スピリチュアルに生きるということ
私自身、10代の頃からずっとスピリチュアルな生き方を探求していきました。
その中で迷うことも多く、たくさんの間違いもしてきたし、人を傷つけてきたこともありました。
意識的なスタートから10年以上たった今振り返りますと、自分の内側が変化していく過程として仕方なかったとは思いつつ、どこか自分の内面での課題が、今でも残っているのを感じます。
頭を柔らかくすることが大切です。
バガヴァットギータとの縁をいただいてから、全てのあり方を肯定する広い境地があることを知りました。
職業に貴賎なし という言葉があります。
それぞれが自分に与えられた職業や人間関係を全うすることが、何よりも霊的なことではないかと思います。
引き寄せとか波動とか、例えば仏教のカルマ理論や菩提心の教えなどでもそうですが、確かにそれも大切なのですが、それを以て、じゃあこの現実をどう生きるのか?というのがやはり1番の課題なのです。
そう考えますと、ギータのテーマの一つである「カルマヨーガ・バクティヨーガ」は、本当に素晴らしいアイディアであり、道だと思います。
ヨーガは神のことを常に意識しますが、要は真剣に、目の前のことに全身全霊で当たれ、ということです。
例えば配管工でも、美容師でも、ソープ嬢でも、コンビニのバイトでも
全てを神に捧げる気持ちで行うことが、肝要だということです。
霊的な生き方を突き詰めれば自然とそこにも行き着くのですが、スピリチュアルと現実の間で葛藤している人は、過去の自分を含めて今でもたくさんいらっしゃるように思います。
全ては神の愛
そう思えれば、この世は瞬間に天国になります。感謝しかないでしょうし、現象的な不幸も全てが神からの祝福となります。
神のみが実在ならば、私たちに見えているそれ以外の色々ドロドロしたものというのは、愛の不在を示すものでしかなく、とてもシンプルです。
しかしそれに対して反発するエゴが自分の内側から出てきます。
それが、神の愛の炎によって炙り出されたエゴであり、苦しみは、その低位我の抵抗を示すものと言えます。
ただ、全ての苦しみがエゴかというと、それも難しい。
なぜなら、魂(人の側から感じる神の意志と言ってもいいかもしれない)からの要請に上手に答えられていない葛藤も、苦しみとして感じられるし、ひいてはそれで病気になることもあるからです。
人生は判断の連続。その中でどうやって判断するのか?
神は私に何をさせたがっているのだろうか…?
それは、わからないながらも食らいついてゆくしかありません。
そしてその連続によってのみ、私たちの直感は鍛えられていくのかもしれません。
「愚かな私には、あなたの愛が見えません。どうかどうか、私があなたの愛に気づけますように」
こう祈るのは、良いかもしれません。
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