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他者と自分を比べたときの焦燥感は希死念慮につながる

数年に一度抑鬱状態になり、一年ほどかけて寛解を迎え、また数年もすれば抑鬱状態になる。

抑鬱状態のどん底に陥ったときは、仕事を休んで友人とも連絡を取らず、このうえなく近しい人とだけ接する生活を繰り返す。風呂に入らず、寝続けて、与えられた食事を取り入れる。

毎日生きていたくない、ただ眠っていたい、溶けてなくなりたい、幸せな夢の中にいたい、自分は生きているべきではない、このまま死ねたらいいのに、
ただ行動には移せない。そんな気も起きない。億劫だ。

もんもんと考えながら、時間だけが過ぎていく。
とはいえ、ずっと病気でいたいわけではない。億劫な気持ちを抱えながらも適切な治療を受けていると、いつの間にか希死念慮は薄れていく。

生きているだけでも立派なのだ。
最悪でも生活保護が救ってくれる。まだ大丈夫。
5体満足、犯罪者じゃない、借金もない。
まあ全然生きてても許されるレベルでしょう。

そんな気持ちになると、自分がまだどん底じゃないように思える。

ある程度回復し、休業期間も満期を迎え、ようやく仕事に復帰する。
辞めるよりマシ、休むよりマシ、と出勤のハードルを下げながらも少しずつ日常に戻る。
久しぶりに会う人のなかには優しい人もいる。
当然時間の経過とともに、健常者と同様の振る舞いを求められるようになる。
最初は安心する。自分も普通の人なんだ、病気でもないんだ。可能性に満ちているんだ。

そうすると、欲が出てくる。
なぜあの人は許されて私は許されないのか。
なぜあの人は愛されて私は愛されないのか。
自分が死のうとしていたときのことなど忘れて、欲が出てきてしまう。
感謝も忘れてしまう。

そして、なまじ身近に優秀な人や著名な人が多いもんだから、
あの子たちとスタート地点は一緒だったのになぜ。
彼らは努力ができる人々なのに、私は何の努力もできない、何の取り柄もないクズ。
あのときこの選択肢を選んでいなければ。

他人と比べたり、過去の選択を悔やんだりする。
また世間一般の幸せな人生レースのサーキットに戻されたような気持ちに、勝手に陥っている。

思い出そう、そもそも死んでもいいと思ってたじゃないか。
人の上に立つ人生じゃなくても、とりあえずいいじゃないか。
何者かになろうとしなくても、とりあえずはいいじゃないか。

持ってないものを欲しがって手に入らなくて苦しむより、
持っているものを見直して感謝していかなければ。
少なくとも、私にはそういう人生のほうが、ハードルが低い。

わかっちゃいるが、自分は何者かだと思いたい気持ちは捨てられないんだよな。

そんなこと言いつつ、なんの努力もしてないし。
とりあえずグルグル脳内で考えるよりも、一歩アウトプットということで…。

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