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隣の青芝状態から脱却すべき理由

ふと思う出来事をきっかけに言語化しておこうと思ったので綴っていきます

※こちらのnoteは最後まで読めます✎


比較する必要性とは?

そもそも比べる事で生産性がある有意義なものであれば、大いに比較してほしいとは思います

でもそれがないのなら比較する事自体を止める方が得策

何も生まない不毛な時間です



隣の芝が青く見えるのは当たり前

隣の芝は青く見えるものです

なぜ青く見えてしまうかというと、その場所場所で感じる光の屈折具合のせい...つまり立ち位置によってだと僕は考えています

その立ち位置は常に一点ではなく、その時々で置かれている自身の状況や環境でも変わるようなもの

でも立ち位置が変わったとしても、芝の見え方はやはり光の屈折具合みたいなものなので、どこで立ったとしても、そもそもの場所自体を変えてみたりしても隣の芝は青く見えます



青く見えるのを踏まえた上で

もし有意義な比較にしたいとするならば、比べるべきは過去の事象と比べるべき


つまり自分自身の成長は他人と比べるのでなく、過去の自分と...

昨日と比べて1ミリでも成長してたと感じる何かがあればそれでいいのです

その成長したと感じる幅が人によって1cmなのか1mなのかはその人次第ではありますが...



隣を見るより自分の芝を青く育てよう

そして定期的にこれでいいのかな?とその芝を放置せずに刈り込んですっきりさせておくといいですよね

その中に自分の芯となる植物を育てていければ良いのではないでしょうか?


イメージとしては、
自分の庭の地中に埋まっている種が各事象

それらを見つけた時に興味を持つことで芽吹き、初めて自身が認識する


その認識した芽が好奇心でどんどんと育ち、茎として太くなる


そして花が咲くことでようやく自分の中に落としこめる


やがて成熟して樹木へと成長し、実をつけ

それが地に落ちる事で再び誰かの事象の種となっていく


僕の中ではこんな感じで自分の芯(樹木)となるものを育てていく

…わかりづらかったらすんませんw



改めて劣等感を手放すには

さて、話を戻しましょう

劣等感を乗り越える為には、まずその劣等感を感じている感情(価値基準)自分の単なる幻想に過ぎないと認識すべきです

なぜか?

今この時代この時点で、人々が受け入れている価値基準は決して当たり前のものではないんですよね

当然時代や場所が変われば価値基準も変わります

そんな移ろいやすく根拠のないものに振り回されるのがいかに不毛な時間だったのかと氣づき、感じる必要のない無駄な感情だったとバッサリ切り捨てましょう

よそはよそ!うちはうち!
ばあちゃんもよく言ってました



今考えると若干ニュアンスは違いますが、言わんとしてることはわかります

社会人への言葉として言い換えるとしたら

他の人は関係ない!あなたはあなたの価値観(価値基準)で判断し行動しなさい

ってとこでしょうか

※ここで氣をつけるべきなのは、この価値観や価値基準が、親や教師など目上の人や先輩からの言葉が自身の経験バイアスとなってかかってくる事が多数という事実

なにげない言葉も他者に影響を及ぼしているという認識

より氣をつけたいものです




まとめ

・生産性のある有意義なものであれば比較する

・価値基準とは時代や場所によっても変わり,常に移ろい続けているものと認識する=当たり前ではない


ここまでお読み頂きありがとうございました

ぜひ比較をするなら生産性のある有意義な比較を!

別noteもよろしくお願いします

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