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ママに会いたい

と言っても、うちの母ではない。あるスナックのママのことだ。

私と彼女はある集まりでたまたま居合わせた。私がカラオケで歌ってたら店を手伝ってほしいと声をかけられたのだ。スナックは歌わせるのも大事な仕事。お酒が好きで歌が好きな私は、彼女の忙しさを助けるのにもってこいの存在だったのだろう。「お酒飲んで、たまに歌ってくれてればいいから」の一言で私はよく彼女のお店を手伝った。とはいえお金を払わない常連みたいなものだ。

ママのお店には変なお客は来ない。ママの昔からのお客様と、懇意にしている役付きの方の会社の方や、別のお店からの紹介など、初めての人は滅多に来ない店だった。

お客様はママの様子を見に来たふりをしてるけど、ママと話がしたくて来ている。大抵がいい年の男性だったけど、どの人もそれぞれ「自分はママが若い時からの客だ」と自負している。でもその「若い時」にも時差があって、本当のところどれくらいかはお互いにそんなに干渉しない。けれどママを通じてお互いのことはなんとなく知っている。「あの店の時から来てくれてる」こととか「奥さん調子悪いって言ってたけど大丈夫かな」とか。知らない同士なのに知っている。

お互いそれなりの年だから、心配事はなんとなく理解できて、少しだけ相手に優しい気持ちにもなる。この、ここの店にいる間だけは、お互い大事に自分の時間にしよう、ママをシェアしよう。そんな感じだろうか。酔いたい日もあるよな、うん、ママ、今日はそいつにかまってやって。俺はこの子と歌ってるから、的な。無論この子とは私の事だ。

私は私でママの話を聞く係でもあった。客商売だもの、笑ってたって機嫌悪い時だってある。そんな彼女には好きな人もいた。好き合っているとは言え、彼女は外から見れば奥様公認の行きつけのスナックのママでしかない。悔しがってもそこは仕方ないよね、私は何も言えなかったな。

彼女は私が出会ってきた女性の中で、最も女で最も女子で最もお母さんな人だった。女手一つで昼はお弁当屋さん夜はスナックで働いて二人の子を育て、今や自分のお店を出して常連客がいて、自分を磨いていたいと思える好きな人もいる。いつも全力で、だから泣く時も全力で。それを見てきたお客たちが今も応援して店を訪れ、ママに励まされて家路につく。店にきた客同士もなんとなくお互いを気遣って、じゃまた、って帰っていく。

そう、この感じだ。ああ、ママに会いたいな。

いや、もしかしたら「お酒」のせいかも知れないのだけれど。この空間の重要さは誰もが「弱いところを持っていると知っている」ところなのかもしれない。少し弱音を吐いてみて、それをママが拾ってくれて、ママがだめなら誰かが拾って、放っておかないこのスナックの仕組みがやさしいのかもしれない。

居酒屋の宴会では大きなテーブルをいくら人数多く囲んでも、取り残される可能性は孕んでる。4人でもありうる。2人だと今度は自分が拾ってあげなければならない役目を持つ。

スナックは(特にカウンター席)一人で座れば一人で過ごせる。何か話したくなればママがいる。たまに別の客に話を振ってくれたりもする。バーもそうか、いや、やっぱりママなんだよな。たまに大笑いして散らしてくれて、たまに何も言わずに涙浮かべてほめてくれたりする。きっとバーのマスターはこうじゃない気がする、いやこういうバーは逆にいかないな、自分。

ママが店をたたんだのは当時からの友人の知らせで知っている。だからもうママなママには会えない。でも、自分があんな空間を求めていることは再認識している。ひとりの自分をそのまま座らせてくれる、たまにかまって、たまに巻き込む、そこでしか会わない人たち。時間の流れを少し忘れさせてくれる、いとおしい場。あの人たち、実在するのかな。夢で見た場所みたいに思い出している。

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