怪談百物語#41 もうだめです
飲みに行って帰りが遅くなった。
妻への言い訳もネタが尽きてしまって、どうしようか悩みながらコンビニで時間をつぶす。
こんなことしている場合じゃないが帰りたくない。
どうせ怒られるんだろう。このままコンビニに住ませてくれないか。
ご機嫌取りのためにゼリーとプリン、好きなアイスをかごに入れてレジへ。
「あ、ポイントおねがいします。」
酔いのまわった頭でもポイントは逃せない。
付けなきゃまた怒られる。
レシートを捨てて証拠隠滅しようにも、現物を渡すんだから意味がない。
コンビニを出て、しぶしぶと家に帰る。
「ただいま。これ買ってきたよ。」
息を吸いながら声を出す。少しでも酒臭さが出ないように。
「おかえり。」
――おそかったじゃない。
聞きたくない言葉が聞こえる。午後10時過ぎ。
やはり遅いか。
わかり切った答えと甘味の無力さに嘆きを隠せない。
「いや、後輩が飲み潰れて大変だったんだよ。」
コートを椅子の背にかけて席に着くと、水道水が入ったコップが置かれる。
無言で向かいの席に着く妻の目を私は見られなかった。
テレビのリモコンに手を伸ばす勇気はない。
無音の部屋に話を促されるように、乾いた喉が声を紡いだ。
「俺が進めたわけじゃないよ?ただ久しぶりの飲み会で、ペース配分がわからなかったみたいでさ。もう店を出たら一気に回ったのもあってベロンベロン。電柱に抱き着いて一歩も動かなくなったんだよ。季節外れの蝉かってね。ははは。」
沈黙が戻る。この話は防音室のように響かなかった。
「それでどうしたの?送っていったわけじゃないでしょ?」
こんなに遅くなったのはほかの理由があるんじゃないの?とでも言いたげな問いに心拍数が上がる。
無酸素運動、息を吐く暇もないほどの緊迫感。
高山トレーニングですらもう少し濃い酸素が吸えただろう。
「電柱からひっぺがしたはいいものの、次の電柱でも同じように抱きつくわ、そのまた次の電柱でも抱きつくわ。何とかタクシーに乗せたんだけど。いや本当なんだって。信じられないかもしれないけど、本当に大変だったんだから。」
妻の顔を窺うと、どうやら気にかかったことがあるらしい。
器用に片眉を下げながら上を見る独特な表情。
学生時代から考え事をするときの妻の癖は今も抜けない。
そういうところが可愛いんだよな。
「それっていつものお店?」
「いや、今日は別の店。うちの最寄り駅ならみんな定期の圏内だから来てもらったんだ。駅前にうまい居酒屋を見つけたんだ。世間が落ち着いたら一緒に行こうよ。」
行きつけの店は時短営業に協力していて、早い時間に閉まってしまうのを妻は知っている。
それで嘘でも吐いたと思われたんだろうか。危ないところだった。
「それって川沿いの焼き鳥屋さん?」
余計に気になったのか眉間にしわが寄り始めた。
「そうそう。それで駅までの電柱全部に後輩がしがみついてさ。それがもう大変だったんだって。」
言い訳がましく聞こえるだろうが、すべて事実だ。
「しがみつきながら『もうだめです、もうだめです。』ってずっと叫んでてさ。周りの店から人が出てきて、白けた目でこっちを見てたんだ。たまったもんじゃなかったよ。」
本当に迷惑な奴だよあいつは。
悪酔いした後輩に全ての罪を擦り付けた。悪い、俺だけでも助かりたいんだ。
下げていた頭を揚げると、妻が可哀そうなものを見る目をしていた。
「あの辺で飲んじゃダメ、って同居する前に言わなかったっけ。」
俺がここに住み始めたのは、今年の春からだ。
以前はここで妻の家族三人がすんでいたが、結婚を機に俺たち夫婦にここを貸してくれたんだ。
会社へ通いやすいだろう、と言って鍵を渡してくれた義父には今も頭が上がらない。
「駅前のあの地域はね、平成の中ごろかな。川が決壊して一度更地になったのよ。かなり大きな台風が上陸したせいなんだって。今日みたいな夏の日にね。」
両親から聞いた話だから詳しくはわからないけど、と続けて妻は言う。
「父がね、電柱や木にしがみついてるの人達を見たらしいわ。幸いここはそんなに被害がなかったけど、川沿いは全滅あったんだって。家後と流された人も痛そうよ。」
妻の声がどんどんと沈んでいくのがわかる。
「後輩の姿がそれを侮辱したみたいに見えたのか。あの辺りに済む人には申し訳ないことをしたな。」
「違うの、たぶんそれは皆理解してくれてると思うの。」
「違うって何が?」
「この時期にあのあたりで飲むとね、たまにいるのよ。電柱にしがみつく人が。その人達は決まって『もう駄目だ。』とか『助けて。』とか叫ぶんだって。」
たぶんあの人たちはわかってるのよ。というと妻は席を立ちキッチンヘむかう。
意味の分からない俺は座ったまま、黙って水を啜る。
冷たい水を飲んで酔いが少し冷めたころ、目の前に湯気の立ったお茶漬けが用意される。
「大変だったでしょ。」
妻のねぎらいの言葉とお茶漬けの良い香りが腹を押し広げた。
「いただきます。」
それだけいうと俺は無言でお茶漬けをかきこんだ。うまい。
「抱きつく人をね、置いて帰る人が多いの。どうやっても離れないし。何度剥がしてもすぐまた抱きつくしね。あの辺りに住んでる人達は皆、置いて逃げた人達なの。流されそうになっても『自分だけでも助かりなさい。』って言われたり、見ないふりして逃げた人達。電柱にしがみついて叫ぶ姿を、あの人達は色んな思いで見ていたんだと思うわ。それをあなたは無理やり引っぺがして、何とかタクシーに乗せてあげたんでしょ。」
――偉いと思うわ。
妻のその一言で天にも上る気分になった。
結婚してよかったなあ。
俺は改めてそう思った。
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