方を可能にする。

でも、目を背けたい事柄はしっかり無視する、非難する。


どんなことでも寛容に、どんな考えでも柔軟に受け入れる。

誰からも寛容だと、優しいと言われる。

そんな人でも決して、「私は寛容だ、多様性に理解がある」なんておごってはいけない。


私たちは、無害で綺麗な多様性だけを認めている。

多様性は、ずっとそこにあるものなのに。


「認める」という言葉に疑問に持つ人は多い。なんで上からなんだ、と。

でも私は、「認める」という言葉は適切だと思う。

だって社会は、綺麗で無害なものだけを掬い取って、多様性の一員として認めているから。


それでも私たちは、自分が理想の社会で生きていくために「多様性を大事にする」と、綺麗ごとを並べるのだ。


朝井リョウさんの「正欲」を読んで、考えたことを記事にしました。
こうして文章にするのに半年かかったくらい、頭を殴られるような本です。
気になった方はぜひ。



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