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ヤンキーとセレブの日本史 Vol.7 鎌倉時代 その1

平安末期の源氏のあらすじ

鎌倉時代に入る前に少し平安時代後期の源氏のあらすじだけ追っていきます。

源氏の組長だった義朝は、平家との権力争い平治の乱で負けてぶっ殺されました。その子どもの頼朝もぶっ殺されそうになりましたが、清盛の義母がさすがに子どもを殺すのはかわいそうと命乞いをするので、伊豆の田舎に流される事になり、頼朝は伊豆で青春時代を過ごすのです。

まさに青春です。
伊豆では、地元の北条組の組長、時政が頼朝の監視をすることになっていました。
時政には政子という娘がいました。田舎のヤンキー娘、政子は都からきた男と恋に落ちました。頼朝も政子を愛し、当時では珍しい恋愛結婚をしました。(しかし、頼朝はその後浮気しまくって、政子は浮気相手に容赦なくヤキいれします。当時は、浮気された女は、浮気をした男をしばくのではなく、奪った女をしばくという風習があったそうです)

ジャンプ+で連載中の「道産子ギャルはなまらめんこい」。
東京から北海道北見市に転校してきた主人公が地元の女の子にモテまくる話。
田舎のギャルが都会から転校してきた男に恋する話は中世から続く鉄板


時政は政子と頼朝の結婚に大反対でしたが、渋々認めて、その後は頼朝の味方になっていくのです。

傍若無人な平氏にはセレブも怒っていて、中でも怒り狂っていた天皇の子の以仁王が出した平家をぶっ殺せという呼びかけは頼朝のもとにも届きます。頼朝は源氏の組長だった義朝の息子。極道にとって親の返しをするのは子の義務。立ち上がらないわけにはいきません。そこでまずは源氏の勢力が強い鎌倉に入ってそこを本拠地にして活動することにしました。

それを聞いた平家は鎌倉にカチコミに向かいます。一進一退の攻防を繰り返しますが、静岡の富士川で雌雄を決する戦いを挑むことになり、平氏のヘタレっぷりもあって源氏が勝ちます。
抗争が続く中、平家の組長清盛は死んでしまいます。平家との仲も悪くなっていた後白河法皇も都から逃げ出します。そのすきに長野のヤンキー木曽(源)義仲が都に入ってきてヤクザ丸出しの乱暴狼藉を働くようになります。

後白河法皇は田舎ヤクザの木曽義仲を追い出すのに、頼朝をぶつけて共倒れをさせようと画策しました。頼朝は異母兄弟の義経を行かせます。義経は簡単に木曽義仲を蹴散らします。
義経はさらに武功をあげてきます。源氏が仲間割れしてるからチャンスと思い神戸に集まってきた平家もボコボコにしてきます。
後白河法皇は狙いが外れましたが、これを機に源氏を分断させようと思いました。

他の組の盃をもらってはいけない

ヤクザの世界では、一人で複数の親分の盃をもらうことはできません。組長は親父なので、一人しかいないのは当然です。親父の命令は絶対なのに、複数の親分がいたら、誰の命令を聞くのでしょうか。もし、親分がいるのに他の人から親子盃をもらったらぶっ殺されかねないくらいの裏切りです。

義経はそれをしてきました。
源義経は多くの武功を上げ、人々の人気も高かったのに、兄の頼朝に追われて殺された悲劇のヒーローというイメージがありますが、その元々の原因はヤクザのご法度である他の親分から盃をもらってきたことでした。可哀想なのは、頼朝にそれを口実にケンカの火種に使われ続けてきたことです。

後白河法皇は、義経の活躍を褒めて、褒美として警察官僚(検非違使の尉)にしてやるよと言いました。法王に地位をもらうということは、法王の子分になることと同じ意味です。ヤクザの社会から見たら別の親に盃をもらうことです。義経はこれを軽く考えていて、後でアニキ(頼朝)に言えばいいやくらいに思っていました。
ヤンキー中心の政権を作ろうとしていた頼朝はブチ切れです。実の弟が他の組から盃をもらってくるなんて親分として大恥をかいたことになります。

義経は重要な抗争の仕事を外されるようになってきます。ただ、頼朝のもう一人の弟範頼があんまり使えなかったので、仕方なくケンカの強い義経に平氏のヤキ入れに行かせることになり、義経は壇ノ浦で平家を滅ぼしてきます。

ヤンキーVSセレブ決する

平安時代のようにセレブがヤンキーを使って権力を手にする時代は終わっています。
ここに来て、ヤンキーがセレブに挑む時代になりました。
強力な暴力を持つヤンキー集団源氏が、都でまだ権力をもっている後白河法皇に挑みます。

しかし、後白河法皇は義経を手懐けています。義経はケンカも強いし人気もあります。法皇は義経を仲間に引き込んで、そこから頼朝と仲違いをさせようと狙っています。
頼朝は、ヤンキーのくせにセレブに飼いならさている義経を許せず、暗殺しようとします。しかし暗殺は失敗し、いよいよ抗争です。
義経は後白河法皇に頼んで頼朝をぶっ殺す命令を出してもらいます。しかし、一般人気は高かった義経ですが、ヤンキーの間の人気はいまいちで兵が集まりません。

反対に頼朝が人気だったのは、ヤンキーたちのシマを守っていやると約束したからです。武士は地元で自力でシマを広げてきたヤンキー開発領主と都のセレブが合体してできた存在です。土地は先祖代々守ってきたもの。中央から派遣されてちょっかいを出してくる役人とは土地に対する思い入れが全然違います。
そんな中で、頼朝は全国のヤンキーに向かって「お前らのシマはお前らの自由にできるようにケツをもってやる」と言います。
こうしてほとんどのヤンキーは頼朝につきました

戦う前に勝負が決したことで、頼朝は後白河法皇に使いを出します。

「こんなに朝廷のために尽くしてきたうちのオヤジ(頼朝)をぶっ殺せという命令出したのはどんな了見だ?」

と問われて、後白河法皇は

「義経におどされました」
と答えました。

これでセレブとヤンキーの権力争いの勝負が決しました。本当に脅されていたかどうかなどどうでもよく、朝廷に頼朝の言い分を飲ませて、そこからつけいるのが狙いです。
頼朝は、「朝廷にとっても敵」である義経を捕まえるために全国に自分の息のかかったヤンキー達を「守護・地頭」として置くことを認めさせました。
支配をするためには、「服従させる暴力」と「みかじめの徴収」が絶対に不可欠です。
義経を捕まえるための全国の警察配備とそのコストの手当という名目で、頼朝の言うことを聞くヤンキーたちを全国に派遣しシマを与えます(守護と地頭)。
しかし、義経を捕まえるまでといった約束は守られず、朝廷にはその権限は戻ってきませんでした。

鎌倉幕府の成立は昔は1192年、いいくにつくろう鎌倉幕府とおぼえましたが、近年では実質的に守護と地頭を置かせて朝廷に言うことを聞かせられるようになった1185年成立と見る説が多いようです。いいヤンキーゴー!とおぼえましょう。

頼朝にもマイキーみたいにこんな夢を語っていたときがあったかも知れない
(東京卍リベンジャーズより)

その後、義経は東北に逃げました。
東北には奥州藤原一家という中央から距離を取り戦争にも巻き込まれずに豊かに繁栄していた組がありましたが、義経をかくまったことで頼朝に滅ぼされました。義経もそこで死にました。頼朝からしたら自分以外の強い組は潰しておきたいので義経はいい火種になってくれました。

義経の話は弁慶が義経を守った逸話なども含めて後世に悲劇として伝わり、江戸時代には歌舞伎の演目「勧進帳」としても人気を博しています。
歴史の流れの中で見ると、ヤンキー頼朝と朝廷との権力争いの中での義経の扱いは揉め事づくりの火種です。この火種をお互いが利用して揉め事を拡大させ最終的にはヤンキーが全国に支配を広げることにつながります

その後、源頼朝は征夷大将軍となりヤンキーがヤンキーのまま政権を持つ鎌倉幕府をひらきます。

鎌倉時代のシマの話

ところで守護と地頭って?

頼朝は各地のシマに自分の息のかかったヤンキーたちを配置しました。そのときにヤンキーに与えた役職が「守護」と「地頭」です。

守護は警察のようなもので暴力を司ります。揉め事があればその都度行けばよいので、ある程度広くてもよくてその権力範囲は各地の国単位です。

それに対して、みかじめの徴収は仕事量も多いですし、もっと地元密着でなければなりません。
地頭は平家の時代からもあったのですが、朝廷や貴族だの色々なやつらが持っている荘園(シマ)単位で置かれて、そのシマの中でみかじめ料を徴収できるのが一番のうまみです。

現代の感覚で捉えやすく言うと、地頭の持つ権利は土地の所有権ではなく徴税権です。

前提として、土地の持ち主と、支配したりみかじめを取る役職が別れているということを理解しておいてください。
ヤクザも店のケツモチをするときに店の所有権を奪ったりはしません。店はオーナーの持ち物で、そこからみかじめ料を取る約束があるのでお金をもらいます。
地頭もそれと同じです。土地は朝廷やら貴族が所有していて、地頭になった武士は揉め事の解決とみかじめ料の徴収をします。みかじめ料を取るときに一緒に税もとって、税は国や貴族に納めます。
しかし、ヤクザにみかじめを払えば段々と要求はエスカレートしていくのと同じで、地頭ヤンキーも段々と荘園の領主よりも強い立場になって要求していくことになるのですが。

守護地頭を現代の行政組織に当てはめて考えるとわかりにくいです。ヤンキーの目線にたって、ヤクザの親分が子分にシマを与えることと同じと考えるとわかりやすくなります。地頭は土地の実質的な支配者として幅を利かせます。ヤクザが警察も税務署もやっているようなもんです。

ヤンキー武士と土地

鎌倉時代の武士は土地にものすごく強いこだわりを持ちます
セレブも荘園という形でシマを持っていますが、これは不動産ころがしみたいな感じでうまいこと手に入れたものです。貴族もシマは大事には大事ですが、他にもいくつも持っており、それは資産としての大事さです。
それに対して、ヤンキー武士は地元密着です。開発領主という地元のヤンキー軍団から始まった武士の土地は、先祖代々守ってきたもので代わりが効くものではありません。ヤンキーにとって地元とは唯一無二の大切な思いのつまった大事な場所です。

現代に生きる鎌倉武士の姿を描いたヤンキー漫画「地元最高」
地元以外のことを知らずに地元が最高だと言い、悪い人たちに使われている下っ端ヤンキーの物語
こういう存在がいることは現代においても、あながちフィクションとは言い切れない

現代の感覚からすると、「土地」というと地面を使う権利のように思えますが、この時代の「土地」とはそこに住んでいる人への支配権なども含めてのものなので、現代では土地よりもシマ・縄張りの方が正確な意味が含まれる言葉だと思っています。そもそも貴族や寺が所有している土地で「地頭」としてヤンキーが支配をしているケースもあるのですから。

鎌倉時代は開墾が進んで、シマを拡大していく組が増えていきます。しかし、シマを拡大していくと必然的に他の組と揉め事を抱えるようになります。朝廷に裁定を頼むとかもありますが、強いコネでもなければそんなに真剣にやってくれるわけでもないし、時間も手間もかかるので、基本的に暴力で解決です。土地をめぐる揉め事は非常に多かったようです。
勝てばシマを広げられますが、負ければ先祖代々の大切な土地が他の組に奪われます。
シマを守るというのは命がけ。まさに「一所懸命」だったのです。武士が武装するのは自分のシマを守るためでもあります。

しかし、毎回ケンカで勝てるとは限らないし、勝っても死んだり大怪我したら辛いです。そこで、揉め事を収めるための古代からの知恵「ケツモチ」が必要になってくるのですが、その最も信頼できるケツモチが「源頼朝の親分」だったのです。頼朝はヤンキー達に自分に忠誠を誓い、何か抗争があったら兵隊を出すという約束と引き換えにシマを守ってやることにしました。これを「本領安堵」といって、頼朝はヤンキーたちを地頭に就けてあげました。これが御恩と奉公です。

ヤンキーたちは、何よりも大切な地元の土地を守ってもらえるということで、頼朝に強い恩を感じるようになり、頼朝の親っさんに従うようになりました(御恩と奉公)


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