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#8 第7回までを振り返って

今日はこれまでの振り返りを行おうかなと思います.

木庭先生の著作の,言葉の分量と密度,そして分厚い教養の蓄積に戸惑ったにもかかわらず読み進めることで,逆に生まれてきた批判的,自律的な思考と省察ーー.

なんていうほどのものではないですが,実はこれまでの記事については,公開してから,後悔している(?)というのが正直なところです.検討の至らなさや視野の狭さを痛感しています.

さて,今日は,そうした公開(後悔)してしまった記事が,予定ではおよそ三分の一くらいに達した段階なので,一回目から振り返ってみたいと思います.

各回の内容を要約するというより,少し補足したり,背景を説明することで,問題意識と主張をクリアにしたいーそれが更に無知をさらす原因となるかもしれませんがーという趣旨となります.

全体的な感想

それでは,第1回から第7回の振り返りと重複するかもしれませんが,問題意識をまとめたいと思います.

まず,政治とデモクラシー論ですが,「徒党」「互酬関係」「最後の一人」といったキーワードは,今の日本に当てはまる側面はあると思いますが,「1かゼロか」という舞台設定が,知らず知らずのうちに議論を狭めている可能性を懸念しています.

例えば,集団への警戒感も行き過ぎると,個人をバラバラに(分節)してしまい,かえって「徒党」をのさばらせる結果になりはしないかー「デモクラシー」における連帯という対抗概念は理解できるものの,コミュニティや結社,政党という「集団」が地方自治(ひいては社会秩序)を支えるというアプローチの方が,健全でバランスが取れていないか,と.「集団」のマイナス面ばかりを見て,ひたすら解体を目指し,「分節」と「言語の使用」に置き換えることは,困難ではないと考えます

「互酬関係」についてもそうです.マルセル・モースの『贈与論』を背景とし,これをあらゆる人間社会に普遍的な現象として捉え,「政治」というのは,交換(échange)に基づく支配従属関係からの解放を目指す営みであると定義されます.

しかし,「互酬関係」や「対価性」は,アプリオリに排除されなければならないのでしょうか

例えば,封建制に見られる「互酬関係」は,君主の支配と諸侯の従属ばかりを意味しません.「互酬性」は,君主の義務の諸侯たちの権利という観念を生み出し,そこに人権概念の萌芽を見る見解もあります.

また,「対価性」という面では,例えば,今のアメリカの政党政治は,利益団体への貢献が行動原理であるとされています(『アメリカの政党政治』岡山裕著,中公新書.p.20).むろんそこには問題がないわけではありませんが,それらを排除した「政治」概念は,理論的な整合性には目を見張るものがあるものの,現実批判の概念としては有用ですが,制度構築の基盤とはなり得ないと感じます.

これに対して占有論は,確固とした歴史的伝統を有し,相対的に崩壊を免れ(木庭先生もそう言います),重要な法的概念であるとと思います.ただ,英米法との対比で省察すると,木庭先生の「ローマ法」理解の特徴である,占有が「法」そのものであるといった原理的思考は,適用範囲を誤るおそれがあると思っています.

なお,共通するテーマが取り上げられており,前の方の回を受けて,後の方の回で議論が発展させられるので,前半の回は短めで,後半の回(特に第6回,7回)は長くなってしまったことをご容赦ください.

第1回 占有でなければ保護されない?

1回目では,自衛官合祀訴訟を取り上げました.正直,木庭先生がこの判例をなぜ,『誰にために法は生まれた』の最後に取り上げたのか,実はやや不思議な感じはしました.それは,占有概念の典型的な適用例ではなく,また占有で解決するというには,やや危ういケースにも思えたからです.

1回目での記事で触れましたが,「対象との間の個別的で固い関係」を一刀両断に見極める,という占有のアプローチをとる場合,葬送儀礼との関係の一義性を論証する点で,ギリシャ流の葬送儀礼という特殊性に拠らなければならない点にやや難があります

また,原告を「最後の一人」と判断するには,事例の特殊性に依存し過ぎており,このような構図が描けない場合は保護されないという印象すら与える面もあります.

典型的な占有の対象物ではない,やや応用的な占有概念の適用においては,「対象物」を定め,その「対象物」との一義的な関係の論証に課題を残すという,占有を通じた救済の特徴とその限界を浮かび上がらせています

また,後でも取り上げますが,木庭先生にとって,この判例は「信教の自由」などではなく,「精神の自由」の問題として位置づけられます.それがより適切に問題を捉えていると考えるのか,重要な人権の一つを迂回しようとしているのか,という問題意識があります.

古代ギリシャ・ローマの知的伝統にのっとる場合,「信教の自由」の取り扱いは,現代社会が考える以上に難しいものとなります.木庭先生にしてみれば,現代社会ではこの問題を真に解決し得ていないということになるのだろうとは思いますが.そのような見解の違いの背景は,第7回で改めて論じます.

第2回 憲法9条と占有とホッブズ

第2回では,『憲法9条へのカタバシス』を取り扱いました.日本政治における改憲議論を背景に,憲法学の長谷部先生や石川先生がメディアにも登場して発言していたのとは別の形で,木庭先生なりに,学者としての良心から,憲法9条に関して取り組んだものと思います

そこでは,主にホッブズによって練り直した占有概念から説き起こすことを通じて,安易な改憲議論をけん制し,憲法9条を擁護する姿勢が窺われます.

憲法9条も占有によって解釈できるという主張が一部の研究者等にも一定のインパクトを与えたことは,全く異なる文脈で憲法9条を論じている江藤祥平『立憲主義と他者』の最終章において,卒然と「木庭顕に倣って」との一言が現れ,解釈論としてはこれに従うということが示唆されている点にも,現れていると思います.

第2回では,国際社会を規律する戦争放棄という概念を「占有」に帰せしめるには,法(占有)が原理的に必要とする裁判という制度が国際社会にあるのか否かを問いました.

一方に占有あり,一方はなし,と決定するには高度で専門的な価値判断が必要となります.そのような判断ができないならば,占有を振りかざすことはかえって醜悪なことにもなりかねません(『法存立の歴史的基盤』p.1287参照).

木庭先生は,国際連合は「司法制度」であるという微妙な言い方で表現し,かつ,実力装置を兼ね備えている点を肯定していますが,本来的な裁判制度の在り方からは,やや飛躍しているのではないかと感じます.

もちろん,国際社会においては,当面の間,国内社会のような裁判制度は期待できないかもしれませんし,その間における法の発展は,当然進めなければならないでしょう.

自己保存の濫用について懸念することは,理論的にも現実的にも,もっともな問題意識であると思います.しかし,自己保存の保障を全うする仕組みよりも,濫用の危険を重視し,占有概念の適用という理論的(実体法的)な整合性に心を配りすぎて,手続面の検証がおろそかになっている印象も受けます.

国と国を構成する多数の個人の運命と利害が,その判断に賭けられることになります.国際社会において,占有の有無を判断し,その侵害を保障する制度的条件について,国内社会との違いや制度の発展的な経緯にも目配りした議論が期待されます.とりわけ「占有」という厳密な意味での法を語る時,それに相応しい制度ー欠けている要素や発展の度合いーもまた厳密に考えることが必要でしょう.

なお,木庭先生の議論は,最終的には,ホッブズの主張が担保していると思われます.ホッブズの『市民論』『リヴァイアサン』は,今後の課題として,議論していきたいと思います.

第3回 都市の成立と公共空間

第3回では,「占有」概念関わる問題から転じて,政治成立の前提とされる都市と領域の区分(分節)について考えました.本来,順番としては,「政治」が「法」に先行します.

法は,政治とは相対的に独立した成立要件と意義を有していますが,もちろん,政治を含む社会的所与に基づいて営まれます.

都市と領域の二元構造は,政治の存立と連帯の関係にあります.政治は,交換(échange)が展開される通常の空間とは区別されて展開されなければなりません.それが都市という空間となります.

ただ,木庭先生は,日本において「都市」とはどこにあるのか,という点への言及は,慎重に避けています.素直に考えるとそれは,永田町であったり,霞が関であるのかもしれませんが,そのような言い方はしません.その代わり,「山の手」は都市周辺の「市民的街区」であるといいます.

具体的に言及すると,陳腐に聞こえてしまうからでしょうか.日本において政治を成立させるためには,どこが本来的な都市であるのか,そして,そのような空間の条件とそこで営まれる活動の特性について具体的に語ることが期待されているように思います.古代ギリシャの時代から,政治の空間が持つべき特性が変化したか,しないのか,「市民的街区」よりも先に議論すべきであったと思います.

例えば,古代ギリシャにおいては,神殿が都市の成立に大きな関係を有しました.神々という概念を巧妙に使って実現されたのです.神殿は,誰でもアクセスできる公共空間の創設に関わりました.また,神殿に対する贈与は,公共施設(神殿)の建設と人々への分配の原資となり,公共空間を支えました.

では,今の日本において,真の公共空間を作り上げるには,神殿は必要でしょうか.公共空間を創出し,公共という概念を涵養するためにも,少なくともそれに代わる何かが,必要なようにも思われますが,そのような形での具体論は展開されません.

また第7回で詳しく扱いますが,ここには,古代ギリシャにおける宗教の取り扱いに注意しておく必要があります.「〈分節〉を実現して政治を成立させるためにはポリスは宗教の利用を不可欠としたが,しかし,その利用の仕方は精巧なもので,ほとんど同時に宗教そのものを中和してしまう,そうした性質のものであった」(『政治の成立』p.332).

そして,「人々の行動もほとんど演技にすぎない祭祀という形式のみを備え信仰を全く欠くものとなる」(同p.333)と述べています.同様の制度を持つことは,日本において公共空間を成立,維持するために必要なのか,必要ではないのか.木庭先生の議論はやや宙ぶらりんのままとなります.

第4回 政治概念の「欠如と過剰」

木庭先生は,特別な言葉遣いをします.「パラデイクマ」「分節」「ジェネアロジー」,そして「ディアレクティカ」という用語...

第4回では,そうした木庭先生の用語について,少し取り扱いました.ざっと振り返ると,イメージ(パラデイクマ)は,明確に区別(分節)されなければなりません.そのためにも,言語は不可欠です.また,テリトリーの上に存在する人々の集団も,「ジェネアロジー」を基礎に相互に依存した状態にあっては,自由で独立した関係にあるとは言えません.様々な場面で「分節」を駆使して成り立つ「ディアレクティカ」は,「政治の成立」と密接な関係に立ちます.

都市で行われる特別な言語活動と決定を要とする政治システムーー.その遂行のため,政治制度を細心の注意と叡智の限りを尽くして構築しようとした古代ギリシャ,ローマの人々の努力には,敬意を表します

しかし,木庭先生が政治という営みを「都市で行われる特別な言語活動と決定」と厳密に定義したことは,むろん批判の対象となります.

第3回では,そのうちの「都市」について考えましたが,第4回では,「特別な言語活動」について取り扱いました.そのような明確なパラダイムを打ち出すことは,人々の反省を促し,より深い省察を行う素材を提供するという意味からも,重要な意義を持つことは否定できません.

しかし,こういう問題提起もできると思います.古代ギリシャ・ローマにあらゆる範を見いだそうとする姿勢には,何らかの留保も必要ではないか,具体的には,言語(ロゴス)に過大な役割を担わせようとすることには,可能性と同時に限界が示されているのではないか,と

例えば,トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』では,言語によって制圧しようとした「団体」「利益」「権力」への志向が,社会を支える要素として生き生きとして描かれ,それらには応分の場所が与えられています.

政治というものを,言語によって「団体」「利益」「権力志向」を制圧しようとする「特別な言語活動」としての定義づけるとき,そのような政治は仮に一時的に成立し得たとしても,人の営みとしては維持する十分な養分を得ることができず,ついには瓦解していく可能性を内包しているのではないでしょうか.

それは,ある意味,人間の特性に根ざしており,そのような「政治」の困難さは,「人文主義の伝統」に立ち返れば克服できるようなものではないと考えます.標語的にいうと,人が政治のためにあるのではなく,政治が人のためにあります.もちろん,集団の暴走や,利益の私的追求は,忌むべきことだと思います.しかし,言語の使用に問題の全てを集約することは,最初に述べた通り,理論的な整合性には目を見張るものがありますが,現実的な解決方法を提供し得ていないのではないかと思います.

現代では凡庸な概念とすら思われる近代啓蒙思想の産物ー国民主権,中央と地方の権力分立,三権分立,人権思想ーは,古代ギリシャからの伝統を受容しつつも,断絶と言ってもいいほどの飛躍がそこにあり,批判を欠かせないとしても,そこに正当な評価を与えなければならないのではないか,という問題提起です.

第5回 スピノザとホッブズの対抗に見る「政治」概念の解体

第5回は,番外編です.福岡安都子先生の『国家・教会・自由 増補〔新装版〕』を素材に,ホッブズとスピノザの対抗から,政治システムに関する含意を引き出そうとしました.

まず,議論の特徴としては,ホッブズの「1かゼロか」というアプローチは,木庭先生の議論と極めて類似しているという点が指摘できるのではないかと思います.

ホッブズは,主権的預言者という概念を創出して,人と神との直接的交渉を遮断します.強いバイアスを帯びた聖書の解釈によってそれを遂行し(『国家・教会・自由』p.326),宗教と教会について,主権者に極めて広範な権限を与える議論をします.

「ほとんど数学的なまでの”全”対”零”の関係として描く」(同p.335)ホッブズの構想は,「政治的システムの破壊の有無(中略)すべてが1か0である」「一方に占有を認め,他方をゼロとする」という木庭先生の思考(志向)と不思議と共鳴します(『新版ローマ法案内』p.54,p.57).

また,これも第7回で改めて取り上げますが,アプローチの仕方だけではなく,具体的に問題となっている「宗教」に対する態度についても,ホッブズと木庭先生の間には,極めて類似したものを見ることができます.

ホッブズは主権的預言者という概念によって,主権者に宗教に関する権限を帰属させました.僅かに「イエスがキリスト(つまり救世主)である」という1点のみを除き,キリスト教の教義すら制定する権利を与えました(『国家・教会・自由 増補〔新装版〕』p.42).

これに対して木庭先生は,「宗教に固有の絶対的最終的論拠を政治システムが接収してしまう」(『誰のために法は生まれた』p.384)ことをホッブズの構想であると認め,スピノザの議論をー福岡先生の名前とともにー紹介はしつつも,ホッブズに対するシンパシーを隠そうとはしません.

これに対してスピノザはー大局的には「Hobbesiani」に属すると評価することも可能かもしれませんがー,ホッブズが分け入らなった聖書解釈の襞に入り込み,「哲学と神学の分離」「哲学する自由」を切り出します.しかし,ことここに至ると,「哲学」と「神学」はそもそも分離可能であるのか,結局のところ「信仰の自由」と「哲学する自由」を截然と分けて,前者を排除することが原理的に可能であるのか,という疑問も湧くところです.

第6回 ローマ法と英米法の距離

比較法という分野もありますが,そのような確立された学問とは別に,木庭的な「ローマ法」というものと,ごく教科書的となりますが,「英米法」とを簡単に対比させてみようというのが,第6回のテーマでした.

まずローマ法の理解自体が曲者です.木庭先生は,『ローマ法案内』旧版において,「ローマ法」と言われるものが反「ローマ法」であり, 反「ローマ法」と言われるものが「ローマ法」であることがあると指摘します(12頁).

むしろ,「エクイティーを中核とするイングランド法やアメリカ法ほど「ローマ法」に近いものも無い」(同)とまで言います.

ただ,そうした場合,政治,デモクラシー,法の起源を,古代ギリシャ,ローマに求める木庭先生の主張はどうなるのでしょうか.

実は,旧版ローマ法からは新版ローマ法では,上記の英米法に関する言及が削除されています.代わって,新版ローマ法の冒頭に置かれるのが,「ローマ法が今の法律学の土台を成しているということは動かない事実である」という言明となります.

それでは,新版では削除されましたが,「ローマ法」と言われるものが反「ローマ法」であり,英米法こそが,ローマ法に近いのでしょうか.

第7回では,木庭先生が再構成しようとした「ローマ法」は,「占有」を軸とした体系性への強い志向を見ても,やはり英米法との距離は大きく隔たっており,これほど「近いものは無い」とは評価し難いことを論じました.

また,ここでも「政治」の困難と共通の問題があるように思われます.英米法が,その体系性の欠如,歴史的淵源の多様性にも関わらず,総体として「活力と堅固さ」(vitality and tenacity)を保っているのに対して,「占有」概念-ローマ法原理の核心ーは,近代法においてその基底的な意味が失われているのが最大の問題であると認識されています.

なぜ,英米法は,ゲルマン的な慣習,ローマ法,教会法,さらにはエクイティという法体系を最終的にまとめ上げて,そこに決定的な混乱も困難もないように見えるのでしょうか.

他方で,占有概念は,人文主義の伝統がありながら,十分には理解され,定着したと言えない状況にあるのでしょうか.

第6回で触れた通り,英米法も占有という概念はローマ法から借用したとされていますが,理論的な優位性というより,有用性から導入しており,概念を先行させるアプローチとは,やはり一定の距離があり,そこに現在のような状況をもたらした理由があるようにも思います.

木庭先生は,法もまた社会的所与であるとしながらも,「占有」こそが「社会の質」を担保するというアプローチを取ります.鶏が先か卵が先かという議論になりますが,占有が社会の質も担保するというより,占有を担保する社会的所与を探求することが必要なのではないかと思います.

私がここで答えを出せるわけもありませんが,議論のためにトクヴィル『アメリカのデモクラシー』を参照するならば,(ある質を伴った)習俗,家族制度,宗教を候補に挙げることができるかもしれません.

様々な歴史的淵源を持つ英米法を総体として統合し,結び付けている諸要素は,法そのものではなく,それら法の外に社会的な諸現実であるはずです.占有原理と法そのものであるとするとき,占有は何者にも支えられず,自ら(法)を支えることができるでしょうか.問題提起だけしておきたいと思います.

第7回 占有と人権の距離

第7回は,内容的には第1回と少し共通します.「基本的人権は,権利ではなく,占有である」という木庭先生の言明を通じて,占有の射程について再考し,人権との差異を見いだそうとしたものです.

今一度,占有の出自について,おさらいしたいと思います.木庭先生によれば,ローマは,ギリシャからデモクラシーをも輸入したものの,領域において第二次的結合体が十分に育ちませんでした.そこで,「地面にしがみつくことの堅固さが,地中深くに打ち込まれた風に飛ばされない杭のみが,その一義的証明性だけが,新しい垂直水平両方向の自由を保障した」(『新版ローマ法案内』p.54).

他方で,人権は,教科書的には,その出自は天賦人権説が通説とされていますが,より対比を明確にするため,ゲオルグ・イェリネック(Georg Jellinek)を素材に取ると,具体的には,個人の有する不可譲,生来的,神聖な諸権利という観念は,信仰の自由に基づく国家を打ち立てようとしたピューリタンたちに求められます.近代人権思想は,啓蒙思想をその淵源とするというより,宗教改革とその闘争の結果であるとされます.

木庭先生が,そのような人権思想に対して,ある特別な問題意識を持っていることは間違いありません.

「信仰の自由」に対する強固な警戒感を背景に,占有概念を人権にまで及ぼすことで,歴史的淵源を断ち切り,すべて占有によって賄おうとしているのではないか.そのことは,『誰のために法は生まれた』において,人権,そして信教の自由を論じる終章からも推測されます.

「ギリシャやローマにも,(中略)実質的に実質的に人権の思想はあります.それどころかそこから来たとさえ言えます」(p.381).人権の起源もギリシャ・ローマに帰し,ある歴史的文脈に取って取って代わり,そこに人文主義という「教義」を打ち立てようとする.そのような壮大な試みを遂行しようとしているように考えられます.

しかし,占有とは「人と対象物の関係を保障する」原理です.これを貫徹し,「人を人として保障する」ことに置き換わろうとすることに,自らを危うくする契機は含まれていないでしょうか.木庭先生の問題意識では,占有の基底的な意味は忘れられ,理解されていません.そのような基盤の上に,人権概念をも置くことはできるのでしょうか.

「人間にとってとりわけ大事な占有は,この精神と身体だよね」と語るとき,「領域」との結びつきから,人権概念を下敷きとした方向に拡張と転換が行われたように見ます.しかしながら,そこから「人権」理念の影響を受けた痕跡を消し去り,かえって人権概念に取って代わろうとするのは,どこか「政治」が「宗教」を接収しようとしたホッブズとの共通性を見て取れます.その試みを単に静観するだけではなく,警鐘を鳴らさなければならないと感じたのが,第7回のモチーフとなります.

今後の予定

さて,本日はこれまでの振り返りとなりましたが,木庭先生の議論は,当然ながら内的に連携し,整合性を保ちながら構築されているので,いろいろなところに似たような問題意識が現れます.

やや繰り返しが多かったのは,主題の性質にもよるかもしれません.ご容赦ください.

全部を扱うことができないかもしれませんし,途中で変わるかもしれませんが,今後取り上げたいのは,次のようなテーマです.

・「デモクラシー」と「民主主義」との対比を通じて,逆に「デモクラシー」が見落としている「民主主義」の価値を再評価すること.

・『人文主義の系譜』にも触れながら,人文主義の持つ射程とその限界について論じること.

・ホッブズについて,とりわけ主権概念との関係で取り上げ,木庭先生に与えた影響とそのバイアスを分析すること.

・パラデイクマや分節といったタームを利用しながら(逆手にとって?)宗教(信仰)を解析し,「哲学」との相対化を試みること.

それでは,今日はこれで時間切れとなります.コロナもいったんは終わり?毎週のように複数の行事があるというのは,困りものですが,今日も恥を忍んでアップしたいと思います.

ちなみに,「逃げるは恥だが役に立つ」は、ハンガリーのことわざ「Szégyen a futás, de hasznos.」 の和訳で,「恥ずかしい逃げ方だったとしても生き抜くことが大切」の意味だそうです(wikipedia).

「恥ずかしい記事だったとしてもアップし抜くことが大切」ということでしょうか.読者の皆様の寛容を願います.

(11/8)誤記と言い回しを少しだけ修正しました.





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