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ヤンキーとセレブの日本史Vol.19 明治時代その1 

徳川幕府から天皇に政権が戻り、実質は薩長を中心に、薩長に協力をした土佐(高知)と肥前(佐賀)を中心にした田舎ヤクザが仕切る政権ができます。


そもそも新政府ができた背景には、外国のマフィアに的にかけられてヤバい状況を変えなければならないという事情があります。芋を引いた幕府が外国マフィアに飲まされた不平等な条約を変えなければなりません。
そして、ヤンキーとして望むのは西洋マフィアの仲間に入ることです。ヤンキーですから、西洋マフィアのように自分たちも同じように外国にシマを広げたいと考えるのは自然な流れです。

しかし、そこまでの道は平坦ではありません。
まずはできたばかりの新しい本家がしっかり全国を統一すること。そのうえで西洋マフィアに認められ、対等な関係になること。それができて初めて海外にシマを広げに行くことができます。

日本統一

徳川幕府が大政奉還で政権を天皇に返すということになり、新政府側では体制を作り始めます。中心になったのは、天皇に近くヤンキーたちの倒幕に手を貸した岩倉具視とかいうセレブたちと、もちろん薩長のヤンキーたちです。薩長に協力した高知と佐賀のヤンキーも幹部に入れてもらえました。

徳川幕府は大政奉還で折れた分の見返りとして、自分たちも新政権に入ってまた権力を得られると期待していました。田舎のヤクザや何百年も政治から遠ざけられていたセレブどもに国全体の政治なんてできる訳はないと思っていますし。
ところが、新政権のヤンキーたちは徳川の奴らは新しい組の幹部には入れないと言い出します。それどころか、シマを全部朝廷に返せと言ってきます。
慶喜は怒ります。子分たちも怒り狂います。しかし慶喜は一旦怒りをこらえて6カ国の西洋マフィアどもを呼び出し、外交は今まで通り徳川がやると言います。フランスは徳川に武器を売ったりしたので、徳川に権力がないと困りますから徳川の話に乗ります。他の国も内戦になったほうが介入してシマをぶんどるチャンスがあるので徳川に乗ります。イギリスだけは薩長の支援をしていたので、あいつらが政権を取ったほうがいいと思っていますが、西洋マフィア同士の付き合いを悪くするわけにもいかないので仕方なく徳川に乗ります。慶喜は外交のパイプを確保することで、交渉を有利に進めようとしました。そうやってシマの返上もうやむやにしようとします。

薩長側の新政権は慶喜のこの動きにムカついています。しかし、セレブと寄り合い所帯の中で、田舎ヤクザの薩長は少し肩身の狭い思いをしていました。ここでいきなりカチコミでもして徳川と揉め事を起こせば自分たちの立場が悪くなることもわかっています。
そこで、徳川からケンカを売ってくるように江戸で放火やカツアゲの嫌がらせを始めました。江戸城にも放火をして一部が焼けました。衰えたと言え徳川も日本最大のヤクザ組織。舐められたら返しをしないわけにはいきません。慶喜は挑発だとわかっていてこれを止めたかったのですが、子分のヤンキーたちが薩摩の組事務所を焼いてきました。
子分たちはめちゃめちゃ盛り上がっています。「親父(組長)、このまま薩長のシャバ僧どもと戦争ですね」とか言ってきて、もはや慶喜には止めることはできない状態となり、徳川組は京都にカチコミをかけることになるのです(戊辰戦争)。

京都で行われた鳥羽・伏見の戦いという抗争では、幕府軍は1万5000人、新政府軍は5000人と、3倍の兵力差がありました。しかし、幕府軍の方は西洋マフィア製の最新装備はあまり多くありません。最新の道具は直系の一部のヤンキーにしか行き渡っておらず、刀や槍で戦うヤンキーも多くいます。それに対して、新政府側のヤンキーたちは全員が最新の道具で武装しています。
幕府軍は数を頼りに粘ります。しかし新政府側は切り札として、天皇家の家紋が入ったチームの旗を掲げました。天皇はこっちサイドにいるということを示すことで、新政府軍は自分たちが正式な天皇の軍隊、正しい側だと思ってめちゃめちゃテンションが上がります。反対に幕府軍側は、自分たちは反乱軍だと思い知らされ、めちゃめちゃテンションが落ちます。
天皇を尊敬しているという気持ちもテンションの上がり下がりに影響するのですが、それだけではなく、天皇側の軍になるということは、日本中のほとんどの組が味方になるということを意味し、イケイケムードになります。逆に反乱軍になるということは、自分たち以外のすべての組から的にかけられるという意味ですから、幕府軍はこの一戦で勝ったとしても政権を取り戻すことができない暗い見通しになり、めちゃくちゃ不安になります。
結果鳥羽・伏見の戦いは新政府軍の勝利になります。大阪にいた慶喜は子分たちを置いて船で東京に逃げて帰ります。まあそんなことしたら子分に見放されることになるのですが。

慶喜は新政府と手打ちをすることにしました。腹心の子分の勝海舟が交渉役として、薩摩の西郷隆盛と交渉をします。
ヤクザとしては、慶喜のタマを取らなければケジメになりません。しかし、徳川組も強硬です。「お前ら田舎ヤクザの外道共にシマをやるくらいなら、自分で江戸の町を燃やす方を選ぶわ」と脅します。
西郷としても、丸焼けになった江戸を手にしても何もいいことはありません。シノギがなくなる、被災したパンピーの保護や復興でめちゃくちゃ金がかかる、混乱した隙に西洋マフィアどもがシマをぶんどりにやってくる。何一ついいことありません。
仕方なく、慶喜は実家のある茨城に帰って謹慎、徳川のシマは全部没収で手打ちをしました。

しかし、徳川の子分たちの中には、徹底抗戦を続けるやつらもいました。福島の会津組は東北や新潟の組と同盟を結び徹底抗戦をしました(会津戦争)。また、大阪で慶喜が逃げて帰ったときに置いてけぼりにされた子分榎本武揚と新選組の土方歳三は北海道の函館にまで逃げそこで戦いました。でも、両方とも新政府軍に鎮圧され、新政府が日本統一をすることになるのです。

明治政府

徳川幕府との抗争が片付いたことで、ようやく本格的な組の体制づくりを始めます。
目指すは西洋マフィアのように強く、自分たちのシマを守り、そしてシマを広げることのできる組です。

強い国とは

この時代の世界レベルの戦争の形は大きく変わってきています
ヨーロッパでは1789年にフランス革命が起き、パンピーが王様をぶっ殺して、パンピー自身が自分たちで国を治める民主制という体制になりました。周りの国は王様が支配している国ばかりですから、そんな迷惑なもの広められても困るので皆でフランスを潰そうとします。
しかしフランス軍は負けませんでした。ナポレオンというめちゃくちゃ戦争がうまいヤンキーがいたこともありますが、フランス人は自分たちの国は自分たちで守るという気持ちで戦っているので、無理やり王様に戦争に連れてこられる他国の兵士とは腹のくくり方が違います

また、武器も進化しています。槍や剣で戦う時代は、小さい頃から武術の鍛錬を積んでいる戦士の身分の者や、カツアゲや強盗をして暮らしているDQNなどじゃなければ強い戦力にはなりませんが、扱いが簡単な銃火器がメインウェポンになってくると誰でもそれなりに戦えるようになります。
そういうこともあり、戦士だけで戦争をしても勝てない時代に変わってきています。パンピーも含めて皆が同じ組の組員で自分が代紋を支えているという意識を持ち抗争に貢献することが強い国になるために不可欠になりはじめています。
これが行き着く果てが「総力戦」と言って国の持っている軍事力以外も含めた全ての力を注ぎ込む形の戦争になります。国民全体が戦争に参加して(前線でカチこむだけではなく、兵器を作ったり、戦争を優先して色んな制限をうけたりすることも含めて)、戦争の規模が大きくなっていくのです。
この後、ヨーロッパでは戦争のために愛国心を育てる教育が盛んに行われるようになります。そして、パンピー自身が「自分たちの国」という気持ちを強くすることで民主化も進みます
また、国もパンピーに対してメリットを提供しないと好きになって貰えないので、社会保障の制度なども生まれてきます。安心して戦場で戦ってもらうために、腕や足が吹っ飛んでも治療の費用を出してもらえる医療保険や、戦死しても年老いた親の面倒を見てもらえる年金などの社会保険の制度が作られます。
現代ではとても大切にされている民主主義も社会保障も戦争によって、更に言うならば、シマを広げたいというヤンキーの本能によって発展してきた側面も大いにあると言えるでしょう。

その頃の日本はというと、幕府はなくなったけど、各地の組(藩)はまだ残っていて、パンピーたちも自分の住んでいる場所の組の人間という意識で、あまり日本人という意識はもっていませんでした
日本も強い国になるためには、パンピーを含め皆が日本人という気持ちを高めて行かなければなりません。そして、国民一丸となってヨーロッパのように科学技術や産業を強くしなければシマを広げるどころか、自分たちが西洋マフィアの食い物にされてしまいます。

強い国に向かって


ちょっと話が前後しますが、戊辰戦争の最中、新政府は「王政復古の大号令」という宣言をします。これは天皇がこの国の組長で、外交の権利は天皇が持つ(徳川側はもう権利ねーからな)という宣言です。そして、五箇条の御誓文という組の運営の基本方針が定められます。

1. 政治には多くの意見を求めて会議で話し合って決めるぞ
2. 組の上から下まで関係なくもみんなで心を一つにして組を支えるぞ
3. セレブもヤンキーもパンピーも皆が自分の志を遂げるぞ
4. 古くせー習慣はやめにして、天下に恥じない道を行くぞ
5. 世界から学んで、天皇を中心とした組を盛り上げるぞ

強い組をつくるためには、皆が心を一つにしていくことが大事です。そうなると、分断を助長する江戸時代までの身分制は百害あって一利なしですから止めるほうが得策です。それに各地の組長に自分のシマを好きにさせていては組全体で一丸になれません。

戊辰戦争の最中、鳥羽・伏見の戦いが終わり、江戸城の組事務所の明け渡しが終わったところで、1868年9月22日に元号が明治に変わります。(まだ戊辰戦争は続いていましたが、落ち着いてから変えるのではなく、戦争の最中に変えるのは抵抗してる奴らに新政府の正当性を見せつけるという効果もあります)

翌年にまずは版籍奉還(1869年)といって各地の組長にシマを天皇に返させました。しかし、組長たちは藩主という名前を藩知事と変えただけでやってることはあまり変わりませんでした。次にその2年後に廃藩置県(1871年)といって、組の名前を藩から県に変え、知事を中央から派遣する形に変えました。反発してくる組もあるでしょうから、予め薩長土から御親兵(天皇の兵隊)と言って兵隊を集めておきました。これにはこれから強硬な政策を行う上での抑えと、地元の薩摩の組の仕事をしていて中央政府から距離を取っていた西郷を仲間に入れたいという思惑もありました。放っておくと西郷が反乱するかもしれないですから。西郷は御親兵のトップになりました。
この御親兵がその後名前を変え近衛兵になり、陸軍になっていくのです。

こうして各地のアガリを新政府本家が吸い上げることができるようになり、各地の政治も本家のコントロールに置かれました
ただ、新政府にとってよくないことは、各地の藩のシマを手に入れる代わりにその借金も引き受けなければならなかったことです。各地の組としては戊辰戦争の戦費支出などもあり金がなかったので、抵抗できないし、借金を引き取ってもらえるならまあいいかなという感じでした。

また、「四民平等」というルールを作りました。身分制をぶっ壊して、皇族以外皆平等にすることです。あわせてパンピーにも名字を名乗ることを許しました。実際には江戸時代以前からパンピーにも名字を持っている人が多かったのですが、建前として武士とかしか名字は名乗れなかったところを公式に名乗ってOKに変えました。

廃藩置県の後も元武士には政府からお給料が払われていましたが、そんなものいつまでも払い続けられるわけはありません。四民平等にしたのは、みんなで心を一つにして、強い国にするためです。武士だけが戦う時代は終わっており(武士も250年くらいちゃんと戦ってなかったけど)、身分関係なくパンピーにも兵隊になってもらわなければなりません。もう武士だけ特別扱いする理由はないのです。政府は元武士たちに手切れ金を払って特別扱いを終わりにしました。元武士は慣れない商売などに手を出して金を失いました。武士の魂だったちょんまげや刀を持ち歩くことも禁止されます。元武士たちは今まで組に忠義を尽くしていたのに冷たくあしらわれるようになり怒りを溜めていきます。

富国強兵政策

そして、徴兵を始めます。最初はイエの跡取りの長男や金を払ったやつは免除でしたが、最終的には戦場で戦える健康な身体を持った男はみんな兵隊にさせられるようになりました。

強い国にするには教育も大切です。科学技術や産業振興、統治の技術なども向上させていかねばなりませんし、国民が読み書きできることも大事です。また、日本が神の子孫の天皇を中心にした国だということを刷り込んで、皆が同じ気持ちを持って日本人としての一体感や常識を身に着けさせることが大切です。こうして義務教育が始まります。

そして、いちばん大切なのは税金のカツアゲです。新政府は色んなものに金がかかるので、きちんと税金のカツアゲをしなければなりません。全国でバラバラだった税率を統一し、米ではなくてカネで税金を払うことが決められます。
税金の取り立ては、シマとセットです。農民の土地の所有権を認めて、土地の値段を決め、毎年地価の3%をアガリとして支払えよと決めます。しかし、農民にとっては高すぎます。税金が払えなくて土地を売る農民も続出しました。農地がなくなれば農地を持っている農民の下で働かされて搾り取られるようになります。
農民も暴動を起こすので、仕方なく政府も税金を2.5%に下げてやりました。これで結果的には江戸時代よりも税金は20%ほど安くなったようです。

この3つ、軍事、学校、税金は3つの政策が柱になり、「富国強兵」を目指していくのです。強くリッチな国を目指す、ヤンキー丸出しのスローガンです。日本は西洋マフィアからシマを守り、自分たちも同じようにシマを広げていく。そんな国を目指していくことになるのです。

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