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怪談百物語#98 泳げない海

大学の夏休みに海へ泳ぎに来た。
シュノーケルとゴーグル、海パンだけを持って一泊二日の一人旅。
日本海で泳ぐのは初めてだ。

わざわざ泳ぎに来たと言っても、そんなに泳ぎが得意ではない。
遠泳なんてしたことない。
クロールくらいしかまともにできない。
それでも海で泳ぐのが好きだ。
プカプカと浮かびながら、泳ぐ魚を見るのが大好きだ。
子どもの頃父親に連れられて沖縄へダイビングしに行ったことがある。
その時に見た魚の綺麗なこと。
色とりどりの魚が、まるで竜宮城のように泳いでいた。

沖縄じゃないとあの風景は見られない。
それでも海ならどこでも好きだ。
今日もホテルに着くと荷物を投げて、すぐに海へと飛び出した。
ホテルが持つプライベートビーチはとても狭かった。
浮かぶ分にはちょうど良い。
ネットの端から端まで、仰向けになったり俯せになったりしながら行き来する。
プカプカと海月になった気分だ。
来て良かった。そう思える一日だった。

ホテルに戻ると即シャワーを浴びる。
ドライヤーは一瞬で終わる。
短髪の特権だ。
夕食はビュッフェだというが、このご時世だ。
料理は小分けにラップされて置いてある。
それを取って食卓に戻る。
レストランなのにまるで食堂みたい。

新鮮な海の幸を平らげると部屋に戻ってすぐに寝る。
明日も泳いで帰ろう。
チェックアウトは遅めのプランを選んだ。
目覚めは七時。
普段通りの起床時間。
朝食は食べ放題のパンと卵とみそ汁。
ソーセージは品切れだった。
いいのかそれで。
怒りと共に海へ来た。
今日もシュノーケルとゴーグルをつけてプカプカ浮かぶ。
今日は海の底を満喫する。

この地方では穏やかな天気が続いているようで、海の透明度は高い。
胸から上が出るくらいの比較的浅い場所。
そこならしっかりと海底が見えるほど。
シュノーケルを水面から出しながらゆっくりと足を動かして泳ぐ。
小さな魚の群れが体の下を通り抜ける。
これが見たかった。
避けずに通り過ぎる魚たちを見ると、自分が海の一部になったようでとても嬉しい。
そのまま泳ぎ続けているとネットが見えた。
いつの間にかプライベートビーチの端まで泳いでしまったようだ。

反対側の端へ向かって折り返す。
シュノーケルを水面から出して、プカプカと。
 ――ぺっ、ぺっ。
シュノーケルに異物が入った。
海藻が入るのはよくあることだ。
管に詰まったようで呼吸ができない。

一度海底に足を着いて、水面に顔を出す。
口の周りに海藻が張り付いているようでベタリと気持ちが悪い。
手で口を拭って海藻を取ると、黒くて細長い糸のようなものが腕に張り付いた。
これ、髪じゃないか?
そんなわけがないと、シュノーケルの詰まりを取るために思い切り息を吹きこむ。

――ぴちゃ

海面に飛び出したのは皮膚のような小さな破片と、そこから生える髪だった。
呆然とするうちにそれは、沖の方へと流れて行った。
海で変な目に遭うのはしばしばあることだ。
でもこれはちょっときつい。
ホテルに戻って帰り支度を始めた。
アメニティのうがい薬で何度も口をゆすぎながら。
もうこの海に来ることはないだろう。
ダイビング雑誌の付録でついてきた地図にバツ印を付ける。
これで五ヶ所目。
泳ぎに行ける海がどんどん減っていく。
どこの海になら安心して泳げるんだろうか。
 ――はぁ
大きなため息が地図を揺らした。

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