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第129夜 現代の鬼子! イスラム国の興亡史(Part4 最終回 イスラム国の滅亡)

2015年末に始まった各国の反撃で、イスラム国の退潮は誰の目が見ても明らかになりました。
各国は水面下でイスラム国亡き後、シリアとイラクで影響力をいかに発揮するというつばぜり合いを繰り広げます。
そしてイスラム国には遂にその最後の日が近づきつつあったのです。

☆  モスル陥落 ☆

2016年10月17日、イラク政府軍はイスラム国最大の拠点モスルの奪還作戦を開始しました。
東から歴戦の特殊部隊、黄金旅団を始め第6師団、第1師団、南から警察軍と第9機甲師団、西から14師団とシーア派の民兵PMU、そして北からはクルドのベシュメルガ、総勢10万ともいわれる大軍です。

モスル奪還作戦時の状況 灰色がイスラム国の領域

この戦いはかつてないほどの激戦となりました。
既にイスラム国は主力をシリアに撤退させていましたが、この地を殉教の場所と定めた残った6000人の兵士たちの抵抗は凄まじく、政府軍には損害が続出します。
3ヶ月に渡り血みどろの戦いが繰り広げられ、ティグリス川に隔てられた市街東側の制圧までに実に3500人以上が戦死し、市街西部奪還の為一時攻撃を休止しなければならないほどでした。
更にイスラム国は入り組んだ旧市街に残存兵力を集結させ、激戦は更に4ヶ月あまりも続きましたが、6月18日政府軍は遂に旧市街に突入に成功しましたのです。

もはやこれまでと悟ったのでしょう。
21日ISはバグダディがイスラム国のカリフ就任を宣言した象徴的な場所である旧市街のヌーリ・モスクを自らの手で爆破し、残った兵士達は戦闘の末玉砕しました。
こうして7月10日モスルは3年半ぶりに奪還されたのでした。

奪還されたモスルと爆破された光のモスク

イスラム国建国の地であったヌーリ・モスクの爆破は、同時にイスラム国の落日を象徴するものともなったのです。

☆ イスラム国最後の攻勢! デリゾール攻囲戦 ☆


イラク軍が東モスルをほぼ解放した2017年1月13日。
シリア東部の油田都市デリゾールに対して、イスラム国最後の大攻勢が始まりました。
イスラム国は地理的に守りやすく、周囲に油田を持つデリゾールに遷都し、ここで体制を立て直すつもりだったのです。

実はデリゾール県の県都デリゾールは2012年の反政府軍の攻勢とその後のイスラム国の侵攻でデリゾール県の大半を失ったアサド政権がたった一箇所だけ守った街です。
イスラム国は2014年7月にこの街の北半分を奪ったのですが、陥落一歩手前で、イッサン・ザフレディン少将率いる特殊戦力師団第104空挺旅団が空路で到着、3ヶ月にわたる激戦の末イスラム国を撃破してデリゾール空港と街の南半分を守り抜いたのです。
以来前線のはるか後方に唯一残ったデリゾールはイスラム国の体内に刺さった棘のような存在になっていました。

イスラム国の支配地内に取り残されたデリゾール

しばらく戦線は膠着していたのですが、2016年9月17日アメリカなど有志連合軍がデリゾールのシリア軍を誤爆したことで戦況は再び激変しました。
最前線のシリア軍陣地は大損害を受け、しかも誤爆に乗じてデリゾールを見下ろす最大の要衝サルダ高地をイスラム国に占領されてしまったのです。

イスラム国はこのチャンスを見逃しませんでした。
2017年12月モスルから引き抜いた1万4000を投入し、今度こそデリゾールを落とすべく最後の大攻勢に打って出たのです。
デリゾールの占領に成功すればもし首都ラッカが落ちてもデリゾールに遷都し体制を立て直すことができます。イスラム国の命運がかかった一戦でした。

オレンジが2017年12月のデリゾールの前線 赤が最後まで守り切った政府軍の支配地域

対する政府軍は僅かに3000。
勇戦を続けてきた104旅団とはいえ、今度ばかりは全滅は必至と思われました。
しかしギリギリのところで空路援軍がデリゾールに到着。
更にロシア軍の爆撃がこの地区に集中的に行われた結果、ラッカからの補給物資を積んだ車両列が次々と撃破され、補給を失ったイスラム国の進撃は停止を余儀なくされました。

デリゾール遷都というイスラム国最後の希望は断ち切られたのです。

2017年9月5日政府軍の精鋭部隊タイガーフォースがイスラム国の包囲網を突破し、1147日に渡るデリゾールの包囲戦は終わりを告げました。
前線から遥か後方に位置するデリゾールを最後まで落とせなかったことは、イスラム国を破滅に導いた原因の一つとなったのです。

10月8日デリゾールを守りきった対イスラム国戦争最大の英雄の一人ザフレディン将軍は、前線視察中に触雷し、イスラム国の最後を見ることなく、戦死しました。
首都ラッカが陥落しイスラム国が文字通りが滅亡する10日前のことでした。

☆  イスラム国の崩壊 ☆

2017年6月29日イスラム国が首都としていたラッカが、クルド人主体のシリア民主軍(SDF)に包囲されます。
既に首都自体はデリゾールの南東45キロのマヤディーンに移されており、包囲下のラッカには約4000のイスラム国の兵が残されたままでした。

一方モスル亡き後のイラクのイスラム国本部はモスルから170キロ離れた油田都市キルクールに近いハウィージャに置かれました。

8月21日、このハウィージャに向けて、イラク軍の大攻勢が始まります。
先頭を行くのは歴戦の特殊部隊黄金師団と政府軍第9機甲師団、そしてシーア派の最大民兵組織ハシャド・アルシャアビです。
大軍を前にイスラム国の劣勢は最早如何ともし難く、10月5日遂にハウィージャはイラク軍が解放したのでした。

イスラム国最後の拠点に攻撃をかけるイラク軍の進路
イスラム国最後の拠点ハウージャに進撃するイラク軍とシーア派民兵

一方シリアでは9月末にシリア政府軍がマヤディーンを包囲し、同時にロシアとアメリカ双方による猛烈な空爆が始まりました。
また地中海にいるロシアの潜水艦からカリブル巡航ミサイルが発射され、時を同じくしてシリア軍の総攻撃が始まります。

10月14日暫定首都マヤディーンはラッカより先に陥落しました。
ラッカは依然として4ヶ月に及ぶ包囲に頑強に抵抗していましたが、もはや市内に残る兵士は数百にあまりに激減していました。
そして最後の頼みの綱だったマヤディーン陥落を知ったラッカに籠るイスラム国の兵士には、もはや戦う理由はありませんでした。
10月17日ラッカがクルドのSDFに降伏。
ここに4年に渡ったカリフ国を僭称した擬似国家イスラム国と、その戦争は終焉を迎えたのでした。

ラッカ陥落を喜ぶクルドの兵士 しかしその運命は・・・

☆ イスラム国亡き後の戦い ☆


こうしてイスラム国は滅亡しましたが、イスラム国の崩壊は対イスラム国という一点だけで繋がっていた各勢力の利害を表にさらけ出しました。
その前後から戦後を見据えた各国の陣取りが露骨に展開される様になっていったのです。

アメリカは北部のクルド人に援助するのみならず、特殊部隊を使って直接シリアの東部イラク国境のアル・タンフを占領し、ここに近づくシリア軍を空爆すると共に、傀儡の反政府軍を使って南部砂漠地帯を占領させます。

一方トルコはシリア北部に軍隊を進めて国境地帯を占領。
更に南下して反政府軍が優勢なイドリブ県にまで進駐しました。
又ロシアはタルトゥース海軍基地のみならず、フマイユム空軍基地の権利も獲得し、事実上シリアを衛星国化します。
そして、これらの地域はシリア政府の意向とは関係なく、干渉国の協議によりディエスカレーションゾーン(安全地帯)として、それぞれの勢力下に置くことが決定されたのです。

イスラム国亡き後各国によって分割されたシリア

☆  見捨てられたクルド人の末路 ☆


一方イスラム国崩壊の立役者となったクルド人たちは、勢いに乗ってこの機会にイラクからの独立を図ろうと目論んでいました。
しかしイラク政府がそれを認めるはずがありません。
またクルド人を後押ししてたアメリカでさえも、クルド人の勢力がこれ以上拡大することを実は決して望んではいなかったのですね。

キルクークに進駐しクルド旗を下げて、イラク国旗を掲げるイラク兵士

10月16日イラク政府軍とシーア派の人民動員部隊(PMU)がクルド勢力が占領していた油田都市キルクールに進駐。
イラク政府への対応で意見が分かれていたクルドは、為す術もなくキルクールからの撤退を余儀なくされてしまいます。
それどころか、悲しいことにその独立さえ全く各国からは相手にされず、有挙句に耶無耶となってしまったのでした。

年が明けて2018年1月20日。今度はシリアでトルコが動きます。
トルコの目的はトルコ国内で反政府活動を行うクルド人をシリアのクルド人が支援できなくなるよう、徹底的に弱体化させることです。
この時までに既にトルコ軍はシリア北部の国境一帯を占領し、クルド人の自治領域ロジャヴァを東西二つに分断していましたが、飛び地となった西のアフリンを占領すべく、オリーブの枝作戦を開始、またしてもシリア領内への侵攻を開始したのです。

アフリン攻撃前の勢力図 濃い緑がトルコとトルコ同盟軍の占領地 黄色がクルド地域

3月24日アフリンは降伏し、以後現在に至るまで、トルコの保障占領下に置かれることになったのでした。

シリア領内に侵攻するトルコ軍

☆ イスラム国とは何だったのか ☆


2019年10月31日、イスラム国の指導者でありカリフだったバグダディが逃走先のシリアでアメリカ軍の特殊部隊の攻撃を受け死亡しました。
その後組織は別のリーダーが引き継ぎましたが、もはやその勢力は見る影もなく衰退しています。

しかしイスラム国の出現と、彼らが掲げたイスラム原理主義の国家を作るという目標は全世界に大きな波紋を投げかけました。
世界各地にイスラム国を名乗る組織が続々と現れたのです。
アフガニスタンのイスラム国ホラサン州、サハラ砂漠南部のイスラム国サヘル州、ナイジェリアのイスラム国西アフリカ州、中央アフリカのイスラム国中央アフリカ州、エジプトのイスラム国シナイ州などがその代表で、特にイスラム国サヘル州などは複数の国にまたがる広大な地域を現在も支配しているといわれています。

イスラム国サヘル州の兵士 西アフリカで政府軍を圧倒する勢力をもつ

このようにイスラム国の影響はいまだに世界に影を落とし続けています。
彼らを生み出した貧富の差の拡大がなおも進むのなら、いつの日か、また第二第三のイスラム国が再び現れるかもしれません。
イスラム国の興亡の歴史は、現代の世界が抱えている病理そのものを表した鏡だったのかもしれませんね。

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