【映画感想文】エマ・ストーン主演『哀れなるものたち』【ネタバレあり】 2024/01/28開始、2024/01/29更新
2024/01/28(日曜)鑑賞
早速、映画『哀れなるものたち』を観てきた。非常に説明に困る作品だ。何とも言いようがない。
カップルで観にきていたような感じの人もいたが、カップルで観にいってはいけない映画だと思う、一般的には。
映画『哀れなるものたち』を今日観たが、この映画に関する記事を書きたくない。収束させたくない。考えたくない。逃げたい。観念したい。他の人の映画評を見てみたい、そんな欲求に駆られる。
①鑑賞直後の印象
とてつもない映画だった。エマ・ストーンの怪演がすごい。表面的に見ると「性」について扱った作品だ。広く言えば、「人間の本性」に真正面から向き合った作品とも言える。とにかく何とも言えない作品である。人間の一生をぎゅっと凝縮したような作品だ。何と表現したらいいのかわからない。
ヒトと動物との間の境界線はない。境界なんて全くないんだ。ヒトが、ヒトと動物の間に明確な境界線があると錯覚していることを、この映画は風刺しているのかもしれない。
能動的ニヒリズム。全ての「ヒト」と「モノ」と「動物」が、突き詰めていくと、POOR THINGSだとバレてしまっても、それでもなお生きる。そこにヒトの生き方の個性が生まれるのだ。
戦う女と、その延長線上にある世界の不幸。いや、何が不幸で、何が幸せなのかも分からなくなってくる。どっちつかずが、絶望を煽る。
舞台はロンドン。冒頭、美しい青を纏ったエマ・ストーンが描かれる。引き込まれる。
そして、白黒の描写。奇妙で、予想不可能なエマ・ストーンの演技が始まる。おかしい、怪しい、奇妙。窮屈な生活。でも、外の世界を知らないエマ・ストーンが演じるベラは、窮屈だと感じていない。閉じられた家の中で、奔放に暮らしている。
閉じ込められた世界からの脱出を手伝ってくれる弁護士に誘われ、ポルトガルのリスボンを訪れる。その後、船が舞台になる。豪華客船だ。船の乗組員に尋ねると、「三日後にアテネに着く」と言われる。アレクサンドリアに行って、金がなくなり、そしてパリで船から降ろされた。
ちなみに、アレクサンドリアは、カイロに次ぐエジプト第2の都市で人口は約526万人(2021年)のようだ。今はない昔の都市だと思っていた。
青の色合いが素晴らしかった。空の青とも、海の青とも違う、あのドレスの色。
なぜ最初は白黒だったんだろう。閉じられた世界が白黒で、外の世界がカラーなのか。自我が芽生えた時、親から離れたタイミングで、世界は彩り豊かになる。
②正直で率直な感想
意味が分からない。
最後、夫は、ヤギの脳みそを入れ替えられてしまう。狂っている。ヒトと動物の命は等価だと言いたいのか。
青の色が映える。美しい。水の描写が多かったような気がする。橋の下の水、海、湖畔。最後の場面で、二人目の実験台に、水を持って来させていたのを思い出した。
映画では、実質、ベラの何日間の人生を見たのだろうか? 一年くらいの印象だ。
エッグタルトは、一口で食べる。そうなんだ、知らなかった。
弁護士の男の精神が崩壊していく。最初、弁護士の男は、ベラに対して、遊びだったはずだ。ゴッドから、弁護士は、婚姻に関する契約の作成を頼まれ、その当事者のベラに興味を持ってしまった。ヒトは、他人が求めていることを見て、その欲求を模倣する生き物だ。
身体やセックスの映像は、全く興奮を呼び起こさない。モノのしてのヒトの身体を描いている。身体とはグロテスクなものだと感じた。
社会という表の世界では、ほとんどのヒトは、欲望を表に出すことなく生きている。欲望を表に出しすぎるヒトは、時に、狂人と言われてしまう。
船の中の「婦人」と「黒人の男性」が浮世離れしていた。二人は達観していた。二人は、公衆の面前で、ベラが繰り出す非常識な言葉に向き合っていた。本当は、誰しもが、全ての刺激に、自由に反応をしていいはずなのに。
そもそも、胎児の脳を、死にそうになっている母親に移植するという発想が狂っている。なぜあのような設定にしたのか? 何を意図していたのだろうか?
奇妙な衣装
肩の大きい衣装がおかしい。コムデギャルソンの服のような衣装。何を意図したのだろうか? さすがに、肩肘張るを文字どおりやっている訳ではないだろう。
VOGUE JAPAN「鬼才ヨルゴス・ランティモスが、アートへと昇華させた『哀れなるものたち』の凄さ」
VOGUE JAPANが、「鬼才ヨルゴス・ランティモスが、アートへと昇華させた『哀れなるものたち』の凄さ」というタイトルで、映画を紹介している。
衣装について言及した以下の文章が興味深い。男性からの束縛から、自立に至る過程を、衣装に表していると言うのだ。あ、そういえば、確かに、胎児が女なのか、男なのかには言及していない。あの胎児が、男だと想定して映画を観るのも、面白い。
黄色の雨ガッパは、パリの雪の中で着ていたのと、湖畔でマックスとベラが散歩し、プロポーズしていた時に着ていた。黄色の雨ガッパは、何を象徴しているのだろうか?
一文なしになっても、男は稼いでいないが、女は稼いでいた。冬のパリの雪の中で、凍えそうになっている縮こまった男ど、背筋をピンと伸ばした女ベラの対比が印象的だ。
娼館では、男性が女性を選び、女性は男性を選べない。娼館の主人である女性は、ベラに、孫の姿を見せ、また、娼婦たちに優しい言葉と温かいココアを提供する。娼館は、私たちから遠い世界の空間ではない。すぐ近くにある空間を風刺しているのだ。そう、娼館は、会社の縮図である。
POOR THINGSという原題も意味が分からない。どのTHINGSに対して、POORと言っているのだろうか?
ニーチェとベラ
ストレートな能動的ニヒリズムの話ではない。どこかいびつな着地だ。ニーチェの「駱駝・獅子・子供」を想起した。動物とヒトを同列に扱っているのが、この映画と共通していて面白い。
なお、ニーチェを翻弄したのはベラではなく、ルー・ザロメである。
確かに、『フランケンシュタイン』にも似ている。『アルジャーノンに花束を』にも似ている。
無礼で、非常識なベラに腹立つ一方で、応援してしまっている自分もいる。「周囲の目」や「空気」を気にせず、自由に伸び伸びと生きている姿に憧れる自分を発見した。
マッドサイエンティストの男ゴッドの設定も、異常だ。全く共感ができない。人を切り刻む仕事である医療を、必要以上にブラックで、グロテスクに表現している。でも、その人たちのおかげで、人類の寿命は伸び、助けられなかった命が助かっている。
この映画は、ヒトの気持ちを、宙ぶらりんにさせる映画だ。
ヒトは野蛮である。ヒトは動物だという真実をずっと目の前に突きつけられる。
マックスが、ベラに恋心を抱くのも、本来は不思議だ。犬に好かれた男が、犬に恋心を抱いているのと同じだ。
ベラは自分自身だ。遠い存在ではない。ベラは、あなた自身だ。
無邪気さは、周りの人を破滅に導く。
③少し時間を置いて、落ち着いた後の感想
ヒトは、子供をしつける。マッドサイエンティストのゴッドは、狂人として描かれているが、実は、全ての親へのカウンターパンチなのかもしれない。親としてのゴッドの心境の変化も、少し描かれていた。
そして、ベラの奇妙な行動に、イライラするが、実は、私たちだって、ベラと変わらない。その時その時の状況に反応し、何となく自分を納得させ、生きているのだ。
将軍は、脚の付け根について、男と女で解釈を分けていた。女性は、子供を産むためだと言っていた。快楽ではなく、子供を産むためだと。男による偏見。そして、女を領土だと言っていた。これらは、『ハンドメイズ・テイル/侍女の物語』を思い出す。
原題『POOR THINGS』からは、ニヒリズムを感じさせる。映画『パーフェクト・デイズ』とは真逆のアプローチだ。POOR PEOPLEではなく、POOR THINGSだ。ヒトを、動物と同様の存在として描いているように感じた。
現実離れした色使い、そして、風景。なぜか、過去のどこかの世界というよりも、異世界の風景に見えた。ファンタジーの定義を正確には知らないが、ファンタジー映画のようにも感じた。
「進歩」という呪い
パリの娼館の主人である老婆は、金を追っていた。もちろん、自身や家族の生活も追っていた。弁護士も金を追っていた。ベラは、「進歩」を追っていた。「金」ではなく、「進歩」を追っていた。でも、その先に描かれていたのは、グロテスクな世界だ。進歩の先にある世界は、「命を救ったものの、脳みそは黒ヤギのものに取り替えてしまって平然としている世界」なのだから。私たちは皆、「進歩」という呪いに犯されている。
正しそうに見えるものが、グロテスクで、グロテスクに見えるものが正しいのかもしれない。
「冷静さ・客観的」と「自由奔放・主観的」との対立。
将軍は、暴力の象徴だ。ゴッドやマックスが習得し、ベラが目指す医学は、医療にもなり、暴力にもなる。
結局、精神病棟に入れられてしまった弁護士。ベラの自由奔放さは、一人の弁護士の男の器では、全くおさまらない、入り切らない。
④四回転目の感想
要するにどういう意味だったんだろうか。全然整理ができない。教訓を抽出するのは難しい。
娼館の主は、タトゥーが全身に入っていた。娼婦が子供を産み、そして、その子供が孫を産む。人は誰かのために生きている。そのためには、自分を犠牲にする。自己犠牲がすんなり受け入れられてしまっている世界。
ヒトは、何十もの檻に閉じ込められている。それはベラだけではない。身体という檻に閉じ込められている。この映画は、もしかしたら未来を写しているのかもしれない。身体を入れ替えられたとしても、その身体からは逃れられないのだ。遺伝子組み換えを自由にできる世界でも、ヒトは身体に影響される。ヒトは、脳だけで生きているわけではないのだ。『攻殻機動隊』と同じようなことを描こうとしているのかもしれない。
奇妙な動物たち。キメラ。動物と鳥のフュージョン。ベラにホルムアルデヒドを嗅がされ、気を失ったマックスが起きた時に、目の前にいたのが豚と鳥のキメラだった。もしかしたら、遺伝子組み換えがうまくできている世界を描いているのかもしれない。身体からの解放は、結局なされない。身体という監獄に閉じ込められている。
イルカの上に乗る女の絵が、エンドロールで流れてきた。エンドロールの写真や絵は、さながらロールシャッハテストのようだ。性を想起させるものが度々出ていた気がする。
ベラは、娼館で、自分を発見するために、苦痛を受けることを、素直に受け入れた。痛み、苦痛、それらは良しとされているのだ。奇妙な感覚だ。自分の声を、苦痛を自ら引き受けてまで聞く必要なんてあるのだろうか? 「人間至上主義」への強烈なパンチだと思う。ゴッドやマックスが、科学至上主義の代表だとしたら、ベラは人間至上主義の代表だ。
もやもやが残る映画
うーん、私は、何を教訓として学んだのだろうか?
全然分からない。
要するに、どういう話なのか? 皆目見当がつかない。
困った。何とも言いようがない。
cogito ergo sum.
ヒトの心を揺さぶる映画だ。まるで、あの男性弁護士が、ベラに魂を揺さぶられたように。
疑問
娼館で、ベラが、男に対して、幼い頃の話をさせ、それに対してベラがジョークを言い、最後に匂いをチェックするというプロセスはなんだったんだろうか?
橋から飛び込んだ女。狂った将軍・夫。ヴィクトリアは、なぜ逃げたかったのだろうか?
なぜ弁護士はベラに惹かれたのだろうか? 全然よくわからない。
映画の点数
2024/01/28時点で、3.9点/195件の点数である。映画を観る前にチェックした時は、4.0だった気がする。点数が下がっている。
監督ヨルゴス・ランティモス
監督は、ヨルゴス・ランティモスだ。1973年生まれで、ギリシャ出身である。50歳だ。男性だ。
似ている作品
カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』のような話でもある。過去を舞台にしながら、今や今の延長線上の未来を風刺しているような気もした。
映画『バービー』とどこが似ているのか? 『バービー』は初期設定をポジティブなものと捉えている。
https://www.cinra.net/article/202301-poorthings_gtmnm
エマ・ストーン
エマ・ストーンは、映画『ラ・ラ・ランド』に出ていた女優だ。ミア役だ。
追記
ベラは、一流の進化心理学者だ。 2024/01/29追記
ベラは、一流の進化心理学者だ。周囲の空気に囚われず、真実を追求する、真実を口に出す。そして、真実を言ったものは、嫌われる。ヒトのこの性質は、ヒトの適応度を上げたのだろうか?
広角レンズと魚眼レンズ 2024/01/29追記
広角レンズが印象的だった。魚眼レンズとも言うのだろうか。時々、誰の視点で撮影しているのかが気になった。実は、ゴッドが、ベラを密かに写しているのかと思った。
もしかしたら、動物の視点なのかもしれない。監督が、今ここにある世界を、新たな目線で見つめ、新たな発見をしたいのだろう。de ja vuではなく、vu jadeへの欲求、熱情だ。
毒々しい色使い 2024/01/29追加
毒を持つ生物は、なぜにあんなに原色なのだろうか? ヒトの目からすると、捕食者に見つかりやすい色なのではないか。あの原色の色は、なぜ適応度を上げるのか?
映画では、毒を持つ生物のような色を多用していた。自然界にはほとんどない色、人工的な色、人造色を使っていた。
船での踊り 2024/01/29
音楽を肌で、魂で感じて踊る。ベラのそんな姿が印象的だ。1万年前のヒトにあの音楽を聞かせたら、同じような踊りをするのかもしれない。それにしても、あの定型的なダンス、社交ダンスはなぜ生まれたのだろうか?
そして、あの音楽は、どんな音楽だっただろうか? あの音楽をもう一度聴きたい、あの音楽を所有したい。
以上
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