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6 運命の分かれ道

私は、小学生になった。
小学生になると、さらに母との仲が悪くなった。祖父のことが母にはあったからだと思う。母の怒りの沸点が早くなって、もっと私にきつく当たるようになった。
毎日ケンカばかり。言い争いだけでなく、叩き合うこともあった。おやつも思うように与えられないので、おもちゃのお金を持って、近くのお店に買いに行ったこともある。もちろん、「これでは買えないよ」と、お店の人に追い返される。本物のお金でしか買えないことを知った私は、その後、母のかばんの中から財布をこっそり抜き出して、こっそり好きなものを買いに行っていた。泥棒をしている罪悪感など全くなかった。

また、ケンカがひどいときには家出を試みた。とは言っても、まだ低学年。夕方、家を出て、家の玄関の前で父の帰りをずーっと待っていた。夜になって、玄関の前に座る私に父は驚いた。「どうした!?」「お母さんがイヤなんだもん」「そうだったんだね、かわいそうに」父は私の気持ちに寄り添い、味方になってくれた。父は、あの件があってから祖父には冷たくなったが、私に対してはすごく優しい。本当に父のおかげで、私の内にある優しい気持ちの種が奪われずに済んだと思っている。

3年生になって、本気で家出をしようと決めた。学用品、衣服とタオルにおもちゃなど、紙袋に荷物を全部詰め込んで、家を出ようとした。
すると母が、
「今日は雨が降っているからやめておきなさい」
意味がわからなかった。風邪をひくなどと心配して、私を止めた。本心なのか。じゃ、雨が降ってなかったら私を止めなかったのか。母の気持ちがわからずにモヤモヤして苦しかったことを覚えている。

小学校4つの思い出

私が通っていた小学校は、マンモス校とも呼ばれる、生徒数が多い大きな小学校。家にいるよりも母と離れて過ごす生活が、本当に楽しくて楽しくて仕方がなかった。運動会も文化祭も賑やかで楽しかった。お菓子を食べたいという理由で、茶道クラブに入ったりもして。走りに自信があったけど、もっと速い子がいて悔しかった。でもその子を「すごいね!」と、褒めることができたのは、良かったことだと思う。母と妹以外の他人には、人を尊重できる人間になっていたのだから。小学1年生から4年生までの間で、特に記憶に深く残っていることが4つある。

①貧血

朝礼は運動場。前へならえ、そして小さく前へならえ。スタンドマイクで話す校長先生。車道からの騒音は耳に入れず、話を聞いていたのだが、時間が経ってくると、その声はだんだんと聞こえない。

突然目の前が真っ暗になり、次に見た光景には、校長先生の姿はない。代わりに青い空が広がっていた。徐々に車道からの騒音が聞こえる。そしてクラスメイトのよく知る声が聞こえてきた。

「だいじょうぶ?」

クラスメイトも何事だと言わんばかりに、私を見ている。仰向けになっている自分に気がついた時には、私の体は何ともなく、すぐに立ち上がった。

「うん、だいじょうぶ」
「え?なに?倒れてた!?」

苦笑いするほかない。恥ずかしさを苦笑いで乗り越えた。
これが、ずっとこの先も長いお付き合いになる初めての貧血だった。

②鉄棒

休み時間になると決まって、校舎からいちばん遠い、運動場の片隅にある鉄棒で遊んでいた。スカート回り、連続前回転、連続後回転、足掛け回り。得意だった。だけど、自分の目の高さの鉄棒に逆上がりをする時、勢い余って口元に激突。血がタラタラと流れる。止まらない。痛い。

歯が少し欠けてしまっていた。大人になるにつれ、歯を出して笑うことがいつも気になって、心から笑えない。親しい人にしか満面の笑顔を見せることはなくなった。顔への自信がなくなっていく原因の要素の一つとなった。

③鍵っ子

私の母方の祖母。通院していたおばあちゃんが、とうとうがんが悪化し、入院した。母は、「祖父が帰ってこいと言うし、お母さんもお世話したいから帰らせて」と、急に一人だけ実家へ戻った。
4年生の私と、1年生になったばかりの妹を置いて。

父と私と妹。3人の生活が始まった。
それはそれは楽しい生活だった。父は仕事に行くので、私たちは早朝に起こされる。ラップにくるんだ楕円形のおにぎりに、ふりかけをかけてもらう。これが毎朝の朝食。そしてすぐに父は出勤、私たちは登校の時間になるまで、皮肉にも“おかあさんといっしょ”やポンキッキーを観る。でも、母がいなくてさみしいという気持ちは全くない。登校時間になると、玄関横のはきだし窓から靴をもって外に出る。どうやら玄関の鍵がかかりにくいのと、“子供しかいない”ということがバレないためにそこから出入りするように指示された。

下校は、どうしても1年生が5時限で終わる。
まだ妹は一人では帰れない。
6時限の私を4年生教室の前の廊下で、妹は辛抱強く待っていた。心が明るくなったのは、クラスの子が妹をかまいに行ってくれたことだ。これから誰もいない家に帰る、心細い私たちを勇気づけてくれた。誇り高い仲間だ。

家に帰ると、また窓から侵入する。父の帰宅はいつも21時頃。それまでの間、私と妹の二人きりだ。そのときばかりは、姉として妹の面倒を見ることが必然的で、いじめることは減っていた。夕方には、母が祖母に付き添っている病院の公衆電話から、私たちに電話をかけてくる。毎回いつも、「◯◯ちゃんどうしてる?◯◯ちゃんに電話代わって」やっぱり私よりも妹が心配だった。まぁそうだろう。夜になり、父が夕飯を買ってくる。ほか弁だった。不安でたまらなかった私は、父の帰宅が嬉しくて、毎日同じお弁当でも飽きることはなかった。

土曜日は午前中で学校が終わる。その日は父からお金を渡される。有難いことに、家の近くにパンを売りにきてくれる車がやってきて、お昼ご飯は買ったパンのみ。父の分も買っていた。「お父さんの分も買ったよ!」母の代わりに、私たちの面倒を全てみてくれる父に、どうしても何かしたかったのだと思う。

日曜日になると、父は悲しませまいと思ったのだろう。ちょうどその頃、大阪万博があったので、よく連れて行ってくれた。やりたいもの、欲しいもの、何でもきいてくれた。

一番困ったことは、妹が熱を出した時だ。ぐったりしていて、父の勤務先に電話をかけた。

「もしもし」男の人の声。
父だと思った。
「お父さん!?早く帰ってきて!」

言ったものの、それは父ではなく、会社の従業員だった。

「ごめんね、僕はお父さんじゃないよ」

間違えて恥ずかしかったが、そんな暇はない。

「お父さんいますか!?」

従業員の人は察して父に代わってくれた。受話器から私を呼ぶ父の声。私は安堵して初めて泣いてしまった。

「◯◯ちゃんがお熱出てる、帰ってきて」

しばらくすると帰ってきてくれた。どうしたらいいかわからなかった私のパニック状態が解放された瞬間だった。父を私がどれだけ頼りにしている存在であるか、身にしみた出来事だった。

④母の来校

午後の授業中だった。突然教室に、廊下を眩しく照らす光の中から見慣れた人物が現れた。担任の先生と話をしている。母だった。
「やっぱりあのことかなぁ」

話し終えた先生が、クラスメイトに向けて言った。
「◯◯さんがもうすぐ転校されます」
薄々母から、私たちも母の実家へ戻るということは聞いていたから、私はただ確信に変わっただけ。けれど、先生とクラスメイトは初耳だ。
視線が私の方に向けて一気に集中する。
「離れても友だちだよ!」
「どこに転校するの?」
いろいろ声をかけてくれた。
「何で言ってくれなかったの!」
怒りを交えながらも、その目には涙をためている子も。泣いている子もいた。私のために泣いてくれているんだ。私は、悲しいと思ってくれている様子に感激していた。

最後の登校は、クラスでお別れ会を楽しく開いてもらって、お手紙と色紙をいただいた。また個人からも、絶対伝わるであろう、心のこもった、私の名前が入った手作りの刺繍や飾りなどをもらう。これを嬉しくないわけがない。喜びと悲しみが押し寄せる。けれど、どうしようもできない。

それからというもの、30年以上経った今でも、連絡を取り合える友達がいる。
一生忘れない、お友だち。

転校は嫌だった。 嫌だった! 嫌だった!!
祖母のためを想うと心が痛むところもあるけれど、仕方ないと思うところもあるけれど。楽しく過ごしてきた小学校、ともだちとのさよならはやっぱり悲しくてつらい。嫌だった。子供だから大人の都合のままに。私の気持ちは?母がもっと嫌いになった。

以前、祖父のことで問題になった時、父と母が離婚の話をしたっぽい。
父が、
「お父さんとお母さん、どっちについていく?」
なんて聞かれたことがあって、私は即答で「おとうさん!」と言ったことを思い出した。あの時、本当に離婚していたら、どうなっていただろう。結局、「子供のために離婚しなかった」と父は言うが、果たして、私のためになっているだろうか。

この転校が、私の運命を狂わせた大きな原因だったことは確かなことだろう。
このままの学校生活を送っていった、もう1人の私に会ってみたい。
どんな人生を送っていますか?
幸せですか?

運命の分かれ道。
光の道と闇の道。
光の道はあなたの道。
そして闇の道を、どんな道なのか知らないままに私は進んでゆく。

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