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愛する技術

以前、自分は理屈っぽいほうだと書きましたが、感覚的な文章よりは、理屈で納得する傾向があります。たまに「あたしの中の何かがそれを拒んでいるわ!」と感覚的に受け付けないこともありますが。

今日は本の紹介と、愛することについて私の思考をつらつら書いてみます。要は読書感想文です。

「愛するということ The Art of Loving」
エーリッヒ・フロム著
鈴木晶訳

フロムの「愛するということ」は有名な本で、読んだことのある人は多いのだろうと思います。友人は、大学生の時、参考図書の一冊だったと言っていました。

こういう本は、課題図書でもない限り、「愛するって何なんだ!」と悩んだ人が読むものなのですかね。私がそうでしたけど。

母にこの本について話したら、なんと母も学生時代に読んだとのこと。
私「え、どうして読んだの?」
母「愛するということに悩んでいたから。」

なんか、ちょっと、親近感(いや親だから)。

愛は技術か

まず私がなるほどと感じたのは原題。
“The Art of Loving“ 
「愛する技術」と直訳できるでしょうか。愛するというのは、だれもが浸れる感情ではなく、人格全体で全力で努力して身につけていく技術である、ということを前提としています。(無理をすることとは違います。前向きに努力するのです。)

職業や資格のように、生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であることを知ると、どうすれば人を愛せるようになるのかを「学ぶ」必要があるのだと気づきます。そのためには、理論に精通すること、そしてその習練に励むことが大切ということです。

この前提について、私は腑に落ちました。なぜなら、感情は一時のことですが、技術は意志を持って取り組むことで身に付きます。身に付いたものはその人の生き方に影響を与え、さらに習練に励むことで深まっていきます。そして愛するとは、たしかにそのようなものであるはずだ、と納得したからです。

孤独

人は「愛したい」という永遠の願いがあるのに、生まれながらにして自己中心的な生き物だと思います。子どもは誰にも教わらないのに自己保身のために嘘をつき、大人になれば「愛している」と思う相手を自分の意のままにしたい思いが沸き上がってくる。

また無力で無防備な子ども時代に「愛されている」という感覚が乏しいと、不安を抱えた大人になります。そして得られなかった愛のために、一生涯かけて「愛される努力」をする人も少なくないそうです。

「愛するとはこのようなことである」と体験しない限り、あるいは学ばない限り、たとえ誰かと一緒にいたとしても孤独を感じるのかもしれません。

愛しつづけること

愛するとは「決意であり、決断であり、約束である。」
この考え方はクリスチャンの婚活セミナーや恋愛結婚の学びでよく出てくるので、教会で育った私なんかは学生時代から耳タコなフレーズです。

たしかに価値観として間違ってないと思うし、そのように愛したいと願うけど、でも若い時はどこか理想的なフレーズに聞こえて、現実味がないように感じていました。感情をあきらめてしまったら、愛することは結局のところ義務でしかないように感じたからです。

この言葉が身に沁みて腑に落ちたのは、自分の感情や情熱だけでは人ひとりをも愛せない、無力な自分にぶち当たった時だったと思います。なんて自分の感情は当てにならないんだろうって。

基本的に感情は自己中心的なものなので、その上に継続的な愛の関係を築くには不十分なのです。感情を否定しているのではなく、「愛し続けること」には決意と決断と約束が伴うのだということです。

(クリスチャン的には、この愛の価値観の表れが聖書にあるイエス・キリストの十字架の犠牲だと思いました。神様の愛の、決意と決断と約束!詳しくは聖書のヨハネによる福音書を読んでみてください。)

愛の習練

この本の最後の章は愛の習練について多くのページを割いています。

愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外にそれを経験する方法はない。

ごもっとも。
本書は「あなたはこうすれば愛することができる」という個人的な処方箋を示すことはできませんが、愛することの習練のためのアプローチに大切なことをいくつか紹介してくれています。

私はその一つに「信じる」ことの習練があったのが印象的でした。「根拠のあるヴィジョン」とも表現されていて、「権威のある誰かがそう言っていたから、大多数の人がそう言っていたから」ではなく、「自分自身の生産的な観察と思考に基づいた…確信」を指しています。

他人を信じることもそうですが、自分自身を信じることも大切な要素です。自分自身を観察して思考して知ることで初めて自分自身を信じることができます。また自分を信じている者だけが、他人に対して誠実になれる。なぜなら「自分自身にたいする信念は、他人に対して約束ができるための必須条件である」から。

この自分にたいする信念は、「自分が信頼に足る人間かどうか」という“評価“ではなくて「自分がどのような人間かをよく知っている」ということが重要な気がします。

自分自身を含め、人がすべてを理解することは不可能です。でも、よく知らないものを信じることはできないのですね。

最後に

私は愛されています。
だから愛することを学びたいと思っています。 
じつはあなたも愛されちゃってますよ。
だから愛することを学んでみませんか?

「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」
ヨハネの手紙第一 4章 19節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

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