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40代の大人が、現役学生に奢ったりバイト代払ったりしながら話をするということ

「モスに着きました」

約束した時間の10分ほど前にLINEが届いた。今日は高校生4人グループに、40代の自分が紛れてお茶をする日。

「時間ギリギリに着くから先に入って席を取っておいて。注文は僕が到着してからで」

コンビニの駐車場で返信をし、モスへ向けて車を走らせる。

お店に入り軽く挨拶をして、全員揃ってレジへ。

「ここは奢るから好きなものを遠慮なく頼んでいいよ」と言ったら本当に遠慮なく食べたいものや飲みたいものを注文する高校生たち。

自分も含めて5人分。モスで7000円近い支払いは初めてだ。

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長年暮らした東京を離れ、地元(静岡県西部)でUターン起業して2年半。地域イベントに足を運んだり運営に絡ませてもらったりな流れで、学生たちと交流する機会が一気に増えた。小中学生との交流は単純に『楽しい』なのだが、高校生や大学生と話すと『そうなのか!』と、こちらが気付かされることが多い。

親子ほど歳の離れた存在だし、生まれた時からネットがあって当たり前な世代だし、価値観が大きく異なるのは当然のこと。その異なる部分を知れば知るほど、マイナスな印象で嘆くことはなく、むしろ自分の中で固定化された常識が良い意味で崩れ去って、これまで見えなかった景色を見せてくれるような感覚を覚える。端的に言えば『面白い』そして『嬉しい』。

この感覚に気づいてから、意識して高校生や大学生と積極的に交流するようになった。大人同士で語り合っている限りでは辿り着けないような角度や場所からの視点を放り込んでくれることに、とても大きな価値を感じる。数年先には社会を動かす存在になる世代。『これまで』も大切だが、それ以上に重要なのは『これから』だ。

40代の自分が学生の頃は『こうするべき』という枠があり、はみ出たり劣ったりしていると減点されるような教育が主流だったように思う。まだまだその流れは根強く残っているのかもしれないが、あの頃と比べれば多様化も進み、学びも遊びもコミュニーションの手段も、選択肢が圧倒的に増えている。

そんな『これから』な世代の感覚を直接触れて知ることは、変化が大きく先が読みづらい世の中で、無自覚に自分の価値観を押し付けたり、誤った解釈で若者の可能性を潰すことなく『大人が地域の未来のためにできること』を考える上で必要なことだなと感じる。

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「もっと学生に地域活動に参加してほしいって言うけど、ウチらだって誰かのために何かしたいって気持ちは常にあるんですよ」

「よく『若者ってこうだよね』って勝手にラベリングしてくること多くて、あれ困るんですよねー」

「例えば『学生はインスタやYouTube見てるから、じゃあそれで情報発信しよう』っていうのあるじゃないですか?」

「うん、あるある」

「で、反応が全然無いって悩む大人がいるけど、そりゃそうなりますよ」

「ロクに調べないで決めつけてるだけなんで。なんだかバカにされてる気にしかならないです」

「もっと若者に興味持ってほしいとか参加してほしいって言うわりに、大人側の都合優先でカタチになったものを、さぁどうぞってパターン多すぎ」

「若者に関わって欲しいなら、直接声かけてくれたりで話させてくださいよって思います。そしたらリアルな提案ができるんで」

この高校生たちに限らず、僕が交流させてもらっている学生たちは、地元ではアクティブな部類に入るタイプ。地域イベントに足を運んだり運営に関わったり大人と交流したりに積極的な人ばかりだ。(そもそも、そういう学生じゃないと、大人からの「お茶しようよ」って誘いに乗ってくれないというのもあるだろうし)

そんなアクティブな学生たちは、良い意味で大人に遠慮が無い。言いたいことはハッキリと言ってくれる。こちらも気を遣わずアレコレ話せるので、とてもありがたい。しかも、ただ不満をこぼしたり文句を言うのではなく『だから、こうすればいいのに』の提案も添えて意見してくれる。

なるほどなーと感心することも多いし、ガツンと砂袋で後頭部を殴られるような衝撃を受けることもある。

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【誤解の無いようにお願いしたいこと】
このnoteを読んで『今どきの学生はこうなんだ』という、学生が全体的にこうなんだと決めつけるような解釈はせず、あくまで『こういう価値観の学生もいるんだな』という、多様性の方向で『参考にする』レベルで受け止めてください。

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とある大学生グループと話をしていた時、こんな話題になった。

「なんで大人の人たちって、なんでも組織で動きたがるんですかね?」

「どういうこと?」

「同じ目的を持った人が、その時その時で集まってグループを作って動くとかならいいんですけど、すごく重い組織みたいなところに属してないとダメだみたいなこと言ったりするじゃないですか」

「組織の強みってのも解るんですけど、そういうのに限って、個人の意思よりも組織の仕組みとか伝統みたいなものを優先してくるんですよね」

「もちろん人生の先輩を敬うって気持ちはあるんですけど、自分たちがこうしてきたからお前らもこうしろって押し付ける雰囲気が強くないですか?」

「あるある。あと、その組織を絶やさないように若者に入ってほしいって言われても『知らんけど』ってなる」

「人間関係のめんどくささを感じると近づきたくなくなります」

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自分が交流している学生たちに共通しているのは、この最後の『人間関係のめんどくささ』を極力避ける傾向があるということ。

損得で付き合うのとは少し違う。目の前の数名(多くて数十名)との人間関係で気が重くなったりするくらいなら、別の場所に自分にとって有意義な人間関係を構築すればいいじゃない、という考え方だ。

これは僕自身も常に感じていること。切磋琢磨して自分を高めるライバル関係や、成長し合える輪の中なら全く問題無いし、楽しい嬉しいを共有できる関係なら文句無し。そうではなく、物理的にも精神的にもしんどい思いを強いられるような組織や人間関係なら、我慢して身を置き続ける必要は無い。どのみち世の中の全ての人と顔見知りになって交流することは不可能だ。目の前の関係が重いなら、しれっと距離を置いて(波風立ててのケンカ別れは絶対に避けつつ)、別の場所で新たな人間関係を作ればいい。

例えば音楽を発表するなら、ネット以前は、レコード会社やJASRACという大地主を通してようやく一般の人の耳に届けることができたが、今では個人が世界に向けて公開する機会は簡単に作れる。例えば個人の意見を多くの人の目に触れるように発表したければ、ネット以前は、新聞に投書して選ばれたりしなければならなかったが、今ではSNSやブログなどで簡単に発信できる。

同様に、今なら人間関係も、気の合う友人や同じ目的を持って取り組める仲間を見つけることは難しくない。生まれてからインターネットが身近な彼らは、それが当たり前だという価値観。むしろ、そうしないで我慢する傾向にある大人たちに対しては『なんで?』と強く疑問を感じるのだろう。

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学生と話す時、僕からこんな質問をさせてもらっている。

「身近な人でも有名人でもいいから、憧れている大人って誰なのかな?」

すると、ほぼ全員が『いない』と答える。

最初のうちは驚いたが、よくよく聞くと、尊敬する大人が世の中に存在しないという意味での『いない』ではないということが解ってくる。スゴいと感じる大人はむしろ大勢いるようだ。

では何故『いない』と答えるのか。それは『その大人と同じイメージで自分を見てもらいたくない』ということらしい。

ダイバーシティやコロナ禍の流れを汲んでるからか『世の中にはいろんな人がいる』『自分も世の中も変化する』が大前提になっているように感じる。なので、常に自分自身が自由に動いたり変化できるように『ラベリングされること(レッテルを貼られること)』を好まないのかもしれない。

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ここまでの話をまとめると、ポイントは大きく2点。

◇可能性を狭める方向でラベリングされることを嫌う
◇人間関係のめんどくささを極力避ける

要するに『自分の意思で自由に動けること』を優先する傾向にある。(←これはラベリングではなく「そういう人もいるんだな」と視野を広げる方向の解釈として受け取ってもらいたい)

これって自分たちより上の世代にありがちな、大企業で、正社員で、終身雇用でといった『安定』を最善とする価値観とは大きく異なる点ではなかろうか。『こうするべき』や『みんなこうしてる(こうしてきた)から』に当てはめられたくないというか。

人間関係の大切さを伝えているつもりで、実は組織の都合や古い慣習を押し付けている状況になっていたり。『こういう人です』とシンプルに明確化することを良しとされがちだけど、実は多様性や変化といった将来の可能性を狭めてしまっていたり。そんな大人都合の価値観を、学生たちは鋭い嗅覚で察して上手く避けているように思う。

そいういえば、とある学生はこう言っていた。

「地域イベントに若者が参加してくれないって言うけど、大人たちが用意して、大人たちが仕切っている場という時点で、学生は足を運びませんよ」

これもまさに、大人からの価値観の押し付けを避ける、あるいは、大人の感覚で『こうだろう』と用意されたものはピントがズレていると感じる、ということなのだろう。

では、学生たちにとって大人の存在はただただ面倒で関わりたくないものなのかと問われれば、答えはハッキリ「No」だ。

先に述べた2つのポイントは避ける傾向が強いが、モスで話した高校生の言葉にもあるように「誰かのために何かしたいって気持ちは常にある」のだ。そのために大人から学びたい、大人とも連携したいと感じてくれている部分も大いにある。

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大人として、学生相手にどう立ち振る舞うのが良いのか。これまで数十人の地元高校生&大学生とゆっくり話をさせてもらって、自分の中でまとめてみると、このようになる。

【超重要】
◇大人側が、若者の現状を『直接ヒヤリングして』理解してアップデートしていく。

【コミュニケーション】
◇大人は自分たちの価値観を押し付けず「自分たちはこうだったけどどうかな?」と、あくまでヒントを与えるのみ。
◇質問されたことには、学生の立場を優先して『最適解』を提案する。
◇世代は異なっても、20〜30年前の自分たちの時代と変わらない『普遍的な価値』を見つけたら、必要に応じて「ここ大切だよ」と伝える。

【サポート】
◇大人はハード(場所・予算などの環境)を提供し、若者が自由にソフト(コンテンツ)を作って運営できるという連携。
◇若者から頼ってもらった際に動ける準備をしておく。
◇若者から遠慮なく頼ってもらえる信頼関係を築いておく。

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ある高校生と話した後、こう言ってくれた。「アウトプットにもなり、フィードバックもいただき、すごく有意義な時間でした」

ある大学生と話した後、こう言ってくれた。「質問されると、自分の考えで整理整頓できてない部分が見つかって助かります」

ある大学生と話した後、こう言ってくれた。「地元の大人が何を考えているのかって意外と知る機会が無いから、いろいろ聞けて楽しいです」

こうしてお茶しながら話をする機会は、もちろん自分にとってはものすごく価値の高い時間だが、学生側もプラスに感じてくれているのはとても嬉しい。親でも先生でも地域活動の先輩でも無い立場なので、遠慮なく思っていることを吐き出してくれているようで、その点もありがたい。

ちなみに、大勢のグループで深めな話をするのは得意ではない。多くて4人(自分を入れて5人)、できれば1対1で話したい。時には自分の会社(プロトペラ)が抱えている案件について学生視点のアドバイスをもらうため、バイト代を払って話を聞かせてもらったりもしている。

「◯◯(某有名人)のこと好きな学生って、◎◎(タイプ)な人くらいですよ」「◯◯(某SNS)って、◎◎(タイプ)しか使ってないですよ」などなど、直接聞かないと知れない(気づけない)ことは本当に多い。

この流れは今後も続けていき、現場から得られる情報や価値観を常に更新していきたい。

【余談】
これまで話した学生は「諦めたらそこで試合終了ですよ…?」というセリフを知っている率ほぼ100%。スラムダンクって偉大だ。

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