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私はとっても偉かった。

運動会が終わった。
大きなイベントが終わると疲れと共に大きな安堵がやってくる。
今年は息子の初めての運動会で、娘の最後の運動会だった。
それだけでじゅうぶん、一大イベントなのだけど、どうしたって避けられないお弁当が何より「一大」だ。

娘も息子も始めてだとか、最後だとか、そんな大きなことは考えていないのだから、私がそのあたりに敏感になる必要はあんまりない。
けれど、確実におひるごはんの時間はあるわけで、家族の胃袋を管理する身としてはやはり気が抜けない。
用意しない選択肢はないのだ。

先進的な発想をお持ちのお母さんなんかは、仕出し屋さんとかでお弁当をあらかじめ注文しておいたりする。
さっぱりと淡泊なお弁当を用意するだけの人もいる。
そう、それでいいのだ。別に家族のだれもにぎにぎしいお弁当を望んでいるわけではないのだ。
それでも私にはつくらないという選択肢がない。
まるで何かの呪いにかかったように、夜中まで下ごしらえをして、翌朝は早起きをして、それでもなお直前にばたばたするのが分かっていながら、つくってしまう。
半ば泣きそうになりながら、つくってしまう。

だって、だって。
私はとてもとても小心で、自己肯定感がとてもとても低いから、お弁当をつくらなかったとすると、つくってあげられなかった自分にものすごく落ち込むのだ。
ポンコツポンコツとわかっちゃいたけど、やっぱり駄目な奴だな、という気持ちがつきまとう。
そして、子どもたちのことが不憫に思えてしまう。
世の中には子供が好きなキャラクターを模したお弁当を用意して運動会にやってくるスーパーお母さんもいるというのに、私ときたら包丁ひとつ握らずに外注したのか、と泣きたくなる。
そして、あろうことかその事実をおそらく何年も引きずるのだ。
それと天秤にかけたら一日くらい寝不足になってもお弁当をつくったほうが精神的なダメージははるかに少ない。
普段、たんまり寝ているのはこういうときのための貯蓄なのだ。たぶんね。

話は少しそれるのだけど、私はお誕生日なんかのパーティーにつくるご馳走はあまり負担に感じない。
むしろ楽しい。
特に夫の誕生日につくるのはほんとうに楽しい。
彼はなんでも、しかもたくさん食べてくれるので、私がつくりたいようにつくりたいだけつくることが許される。
食材を少し贅沢に買って、いつもは栄養や塩分にばかり気をとられてつくっているけどこの日だけは好きなようにつくればいい。
楽しいのだ。

けれど、お弁当となるとそうもいかない。
まず、箱がある。
その箱に見合う量が必要だ。普段、食事を箱に詰めることなんてないから量を測りかねる。
幼稚園でたまに、「お弁当の日です」と言われるのとはわけが違う。
彼らが携帯するのは小さなお弁当箱で、運動会に使われるのは重箱みたいなあれだ。
初めての運動会の時なんて、そのことに気が付いたのはなんと運動会の朝で、慌ててあちこちひっくり返してようやく黒塗りの重箱を探し出してそこへお弁当を詰めたのだった。
以来、我が家にはかわいいお花のイラストがついた大きな二段のお弁当箱がある。
しかし、それを使うのは一年のうちで運動会だけなのだ。
まだまだ、箱と私の距離は縮まらない。
そして、運動会は好天の日に行われるものだから、傷まないものだけに中身も限定される。
足りない知恵をより合わせて、なんとかそれらしいものをつくるのはエネルギーの消費がすごい。
前日の夜に下ごしらえをしなくてはならないのに、つくり始めるまでになんだかんだと言い訳やら用事を考えて、つくるのを遅らせてしまう。自分の首を絞めると知りながらぐずぐずとnote を書いてみたりする。誰かのnote やツイートを眺めて、今は忙しいんだよねぇ、などと思ってみる。
気が付けば時刻は23時半だった。
やったことと言えば、エビを解凍した、だけだった。
もはやホラー。

こんなことして遊んでる。


かと言ってつくらない選択肢は前述したように「ない」のだからホラーのど真ん中で包丁を握る。
解凍したエビの背ワタを取る。
エビフライにするつもりだったけれど時間がないのでガーリックソテーにシフトチェンジ。バルサミコドレッシングで和えて味付けも省略。
卵焼きや唐揚げも朝から落ち着いてつくるのはほぼ無理なので、真夜中の台所でせっせとつくる。
あれとこれをつくりながらなんとなくお弁当の輪郭が見えてきた。
ホラーが少しずつ明けていく。

これでよし、と布団に滑り込んだのは真夜中3時だった。

ここまで読んで勘のいい人は、こういう人はけっきょく朝大寝坊するんやよな、と思っておられるだろうが、そこはポンコツを上回る小心が働いて奇跡的に起きられた。6時15分に起きた。えらい。

けれどここまで周到に頑張っても遅刻ギリギリになって、布団をあげる暇もなく飛び出していったあたり消せないポンコツがきらりと光ってしまうのだけど。

運動会の子どもたちはほんとうにかわいかった。
年長児はみんな三年間の成長に泣きたくなる立派な姿だったし、年少児はおぼつかないお遊戯がとても愛しかった。
先生方の姿は毎年のことながら心を打たれるものがあった。子どもたちを輝かせるためにどれだけの苦労と労力を費やして下さるのかと、頭が下がる。
とても、素敵な一日だった。
子どもたちにとっては、秋には珍しい照りつけるような日で、しんどかったかもしれない。出番がない間は退屈だったかもしれない。
大勢の前で緊張したり、恥ずかしかったり、ただ愛でている親たちとは違う思いがあったことだろう。

だからね、その一日が何年か後に振り返った時に、なんとなくでもいい日だったと思えたら嬉しいから、お弁当をつくる、という気持ちもあるのだよね。
楽しませてもらったお礼に、楽しかった思い出になるお手伝いをしたいよね、と思ってしまうよ。



また読みにきてくれたらそれでもう。