背の低かったのはイエス?ザアカイ?どっちでしょう?

以下は2021年6月の子どもの日・花の日合同礼拝における聖書メッセージです。

聖書 新約聖書 ルカによる福音書19章1〜10節

 イエスさま一行がエリコという町に入った時のお話です。その町にはザアカイという人がいました。税金を集める仕事をする人たちのリーダーで、お金持ちでした。イエスさまがエリコにやってきたという話を聞き、「罪人や徴税人の仲間」と呼ばれていたイエスさまがどんな人か見たいと思いました。それでイエスさまの所にやってきましたが、そこにはたくさんの人がおり、さらには背が低かったのでイエスさまを見ることができませんでした。

 さて、ここで皆さんに問題です。「背か低かったの」は一体誰でしょうか。


⑴ザアカイさん

⑵イエスさま





 正解は………分かりません。実は私がまだ大学生の頃、新約聖書の授業の時に先生がこう解説していました。ここで「背が低い」という語が誰にかかっているのか、ギリシア語で書かれた聖書を読むとはっきりしていない。なのに聖書を読む人は誰もが背が低かったのはザアカイであって、イエスさまのはずがないと思い込んでいる。しかしここではザアカイの背が低かった可能性と、イエスの背が低かった可能性の2つがある。

 今日注目したいのは背が低かったのははたしてどちらかということではなく、私たちの中にある思い込みについてです。新約聖書はコイネー・ギリシア語という当時のローマ帝国のみならず、とても広い地域で用いられていた共通語で書かれました。ですから当時の聖書読者の中にはザアカイさんのお話を読み、イエスさまの背が低かったのだと思った人もいたかもしれません。しかしその後人々の間でギリシア語が使われなくなり、ギリシア語を読める人の解釈が入った聖書のお話を聞くという時代になると、背が低かったのはザアカイであるという理解が支配的になりました。ここで大切なのはイエスさまの背が低かったという可能性を検討することではなく、人は一旦こうだと思い込むとそこから考えを変わることがとても難しいという人間のくせを理解することです。

 さて、エリコという町にはたくさんの人たちからある評価をされていた一人の人物がいました。その評価とはどんなものかというと、「罪深い男」という評価です。誰がそう思われていたか。ザアカイです。税金を集める仕事をしていた人たちは人々から嫌われていました。実際の税金の額よりもちょっと水増しして徴収し、それを自分の懐に入れていたと言われています。あるいは集めた税金を納める際にローマ人という異邦人と関わるので嫌われていたといいます。エリコに住む人たちは実際にザアカイがどんな人なのかということよりも、「あの徴税人のかしらで、金持ちのザアカイは罪人だ」と思い込んでいたのです。ザアカイさん、孤独で寂しかったでしょうね。誰かといっしょにご飯を食べたくても街の中には食べてくれる人がいない。そんな生活を送っていました。

 そこにイエスさまがやってきます。ザアカイはなんとしてでもイエスさまを見たいと思っていちじく桑の木に登ってイエスさまを見ました。イエスさまは木の上に登ってまで自分のことを見たいと思っているザアカイに対して、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」と言いました。イエスさまはザアカイと関わろうと決めたのです。そしてザアカイはイエスさまと楽しい時間を過ごし、彼はすっかり新しくされて自分のこれからの生き方をイエスさまに宣言します。「財産の半分を貧しい人々に施します。だまし取った物は、それを4倍にして返します。」イエスさまはこの言葉を聞いて宣言しました。「今日、救いがこの家を訪れた。」

 もしイエスさまがザアカイに対して先入観を持って接していたら、こういう結果にはならなかったでしょう。「あいつは罪人だからダメだ」と切り捨てるのではなく関わるイエスさま。その人のうちにある可能性を信じるイエスさま。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と自分の使命を宣言したイエスさま。罪人のかしらと呼ばれたイエスさまはザアカイのようなきらわれものに愛情を注いだのでした。

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