また、苦手の話

以前、ATMでお金を降ろすのが苦手、と書きましたが、今回もまた苦手の話。
車の運転が苦手。
どのくらい苦手かというと、昨年4月に義母から譲り受けたピカピカの中古車が8か月経過の今月現在四方八方に擦過傷及び打撲跡がある、と言えばその凄惨な運転ぶりをご理解いただけるかもしれない。
もちろん運転中はいたって真剣だし、とてもまじめで謙虚なドライバーだと自負している。苦手なのは駐車と左折と幅寄せだ。
対して夫は全く車を擦ることもぶつけることも無い。
夫と私は何かにつけて正反対なのでこの運転の得手不得手に関してどのソースを使うのが適切か考えた。

注意深い夫と注意力散漫な私。これかもしれない。
理系の夫と文系の私。これかもしれない。
データを重んじる夫と感覚で生きる私、これかもしれない。

なんだかどれもしっくりとこない。
ある日、夫に買い物を頼んだ。
ニトリで買った丸皿の使い勝手がとてもよかったので追加で買ってきてほしいと頼んだのだ。
ここの所かなり頻繁に使っているし、夫にもその皿で食事を提供している。いつものアレ、で通じると思ったのだ。なんといっても夫はしっかり者だ。
が、夫が持ち帰ったお皿は我が家のそれよりも二回りほど小さかった。私は驚いた。
夫に訊くと「間違いなくこれだと思ったんだけど」と歯切れの悪い言葉が返ってきた。

これだ、と直感した。
私と夫を決定的に仕分けるものはこれだったのだ。
夫には空間把握能力が著しく欠如している。私は空間把握能力に長けている。苦手だらけの私が自負できる数少ない能力だ。(あと一つ勘が鋭いってのもある。本気です)
夫に余ったおかずをタッパーに移してほしいと頼めば見当違いの大きすぎる(または小さすぎる)タッパーを選んだりする。
夫には空間把握能力がない。
ならばどうして夫の運転が優秀で、私の運転にあらが目立つのかということになる。
それは空間把握能力というのは本質的に備わっているものだからということだ。
さらに言うと、本質的に備わっているからこそ、身体で把握できる大きさ以上には認知できないことになっている。に違いない。
以前、軽四自動車を運転していた頃には私は車をぶつけることも擦ることもほとんどなかった。ところが、だ、ミニバンに乗り換えたとたんにこのありさまだ。私は毎日ミニバンを運転しながら「把握ができない」と漠然と思ってきた。把握できない分をおつむでカバーできれば良いのだけれど、あいにく私はおつむが弱い。夫は把握できないものに対しておつむでカバーする術を三十うん年の間に培ってきたのだろう。私は天から授かった空間把握能力を持ち合わせてしまったがためにどうにもこうにも肉体を超える大きさとやりあうことができないのだ。なんということ。
そんなわけで私は今、再び軽四自動車を運転する運びとなっている。運転席に座って左手をよいしょと伸ばせば助手席側のドアまで手が届く。これぞ把握しきれる大きさというものだ。幅寄せの不安も一気に解消された。
がしかし、やはり軽四自動車たるもの安定感が足りないし、風が吹けばあおられる。衝突された時のことを思えば不安がないとは言えない。
頑健なボディと安定感と、私が把握できる大きさを兼ね備えた、できればスライドドア(こちら風が強い地域なのでドアがすぐにあおられてしまう)の車があれば教えてください。車種にはどうも明るくないので。

また読みにきてくれたらそれでもう。