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#5【番外編】スピノザとホッブズの対抗に見る「政治」概念の解体

今日はちょっと趣向を変えて,福岡安都子先生の『国家・教会・自由 増補〔新装版〕スピノザとホッブズの旧約テクスト解釈を巡る対抗』を取り上げたいと思います.

福岡先生は今,「東京大学 大学院・総合文化研究科 准教授」を務めています.東大では憲法の授業なども担当されているようです.

『国家・教会・自由』は,かの木庭先生も「学問の一つの頂点」として紹介しており,ぜひ手に取ることを勧めている著作です(それもできれば英語版で!『誰のために法は生まれた』p.304).

今日はその内容を概観しつつ,「スピノザとホッブズの旧約テクスト解釈を巡る対抗」に,「政治」概念を省察するいくつかのヒント(きっかけ)が隠されているのではないか,という問題意識から,考察を進めたいと思います.

ちなみに,福岡先生は,2013年に開催された東大の学術俯瞰講義「この国のかたち」でナビゲータを務められたので,下記リンク先の各動画(の始まりと終わり)で,少し姿を現します.

先生のお顔を見たいという方ーもちろん,長谷部恭男先生,刈部直先生,加藤陽子先生(かの日本学術会議の任命拒否で,渦中にあった歴史学者の方です)らの講義を聞いてみたい方ーは,ぜひ,こちらもご覧ください.きっと新しい発見があるはずです.

『国家・宗教・自由』について

さて,最初に『国家・宗教・自由』いかなる問題意識のもとに書かれた,どのような本なのか,簡単に掴むため,同書の冒頭から引用したいと思います(以下,引用はすべて「増補新装版」より.また,太字は引用者).

「本書『国家・教会・自由――スピノザとホッブズの旧約テクスト解釈を巡る対抗』は,……ホッブズの『リヴァイアサン』とスピノザの『神学・政治論』における,旧約聖書を中心とする聖書解釈につき,相互比較分析を施したものである.社会の秩序にとって基礎的なテクスト――当時の文脈においては聖書――をどのように解釈し,どのような意味を引き出すかは,とりもなおさず,精神的領域における権力と自由,支配と自律の問題にほかならない.本書が描こうとするのは,そうした議論の実験場としての,17世紀オランダという知的空間の光芒である」(「増補新装版刊行に当たって」より).

「UTokyo BiblioPlaza」(「東京大学教員の著作を著者自らが語る広場」)でも,福岡先生自らが,次のように解説しています(太字は引用者).

西洋史上、中世的な分権状態から近代国家が成立していく過程で、封建領主やギルドといった半独立の主体から中央の君主に権力が集中させられていくということは、世界史の教科書等でもよく取り上げられる事項と思う。(中略)今日の政教分離原則や信教の自由、思想・良心の自由、表現の自由などはこの歴史の産物である。しかし、この教会・宗教面での近代国家成立過程は、単なるパワーゲームの次元を超え、極めて高度かつ複雑に発達した「頭の体操」を伴うプロセスであった。この世界で「法」とはまさに聖書であり、神学者・宗教家のみならず、当時の一級の法学者・政治思想家たちもまた、聖書解釈を媒介項にペンのバトルをしている(「UTokyo BiblioPlaza」より抜粋)。

スピノザとホッブズが「聖書」の解釈を巡って「バトル」するその相互関係を分析するのが本書です.そして,そこに「政治」概念に関する含意を見いだそう,というのが今日のテーマとなります

なお,公法学者フベルスを扱った第Ⅰ部第1章,17世紀オランダの歴史も交えた同2章は,議論の舞台背景を設定する位置づけにありますが,主に取り上げるのは,本書の中核となる,第Ⅰ部第3章,第Ⅱ部全体(第4章から第7章)となります.

旧約テクスト解釈という磁場

さて,舞台は,17世紀のオランダです.スペイン=ハプスブルク家の支配に対する反乱運動の結果,新生の連邦制共和主義国家,オランダが成立します.

イングランド内戦や新生ローマ帝国(ドイツ)内の30年戦争などに疲弊した近隣諸国に比較し,オランダはプロテスタント圏内で比較的早く秩序を回復し,植民地貿易は,オランダに多大な富をもたらしました.

そして,異端審問を逃れてオランダに移住したプロテスタントやユダヤ人ら-スピノザもその一人ーは,オランダに経済的果実だけでなく,知的文化にも大きな刺激を与えました.

例えば,デカルト(1590-1650,フランス生まれ)も活動の場所をオランダに移します.ライデン大学(1575年創立)もある新生共和国の知的空間,開放性に惹かれたのかもしれません.17世紀のオランダは,「黄金時代」とも呼ばれます.

そのような新生オランダが直面したのは,「ユス・キルカ・サクラ(jus circa sacra)」の問題でした.それは,「世俗為政者の対宗教権限」を意味します.

オランダ自身,宗主国スペインからの独立戦争(1568-)によって生まれましたが,宗教戦争の余韻が残る17世紀,神の権威に基づく抵抗はどこまで認められるのか,「どこかで」区切りをつけないと,秩序は実現不可能ではないか,あるいは,教会の権限行使はどのように制限されるのか.そして,為政者の対宗教権限はいかに弁証されるのか,という問いが立ち現れます.

そのような問いが重層的な議論空間が構成する中で,あるテクストが参照され,解釈され,また,その中から解の探求が行われます.

そのテクストの中から答えが求められる,という前提が存在し,そこに参加する者が,思考の力を用い,持てる力を駆使して,問題を「解こう」とする.そこでは,通常考えられるより複雑で,繊細で,「テクニカル」な作業が行われる・・・

その対象となるテクストとは,「聖書」,とりわけ旧約聖書であって,その解釈を巡って,ホッブズとスピノザの「対抗」関係は生まれます.

ホッブズーその人と時代

トマス・ホッブズ(1588-1679)は,イングランドの代表的な政治思想家で,『リヴァイアサン』『市民論』などの著作で知られます.政治思想史のビッグネームです.

92歳という長寿を全うしたホッブズは,イングランド内戦やその後のピューリタン革命,王政復古の時代という波乱の時代を生きています.名誉革命の10年ほど前,イギリスに安定が訪れるのことを目にすることなく,彼は亡くなります.そうした時代背景は,彼の思想に間違いなく影響をーバイアスをー及ぼしていると思われるので,心に留めておく必要があります.

『リヴァイアサン』第3部は「キリスト教的コモンウェルス」に論じています(第1部は「人間について」,第2部は「コモンウェルス」について).第2部最終章(第31章)と第4部と合わせて,『リヴァイアサン』全体のほぼ半分を占めるのは,聖書をふんだんに引用した宗教論となっています.

(なお「光文社古典新訳文庫」は,『リヴァイアサン』を第2部までしか訳出していません.どのような判断でそうなったのか,不思議でなりません(第2部までを「全2巻」として販売).閑話休題)

ホッブズは,上で述べた「ユス・キルカ・サクラ」つまり「世俗為政者の対宗教権限」はどこまで及ぶか,という問いに対して,どのように考えたのでしょう.『リヴァイアサン』第31章はじめにこう書かれています(なお,福岡先生は,水田洋訳(岩波書店)を参照しつつも,Rogers/Schuhmann版から訳出されているので,引用は福岡先生から引用します).

「全くの自然状態,即ち,主権者でもなく臣民でもない人々が持ちような絶対的自由の状態は,アナーキーであり戦争の状態にあること,人々がこの状態を回避するように導かれるところの諸規律は自然法であること,主権的権力を欠いたコモンウェルスとは,実体のない言葉に過ぎず存続し得ないこと,臣民は主権者に対し,彼らの服従が神の法に反しない全ての事柄において,全くの服従をなすべきこと,以上のことを私は既に書いたところで十分に証明した.」(『国家・宗教・自由』p.188)

臣民は主権者に対し,「神の法に反しない」全ての事柄において,全くの服従をなすべきーつまりは,「神の法」が何であるのか,が主権者への服従の範囲を決めるために,決定的に重要となってきます.

しかし,そのような定式自体は,当時の法学者・政治思想家にとっては,特別なものではありません.ホッブズが特別なのは,むしろその論証,結論であって,教会ないし宗教に関する事項について,主権者に最も広い権限を与える見解を,「聖書」を用いながら強力に論証した,ということにあります.

「主権的預言者」の析出

『リヴァイアサン』で展開される聖書の解釈を精緻に追い,ホッブズのロジックを(とりわけスピノザとの対比で)追いかけるあたりが,『国家・宗教・自由』の白眉であって,個人的にはスリリングさを感じるところです.

したがって,結論だけをなぞっても,「ふーん」という感じになってしまうので,ぜひ『国家・宗教・自由』第5章から7章あたりを読んでいただくことをお勧めします.

とはいえ,せっかくなので,その論証を簡潔に追います.ホッブズは二つのレベルでアプローチしますが,まず聖書解釈というレベルで,大胆な取捨選択を行います(『国家・宗教・自由』p.322).ホッブズはこう述べています.

誰も,死の罰を受けてまで,神がモーセと話をする山に近づくほど生意気ではなかったであろう.「あなたは,(と主はいう.出エジプト19:12)周囲に人民に対して境界を設けなくてはならない.そして言わなければならない.あなたがたは,山の中に登って行ったり,それの境界に触れないように,気を付けるようにと.山に触れる者は誰であろうとも,死刑に処せられなくてはならない.」そしてまた(21節),「降りて行き,人民に警告せよ,彼らが主を見つめようとして押し破ることがないように.」(p.220)
ここから,我々は,以下のように結論することができる.即ち,キリスト教のコモンウェルスにおいて,モーセの地位を持つ者は,誰でも神の使者であり,神の命令の解釈者である.そして,このことに対応して,何人も,聖書の解釈において,彼らのそれぞれの主権者によって設定された境界を超えるべきではない.なぜなら,聖書とは,神が現在その中で語るのであるから,シナイ山なのである.(中略)しかし,聖書を解釈する,換言すれば,神が自らの下で統治するように任命した者に対して神が語るところを覗き見し,その者が神が命令したとおりに統治しているかどうかの裁判官たろうとすることは,神が我々に設定した境界を侵犯することであり,不敬に神を見つめることである(p.221).

神はイスラエル人民らとモーセを媒介としてしか語っていないという”事実”,ホッブズにとって決定的な意味を持ちます(p.219, p.326).人民が自ら聖書を解釈して統治の良し悪しを判断することは,シナイ山に設けられた境界を越えてそこに登り,「モーセの地位を有する者」が神の命令を受けるところを「覗き見」することに他ならない,と.

次いで,論理展開というレベルにおいて,レレヴァントな(意味のある)問いを設定し直すという操作を施します.

モーセは(中略)イスラエル人たちに対して命令する権利を,アブラハムから得ていたわけではなかった.事実モーセの権威は(中略)彼が行う諸々の奇跡が本物であること,これらについて彼らが抱いていた評価[ないし彼らの間での評判:existimatio]のみに依存していたのかもしれなかったーこの評判が変わりでもしたら,彼が神の名において提示することが何であろうとそれを神法と見なして服従することを義務付けられるような原因は,定めし何も明らかでなかったであろう.そうである以上,イスラエルの人民がモーセに対して服従する義務は,他に求められなければならないのである.(中略)モーセの権威は,他の全ての君侯の権威と同様に,服従を約束する人民の同意に基礎付けられなくてはならなかったのである(p.323).

つまり,ホッブズは,超自然的啓示を持たない者が,預言者によって主張される啓示につき,どのようにか確実性を得ることができるか,という問いと,預言者が啓示であるというところのものについて,どのように服従することが拘束されるのか,という問いを区別します.

そして,前者の問いは,信じるか否かの問題は,万人に一般的な理由を与えることは不可能であるから,回答不能をみなします.そして,一義的な回答が可能な後者の問いに議論を限定し,預言者として独占的に啓示を受け取り,主権者としてそれを臣民に義務付けるのは,世俗の諸侯と同様に,服従を約する人民の同意に基礎付けられることを明らかにし,主権者預言者という観念を引き出します.

かくしてホッブズは,「ユス・キルカ・サクラ」に関して,本来,コモンウェルスの権威を制限するはずであった「神の法」について,世俗の為政者が主権的預言者として解釈権を持つと結論づけます.

スピノザが示す対抗的関係

それでは,主著『エチカ』で知られるオランダの哲学者,スピノザ(1632-1677)は,いかなる議論を展開するのでしょうか.

仮にスピノザが,単にデカルト,ライプニッツと並ぶ,合理主義哲学者の一人とされているだけであればーそれは西洋思想史上,重要でしょうがー,ここでの議論にはさほど関連性を有しないかもしれません.

スピノザが取り上げられるのは,その著作『神学・政治学』において,膨大の量の聖書章句が引用され,その聖書解釈に『リヴァイアサン』との関連性を強く想起させ,また異なる可能性-対抗的関係―を示しているからである,というのが,福岡先生の主旨でもあります.いくつかの「対抗」が見出されますが,次の2点を見てみたいと思います.

(1)預言の確実性に関する論証

既に述べたとおり,ホッブズにおいては,独占的に神からの啓示を受領した預言者モーセと,神がなんと語ったかを自分自身としては何も知らないイスラエル人民との関係を,主権的預言者とその臣民という構図で描きました.

これに対してスピノザは,「預言者に対する啓示」といういわばブラックボックスをそのまま残すのではなく,その確実性獲得のための根拠は何か,という問題意識から,啓示の内実を「分節」して解明を試みます(p.331).

「分節」とは,木庭先生の用語法である「分節」(articulation)に倣うものと思われますが,実際,本書の後記で,彼女が木庭先生がテクスト分析について示唆を受けたことに言及されています(p.517).

スピノザは,ホッブズが「分節」せず,「理解できない(not intelligible)」ものとして退ける問いを,正面から取り上げます(p.328).

まず,預言者が神を認識したのは,耳で聴く言葉,目で見る形象という感覚器官を媒体とする「想像力」によってであることを検討したうえで,次のように論じます.

預言はそれ故にこの点において,何の徴も必要とせずその本性から確実性を含むところの自然的認識に劣後する.つまりこの預言的確実性とは,実に数学的[確実性]ではなく心性的[確実性]にすぎなかったのである.(中略)即ち,申命記13においてモーセは,新しい神々を教えようとする預言者は誰であっても,たとえその教えを徴や奇跡によって確証付けるとしても,死刑に処せられなければならないと注意している.というのも,モーセ自らが続けて述べているように,神は,人民を試す意図で,徴や奇跡さえも行うことがあるためである(p.329).

預言が,自然的認識より一段低い地位に置かれるようにも思われますが,ホッブズが,神と人民との直接的交渉を遮断していたことに対して(p.326),スピノザは,確実性の意味を変容しつつ,人民にもそれを吟味する可能性を拓いている点に注意を払うべきでしょう.

さらにスピノザは,例えば「悪は悪人から出る」(サムエル記上24:13)というように,神は決して敬虔な者をだましたことがなく,むしろ自らの愛の道具として用いる点に,注意を向けます.

そこで,預言をする者が敬虔な者,心の正しい者であるか,という点を,預言の確実性の不可欠な要素として数えたうえで,スピノザは,人民が預言者の権威を受け入れる際の心性的確実性を次のように纏めます.

「しかるに,既に示したように,預言者たちの全確実性は,次の3者に存する.即ち,Ⅰ.判然かつ鮮明な想像力,Ⅱ.徴,Ⅲ.最後にかつ最も重要なものとして,公正と善に向けられた心である.」(p.333)

ここでは手短に述べざるを得ませんが,人がこのような指標を通じて,吟味したうえで,預言者の確実性を受け入れるーそのような可能性を示した点で,次に述べる「哲学する自由」にも通底する姿勢が伺えます.

(2)ヘブライ人の思考様式への着目

スピノザは,裕福なユダヤ人商人の子として,アムステルダムに生まれます。のちにユダヤ教団から破門されたともされており,ユダヤ人の伝統にも通暁していたと思われます.

スピノザの旧約テクスト解釈の特徴として,旧約聖書成立の母体となっているヘブライ人の思考様式に注意を払ったという点が挙げられます

(なお,ユダヤ人,ヘブライ人の書き分けは福岡先生の用法にも倣いますが,一般にバビロン捕囚後は,ヘブライ人ではなくユダヤ人と呼ばれるようになったようです).

ホッブズは,聖書の中に理性に適合しないと思われる記述がある時,科学的な現象としてそれが何であったか,という問題に議論を収斂させてしまうところがあります.これに対してスピノザは,聖書の語り手が有していた特殊な思考様式を素通りせず,より繊細な解釈を展開します(p.360, 365).それは「霊」や「天使」,「神の霊」といった言葉を例に論証されます.

結論として彼は,ヘブライ人の神観念が「民衆の弱さ」の産物にほかならないとして,モーセをはじめとする預言者の神理解のあり方に「適応された」形で神の啓示が行われていた,と指摘します(p.376).

結果として,人が預言者の語る言葉,即ち聖書の記載内容を受け入れるように義務付けられる範囲は,大きく縮減することになります.そのことの是非,あるいは真の狙いは別として,「哲学と神学の分離」及び「哲学の自由」の基礎を提供することとなります.

「即ち,聖書において勧奨されている学問とは,この[隣人愛]命令に従って神に服従することができるために全ての人のために必要な学問,それを知らなければ人々が必然的に不従順とならざるを得ない,少なくとも服従の規律を欠いた状態とならざるを得ないところの学問以外の何ものでもないこと,他方,ここを直接に意図しない爾余の諸々の思索は,神に関わる事柄であろうと,自然物の認識に関する事柄であろうと,聖書に関わりがなく,したがって啓示宗教からは分離されなくてはならないこと,である」(p.385)

スピノザは,聖書全体の意図の土台を成す「普遍的信仰の教義」を,「神が存在すること」に始まる,極めて少数の箇条にのみ限定すること(p.389)を通じて,「哲学する自由」が聖書と全く両立的に享受し得ること,他方,神学の王国においても,ひとえに服従(submission)が要求されるのではなく,自立的な思想(opinion)形成の余地があることを示しています(p.419).

「政治」概念に与える含意

さて,福岡先生の『国家・教会・自由』,特に第Ⅱ部を概観してきましたが,いかがだったでしょうか.

もう少し簡潔に出来たらよかったのですが,少しでも福岡先生の業績に関心をもって頂ければ,本日の目的の大部分は達成できたのかな,と思います.

それでは,今日は番外編ですが,最後に,ホッブズとスピノザの対抗が「政治」概念に与える示唆について少し述べて,締めくくりたいと思います.

もちろん,ここでの「政治」とは,「ディアレクティカ」という厳密な言語の使用に特色を有し,「都市と領域」の分節を基礎に置く,特別な意味をもった「政治」という営みを指します.

閉じられた可能性に目を向けること

「政治を直接担う活動」とは,「言語だけが君臨する空間においてなされなければ実現しない.つまりéchangeからの解放であるが,これは費用果実関係からの解放と言い直すことができる」(『新版ローマ法案内』p.12)とされています.

「直接担う」という表現からは,若干の留保が読み取れなくてもありませんが,政治の営みから言葉以外の要素を排除する点で,ホッブズが,宗教ないし教会に関して,主権者に全て属するという,「白か黒かのみを問う二分法的な論理が支配され」たホッブズの見解に類似した世界観(p.328)を見いだすことができます.

空間と主体間の関係に分節(ariticulation)が実現され,水平的に結合した自由独立な主体との一つ一つの費用果実関係が1対1で対応するーーそのような論理的な明快さには,一点の隙もなく,数学的な証明のような印象すら受けます.

しかし,ホッブズが預言の確実性について,その論拠に掘り下げることを回避し,どのようにして服従を拘束されるのか,という論点に切り替えたのと同様に(p.325,420),木庭先生の議論は,「政治」パラダイムを成立されたという「最初の経験」にとりあえずの関心を集中させ(『政治の成立』p.404),そのパラダイムになぜ人々が従い,その通りに行動するか(『政治の成立』p.394)という根拠については,十分に解明されているとは言えないように思われます.

そのような重大な弱点があるがゆえに,さらに古典期のギリシャではデモクラシー,あるいはローマにおいては法(『政治の成立』p.405)が,一定の解答として,生み出されるとされています(「デモクラシー」については別途,論じたいと思います).

他方でスピノザは,預言について,数学的な明証性から一歩下がって,心性的な確実性となる根拠を掬い上げたように,「政治」においても,それが本来的に言葉の営みであると認めつつも,それを比較的再現的で(『政治の成立』p.394),持続可能なパラダイムとするためには,「言葉」の厳密なやり取り以外を排除するという姿勢から,人々の行動の動機や性向にも目を向けた分析が必要になるように思われます.

前回,トクヴィルからごく簡単に引用し,「政治」概念からは排除されている「団体」「利益」「権力」(への志向)といった要素を挙げましたが,「自由独立な主体」(人的分節)という概念には「団体」(結社,association)を,「1対1の費用果実関係」には「利益」を,「言語」(だけの支配)から「権力」(への志向)という概念をそれぞれ対抗させ,それらが抜きがたい人の動機や性向を「政治」のパラダイムから「完全に」排除するのではなく,何らかの折り合いをつける道を見いだす必要があるのではないか,ということです.

実際,前回(初期)アメリカ型と呼んだ(より一般的な意味での)政治モデルにおいては,「政党」や「利益団体」というアクターを認めつつ,また権力志向を「三権分立」といった制度に結実させるなど,問題をはらみながらも,より持続可能な制度を作り上げていることに対して,原理的な欠陥があると断じるよりも(『鼎談 憲法の土壌を培養する』法律時報, 2018/5参照),そこに狭義の「政治」概念にない可能性を探るべきことが示唆されているように思います.

社会・文化における特有な事情

ちなみに「政党」というとき,ヨーロッパ・日本では党議拘束をはじめクローズドなイメージがあるのとは異なり,アメリカでは,「緩やかに広く覆うテント」のような存在であることなど(岡山裕著『アメリカの政党政治』,中公新書,2020年),異なる社会・文化を背景として,同じ言葉でも,異なる内実を有することにも注意した方が良いかもしれません.

それは,ホッブズが,聖書における理性に非適合的な記述について,問題の扉を開けることに消極的で,議論を自分が理解できる土俵に限定してしまうのに対して,スピノザが,聖書の語り手(ヘブライ人)が有していた思考様式にも着眼し,より繊細な解釈を可能とした態度に,通じるものがあると思います.

終わりに

さて,なんと今回は1万字という,今までで一番長い,投稿となりました.疲れてしまったので,本当に来週はお休みしたいと思います.

福岡先生の議論には他にも個人的にはっとさせられる箇所,例えば,「普遍的信仰の「教義」に集約されたような事柄,これらへの関係における自由」への言及があるなど(p.391),大変興味深かったです.

次は「デモクラシー」に焦点を当てたいと思いますが,それには少し準備が必要と感じています.特にギリシャ悲劇をもう少し読み込まないと,『デモクラシーの古典的基礎』を論じることは多分無理だと思いますので.少し充電期間を置くことをお許しください.

それではまた!

(補足)

スピノザがホッブズの『リヴァイアサン』に接したか否か,という歴史的なテーマについては,『国会・教会・自由』の序章で検証されています.ぜひ,お読みください.

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