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聞くために何が必要か


2024年6月2日(日)

聖書:ローマの信徒への手紙10章5~17節 

メッセージ「聞くには何が必要か」

牧会祈祷:

教区総会、キリスト教保育、実習生、こどもたち、親たち、高齢の者、病気の者、施設に入所した者、孤独に過ごす者、さまざまな課題を抱える者

 私たちを愛してくださる神さま、5月が終わり6月最初の日曜日となりました。振り返ると5月は気温の上がり下がりが大きく、体調管理の難しい日々でしたが、私たち一人一人をお支えくださりありがとうございます。6月は梅雨の季節です。ジメジメして過ごしにくい反面、水不足に悩む農家さんにとっては恵みの雨をもたらしてくれる一面もあります。6月の教会のあゆみ、そして私たち一人一人の生活の上にあなたのお支えとお守りが豊かにありますように。
 先週は教区総会が開催され、昨年度の教区の歩みが報告され、新年度の活動方針などが協議され、決定されました。どうか教区・地区の歩みをあなたが聖霊によって導いてください。私たちの目の前には高齢信徒の永眠、受洗者の減少、献金額の減少など厳しい現状がありますが、希望を失うことなく共に手を携えながら福音の光に導かれて歩めますように。
 十日町幼児園、山本愛泉保育園のために祈ります。子どもたち一人一人があなたの愛を受けて成長していけますように。子どもたちを送り出す家庭の上にも平和がありますように。園で働く職員一人一人をあなたがお支えください。幼児園では先週から教育実習生を迎えました。新しい人間関係、慣れない環境で懸命に実習を行う実習生の上にあなたのお守りと顧みが豊かにありますように。最後まで体調を崩すことがないようお休みの今日は良いリフレッシュの時が与えられますように。幼い子どもたちと関わる仕事は非常に責任が重く、また高度な専門性を有します。あなたの導きによって十日町幼児園で実習を受けている実習生がこどもたちの命、人権、平和を大切にするキリスト教保育から多くのことを学び、これからの自分の人生や仕事に活かしてくことができるようお守りください。
 私たちの良き羊飼いである神さま。教会に繋がっているこどもたちから高齢の者のために祈ります。それぞれに必要な良い全てのものをあなたが備えてください。病気の者、施設に入所している者、孤独に過ごす者、家族の介護・看病を行っている者、様々な課題を抱えているものがおります。あなたが一人一人に寄り添い、平和へと導いてくださることを信じます。
 言い尽くし得ません祈りをここにいる一人一人の祈りと合わせて私たち友であるイエス・キリストによって祈ります。アーメン

説教:

 「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。

ローマの信徒への手紙10章6節以下

だれが天国に行く?

 だれが天国に行き、だれが地獄に行くのでしょう。どんなことをすれば、どういった条件を達成すれば私たちは天国行きの切符を手に入れられるのでしょう。そのようなことを考える先にあるのは、あなたはまだこれこれを達成できていないから天国に行くことはできないという他者に対する裁きです。ローマの信徒への手紙の著者パウロは私たちに、心の中でだれが天に上るのか、だれが底なしの淵に下るのかと言ってはならないと忠告し、その後で「あなたは救われる」と宣言しています。救いというのは他人の問題ではなくてあなたの問題、自分自身の問題です。他人が天に上るのか、それとも底なしの淵に下るかは分かりません。ただ私たちには「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」という神さまの言葉が与えられています。だれでも救われるのです。最初は困った時の神頼みで構いません。大体にして人が宗教と接点を持つのは災害や事故、病気といった不条理を経験した時、人生がうまくいかなくなった時です。そういう時に聖書を通して神さまが「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と宣言してくださっているのは本当に嬉しいことです。牧師である私はキリスト教の良い知らせを伝える者としてこれを良い知らせとして多くの人に伝えたいし分かち合いたいと思っています。困った時に助けてと言える人、主の名を呼び求めるすべての人を神さまは救ってくださいます。

救いと願いは違う

 でも救いとは何でしょうか。救いについて考える時に注意したい点は、救いと願いは違うということです。それは重なる部分もあるかもしれませんが、救いと願いが必ずしも一致するわけではありません。救いとは神の業が行われることであり、私たちの願望が成就することではありません。私たちは日々を過ごす中で様々な願いを持って生きていますが、それを叶えてくれるのが神の救いだと勘違いすることを避けなければなりません。救いとはあくまで神の業が行われることです。

先週一週間の振り返り

 先週は月火が日本キリスト教保育同盟の総会・園長研修会、水木が関東教区総会と出張続きで多忙な1週間でした。体は疲れましたが良い刺激をたくさん受けて心は満たされて帰ってきました。私とは違う場所や状況に神さまから遣わされたいろんな人の話を聞くことを通して、自分一人で考えていても得られない発想や視点に触れることができました。それらを自分の内側に閉じ込めておくのはもったいないことですから、皆さんと分かち合って十日町教会の宣教をますます豊かなものとしていけたらと願っています。

 火曜日に行われた園長研修ではキリスト教保育についての学び、また乳児院といって親の虐待など様々な事情で親から離れて養育する必要のある乳児を保育する施設のお話を聞きました。小さな子どもたちにとって親と別れて暮らすことは本当に辛く悲しいことです。願わくば親も子も早く一緒に暮らしたいという思いを持つでしょうが、少なくとも今の段階で子どもを家庭に返しても子どもが虐待を受けてしまう、十分な収入がないから衣食住が提供されない、両親が暴力を伴う喧嘩をしていて子どもの命が危ない、人権が保障されない、平和に過ごすことができない等の理由から子どもにとっての最善の利益を考えて乳児院という保護施設に保護されるのです。それは親と子の願いは叶っていなくても、両者にとって救いだと思います。命、人権、平和が守られ保障されているからです。

 救いと願いが必ずしも重ならない出来事を手紙の著者パウロも経験しています。彼が書いた別の手紙の中でこう言っています。「わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(コリントの信徒への手紙二12章7節以下)

 パウロには一つの「とげ」が与えられていたと言います。これが何のことなのかわ分かりませんが、「とげ」と表現されていますから偏頭痛やリウマチなど痛みを伴う病気や障がいを患ったのでしょう。彼は3度神にこれを取り去ってくれるよう願いましたがその願いは叶えられませんでした。彼は代わりに「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という神の言葉を与えられます。この言葉を受けてパウロは弱さが克服されることを願うのではなく、弱いままの自分を通して神の業がなされること、つまり救いの出来事が起こされることを信じて生きたのです。

 私たちは困った時の神頼みで様々なことを願い求めます。病気が治るように。大変な家庭環境が解決するように。希望している進路に進んでいけるように。聖書は言います。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる。」しかし私たちの願いと救いが必ずしも一致するわけではありませんから、私たちは自分の願いとは違う形で救いが起こるかもしれないということを弁える必要があります。願いは叶わないかもしれません。しかし神さまは私たちの願っていること以上に素晴らしい救いを実現してくださる、という希望を持って生きたく思っています。

次世代に信仰のバトンを渡す

 先週の水木は関東教区の定期総会でした。初日は朝から夜8時半まで長時間にわたり、二日目も朝から午後までと非常に長い会議でくたびれました。役員会から議員として参加してくださったAさんに感謝いたします。初日の夜には協議会が開催され、3名の方から発題を聞き、応答の時間がありました。私の印象に残ったのは新潟教会の信徒さんの発題です。「次世代へ、信仰のバトンを渡すために」という題でした。新潟地区、関東教区のみならず全国の教会で深刻な少子高齢化が起こっており、これまで長きにわたって教会を支えてきた方々は、このままでは私たちの代で教会が無くなってしまうという危機感を感じておられます。どうすれば次世代に信仰のバトンを渡すことができるのかが課題なわけですが、ともすればこの議論は自分たちのお世話をしてもらうため、自分ができなくなった奉仕や献金を若い人たちに担ってもらうためという下心が先行してしまいます。でも若い世代はそういう下心の詰まったバトンは受け取ってくれません。協議会では皆さんそのことをよく理解し、自分たちのためにバトンを渡すのではなく若い世代の幸せや平和を願ってバトンを渡すことの大切さが語られました。私たちは物価高、少子高齢化、社会保険料や税金の増額、非正規雇用の拡大、賃金据え置き、孤立無縁化、戦争の危機、深刻な気候危機など様々な困難のある現代を生きる若い世代を支える希望、良い知らせが教会、聖書、キリスト教にはあることを信じています。それは他ならぬ自分自身がまた長い人生の中でイエス・キリストの福音に支えられてきた一人だからです。洗礼を受けること、礼拝に出席すること、奉仕を担うこと等と結び付かなくても良い。とにかく私たちは大変な今を生きる人たちに私たちの人生を支えた信仰のバトンを渡したいのです。

信仰のバトンとは聖霊のバトン

 信仰のバトンとは下心のバトンではなく聖霊のバトンです。キリスト教において聖霊は自由、柔軟、ワクワクすること、創造的なことの象徴です。パウロはローマの信徒への手紙の中で「聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』」と語っています。私たちが聞くためには宣べ伝える人が必要なのですが、もっと大切なことは宣べ伝える内容です。下心のバトンではなく、良い知らせの詰まった聖霊のバトンを宣べ伝える必要があります。

私自身の思い出

 協議会を受けて私自身のことを振り返りました。私はキリスト教徒の家庭で生まれ育ったわけではありません。幼稚園から高校まで公立に通い、不思議な縁で京都にある同志社大学神学部に入学しました。大学の授業の関係でいくつかの教会の礼拝に出席しましたが、当時学生という若い世代だった私はかなり敏感に教会の人たちの下心を感じ取っていたことを思い出します。「この人、歓迎すると言いながら何かしてくれることを求めているな」と。例えば青年会とか教会学校のリーダーとか。そういう下心を感じる教会には続けて通うことはありませんでした。そんな中でも自分の居場所だと思える教会と出会い、大学4年生の時に洗礼を受けましたが、そこでは教会の皆さんから聖霊のバトンを受け取ったように今振り返って思うのです。教会が大切にしてきたことはこれだから、これを大切に守りなさい。あなたの仕事はこれであって他の余計なこと、新しいことはしなくて良いです。そんなこと言われたら後継者なんて現れないですよね。次世代が受け取ってくれる信仰のバトンとはこのようなバトンです。「神さまがあなたを教会に招いてくださったことに心から感謝しています。私たちが受け取ってきた聖霊のバトンをお渡しします。どうぞ聖霊に満たされて自由に、柔軟な発想で良い知らせを宣べ伝える教会の働きをあなたなりに担ってください。教会は良いところですよ。人生は楽しいこと、うれしいことばかりではありませんが、必ずあなたを支え、助けてくださる神さまが共にいてくださり、命のパンを与えてくださるということを私たちは確信しています。」そのようなキリストの言葉を宣べ伝えたいと思います。

 次世代に聖霊のバトンを渡しましょう。自分たちのためではなく、純粋に次世代のためを思って。彼/彼女らが大変な世の中にあっても希望を失うことなく忍耐強く、何度でも起き上がって生き抜くために必要となる良い知らせを宣べ伝えるためにこの礼拝から派遣されていきましょう。

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