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わたしが不安におもうこと


私は先日就職活動を終えた身であるのだが、いくら自己分析をしてもルーツが不明であった私のクセが2点ある。

「貧乏恐怖症」と「死ぬかも妄想病」だ。

貧乏恐怖症に関しては、原因はわからないが物心ついた頃から漠然とした恐怖を感じていたようで、幼稚園生のときに書いた「わたしがこわいもの」には「おばけ」と「へび」に並んで「びんぼう」があった。

うちはむかしから特別裕福ではなかったが、貧乏というわけでもなく、ごくごく一般的な中流家庭であったと思う。もしかすると実は昔めちゃくちゃ貧乏だった時期があって両親が隠しているとかなら、それがルーツなのかもしれないが、いまのところ明らかになっていない。

何年か学生をしている中で、「貧乏ってなんだ?」とか「絶対的貧困と相対的貧困」「なぜ貧困はなくならないのか」など少しずつ学ぶようになり、社会問題や学問としてとらえることもできるようになってきたが、いまだに苦手意識は強く、「リストラされた父親が、、、」とか「食べるものもなくて、、、」とかフィクションであっても苦手だ。へびの話をされるのと同じくらい、耳をふさいで大声をあげたくなる。とにかく苦手なのだ。

この貧乏恐怖症に関しては、きちんとどう向き合うべきか等また別の機会に言語化するとして、今日書いておきたかったのはもうひとつの「死ぬかも妄想病」の方である。

これは、自分が「ああ今日死ぬかもな、、」と思うだけならいいのだが、厄介なのが家族や友達など自分の大切な人が急に死んでしまうんではないか、いなくなってしまうのではないかという妄想にかられ、この妄想神経が暴走している日などは(といっても日々暴走しがちなのでしょっちゅうである)、涙がボロボロ溢れ出てくるのだ。

夜中にベッドでひとり泣いている分にはいいが、小学生の時は全校集会中に、中学校でも確か一度授業中に、最近も電車の中で、泣きそうになって、こらえきれずちょっと泣いた。世の中には優しい人が多いので、いきなり泣き出すとどうしたのかと声をかけてくれる人がいるのだが、非常に言いにくい。というか言えない。

何がそんなに悲しくなってしまうのか、この間真面目に考えてみた。ちょうど、仲の良い友人たちが次会うまでに死んでしまったら、次がなかったらどうしようという不安に駆られたタイミングがあったので、じっくり向き合ってみた。

その結果「まだお返しできてないのに」「もっと色んなことしてあげたいのに」「私がすごく好きで大切に想っていることが伝わってなかったらどうしよう」などが見えてきた。

漠然と不安に思い怖くて泣き出していたところから具体的な思いや考えを見つけ出せて、私もちょっと大人になってきたか?とウハウハすると同時に、おっもいな…と自分の愛の重さにちょっと引いたり、感情を整理したことでまた色んな感情が湧き出てきた。感情って不思議ね。

今度は冷静にどうしたらこの「死ぬかも妄想病」を克服できるか考えてみたが、案外完全克服しなくてもいいのかもと思えてきた。

さすがに急に泣き出すとかは困るし、対処すべきだけど、実際リアルに人はいつ死ぬかわからないし、死を避けては生きられない。生きてる時間の方が体感長いし、なかなか臨死体験などもするものでないし、ありがたいことに空からミサイルが飛んでくる生活もしていないので、死を身近に感じないが、感じないだけで常にあるのだ。

さらに冷静に、その常にある死を考えてみると、「いまこの瞬間」の次の瞬間、生きているか死んでいるかは2択であり50%の確率なのではないだろうか。実際生きている方が多いから50%ではないのだろうけど、よく数学の問題ででてくるような確率問題的に言えば50%の確率で死はある気がする。(当方数学がめっぽう弱いので自信は皆無だし間違ってるかもだけど)

そんなわけで見えていないだけで常に隣にいる、50%の確率である死を常に意識して、そのときそのとき全力で相手には感謝を伝え、愛を伝え、「私はあなたのおかげで幸せです」と表現していたい。

自分が死んでも、大切な人が死んでも、きっと悔いはあるだろうし悲しみに打ちひしがれてしまうだろうけど、私があなたをとても好きで大切に想っていた、ということは伝わっていてほしいなと思う。

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