子どもと過ごせる時間は権利ではなく特権だ spending time with children is not a right, rather a privilege
■ベビーシッターアプリの悲劇
起こってはいけない事件が起きた。大手ベビーシッターマッチング会社でベビーシッターとして登録されていたシッターが性的虐待を加えたとして逮捕された。いわゆるペドフェリア(小児性愛)の事件だ。
子どもの証言などをもとに取り調べが行われたところ、容疑者自身も罪を認めた。またこれはこちらの会社で2件目のケースとなる。
コロナ禍の共働き世帯を襲ったなんともいたたまれない事件だ。
■こどもと一緒の活動に対して敷居の低すぎる日本
起こってしまった事件のショックはさることながら、該当企業の対応が波紋を呼んでいる。事件発覚の際に当事者の保護者にきちんと連絡がないまま容疑者がシフトにこられないことを伝えたという何とも杜撰な対応が問題になっている。また、当マッチングアプリではIDなど個人証明は必要となるももの、特に保育士や助産師など子どもとかかわる資格がなくとも誰でもシッター登録ができるアプリで、シッター登録のインタビューもオンライン上で行われるといういわば「ハイテク」・「便利」である反面、その裏をうまく掻い潜るようなケースとして今回の事件が起きてしまったとも言えよう。
そもそも日本は先進国としては子どもにまつわる職業やボランティアの敷居がとても低い。例えば北米で一般人が子どもを指導するような立場には無償のボランティアでさえ、ID登録はもちろんのこと、緊急時の医療資格があるか、犯罪歴がないかなどが詳しくチェックされる。日本では性善説が先行してそのような手配が追い付いていない。
■子どものころの性被害は大人になってもずっと残る
筆者自身も該当するが、日本で子ども時代を過ごした方で(特に女性)子どもの頃何等かの性的被害を受けなかった人はいないのではないだろうか。特に数十年前までは性的虐待があったとしても被害者に非があった、被害者に隙があったとされるケースがほとんどのように思う。子どもたちが集団下校する、夜道を歩くな、知らない人にはついていくなという教えもある意味「被害者目線の予防策」であり、性犯罪の加害者に対する予防措置や治療などは行われてこなかったのではないだろうか。
子どもの頃の性的被害は多かれ少なかれ子どもの心に傷を残すものだ。成人した大人が数年牢獄で罪を償うのと子どもが一生傷を抱えて生きていくのではあまりにも天秤にはかけ難いのではないだろうか。
■「子供」ではなく「子ども」
話はそれるが、以前勤めていた非営利機関で「子供」と書いたら窘められた経験がある。実は子供の「供」という字は従者などといった付き従う人間を指すため差別用語にあたるのだそうだ。いわれてみれば筆者の子ども時代も「子供」と呼ばれることをひどく嫌った記憶がある。「子供」とくくられることで「大人よりも劣った存在」とされることに怒りさえ覚えた。
■児童ポルノではなく児童虐待
大人よりも劣った存在とされることによる弊害は大きい。児童ポルノの存在がその最たるものだ。そもそも児童ポルノなど存在せず、明らかに存在するのは「児童虐待」だ。子どもを性的対象とみるのは先進国では罰則の対象とされており、日本のように子どもタレントの写真集や明らかに成人を迎えていない子どもの性的描写は漫画やイラストでも厳しい規制を受けている。それとは相反し、日本ではそのような書物が「性的掃き溜め」のように売れていく。
■迫害ではなく、治療と規制
児童虐待は社会問題である。しかしそれを「個人の性的嗜好」としてとらえてしまっては問題は一向に解決しない。必要なのは適当な治療と規制であり、社会全体で子どもたちを守っていくのが急務ではないだろうか。女性の社会進出が進み、保護者の在り方が変わってきている。そのニーズに耐えられるような安全なサービスの仕組みも今後の課題となるだろう。
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