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歌=息+声 いつでも始められる

しばらく書かない時間ができてしまった。

書かないでいると、勝手に後ろめたさが積まれていくものだ。誰に何を言われるでもないのに、誰と何の約束をしたわけでもないのに。

ただ、書こうとか書きたいとか書き続けないと、と思っていた自分に顔向けできない気がしてくるだけなんだろう。私、ごめんよ。


先日、久しぶりにマイクを通して歌を歌う機会があった。もっとも「スタジオで練習した」だけなんだが。近々去年延期になったイベントがやっとできるようになったからだ。勿論練習に向けて個人的に部屋では練習してきたけれど、「マイクを通す」ことがこんなにも神経の端まで風を通すような、水を流すような作業だったのだと気付かされた。

自分の声というのは、普段は自分の頭蓋骨を鳴らして聞こえている感覚だ。録音した声が自分のものではないように聞こえるのはそのためだ。外に出ている声と、自分に聞こえている声は明らかに違う。

でも歌い手は自分に響いている音を聞きながらも、外に出ている声に責任を持たなければならない。コントロールができないといけない。アカペラなら生声で良いのだけれど、楽器と演奏となるとマイクは拡声の道具になる。

私は合唱出身のバンドマンなもので、マイクを初めて使った時は本当に戸惑った。声が大きくなることも、リバーブかけて聞きやすく声を処理されることも、合唱ではすべて自分でコントロールしていたものだから、マイクがあるせいで制御不能になり全然うまく使えなかった。

でも今や、私はマイク専用の楽器になった。もう合唱機能はないと思う…。

そして先日、そんなマイクさえ久々に使った。マイクを通した声に久々に対面したのだ。ああ、こんな声だったっけ。

この感覚を文字にするのは難しい。声が目の前に広がって「声の端端が見えるよう」なのだ。そしてその端端をコントロールして処理する。止める、飛ばす、すうっと伸ばす、まっすぐ伸ばしてから離す。

そしてまた思い出す。昔書家の方と話した時の話。

彼女は水と墨で表現する。墨の濃淡は水の濃淡でもある。筆の運びとそれらの濃淡で描き切る。それは文字であったり絵であったり。でも表現する道具は水と墨それだけ。

その話を聞いた時、歌で言う所の息と声の様だと伝えた。私も歌は言葉でもハミングでも、声に空気を混ぜて表現する。強く歌う時は声は濃く、優しく遠くに送る時は空気を多く含ませる。筆を離す処理はまさしく、止める、飛ばす、伸ばす、跳ねる。とてもよく似てる、私はその時そう思った。

私は久々にマイクを通した自分の声を扱いながら、そのことを思い出していた。この歌が誰かに届くために生まれてきたものならば、歌う限りは表現しきらなければならないんだ。息を吸い、声に混ぜ、最後離すまで責任を持つ。小節ごとに、一節ごとに、1コーラスごとに、一曲ごとに。

ということで、歌はとても神経を使うものだったことも思い出した。体は覚えているね、少し遠ざかっていたけれど大丈夫、また始めればいい。

だから少しずつ、書くことも取り戻してみよう。

おでってイベント1114


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