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頭を垂れる稲穂と私、の違いについて

昔から有名なものとして「 実るほど 頭を垂れる 稲穂かな 」ということわざがありますよね。
簡単に言ってしまうと、稲穂が実を付けて、中身が詰まって重たくなるほど、その重みで稲穂が下を向いていくという姿から、中身がある人ほど頭が低い謙虚だ、ということなのですが。皆さんご存じだと思います。

先日ワークの中でこの話を出しつつ、話を聞きながら稲穂をイメージをしてもらったところ、すぐに頭を下げている稲穂の映像を浮かべて、それを体験してみたところ、とある感情が湧いてきたのだということで、その体験を早速お話ししてくれました。

「それは、本心じゃ無いかもって思います!」

「いろんなコトを考えた挙げ句にそういう姿勢を取ることに決めている、ということもあると思うんです」

「実は怒っているということさえあるかもしれません」

という感想が次々出てきたので、笑ってしまいました。

稲穂が頭を垂れるというお話が、あっという間にどうも何かにすげ変わってしまっているようです。

そこでひと言。

「うーん。稲穂は誰かに向って頭を下げているわけじゃないんじゃないかなぁ」(笑) と私が言いました。すると、

「ああっ!」

「あっ!」

という2人の反応が! 

それは「しまった!恥ずかしいっ」というような感じのものでした。


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「頭を下げている人を想像した時に見えたものは、感じたことは、実は自分自身のことです。自分が思い付く風景ですから、自分の日常にある心の中にある体験だったりするのでは? 自分はそう見せるために、実は頭を下げて謙虚風を装っているということがあるよ、ということを「告白」したという今この瞬間があるよっていうことだよね」と私は続けました。

「ああっ」

「うっ…」

さらに、まずいっ、どうしよう…という気持ちになってしまったみたいです。が、私は笑いながら言いました。

私は何かの折にそういう自分が出て来た時には、責めるのでは無く、面白がることをオススメしています。


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「今起きていることは、チャンス到来!です」

「ラッキーなことが起きていますので、これはぜひ、面白がりましょう。」

「自分にとってそれがもしこれまでには無い、新しい受取り方なのだとしたら、なおさらぜひ挑戦しましょう!」


そんなこと考えているなんてひどい人だわ、とか、人としてどうかしら、というような感想や反応だとしたら、それはあまりにも社会的で一般的で普通すぎるので、そこには新しい方向への発展がありませんよね。

面白くしましょう!

例えば、いい人であることがいいことなのだから、出てきてしまったものを矯正してあるいは反省して考えを改めて「いい人」にならねばダメなのだわ、という思考は、周囲やこの社会に合わせて生きることを考えているよってことですね。それはとても常識的ですし一般的です。正しいことにも思えてくるかもしれません。

さらに、そんな考えを改めた自分を外に表明して、もっといい人を目指すのでしょうか? あるいは、そうすることで段々と自分がいい人とか誠実な人になっていけるのではないか? と思っているとか、なのでしょうか?


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さて、大事なことはここからです。

今回のこのお話は、ワークの中で描いたイメージで出てきたことだということをまず思い出しましょう。状況を設定して、その上でイメージしているという状態です。

社会で、日常で、実際自分が起こしている最中のお話ではありません。

描いてイメージしてみるという環境が用意されている中で行っているということがあります。そこにはどのようなものが見えても、体験しても、先生という存在が見たもの体験したものを「読み解いたり」「ヒントをくれる」だろうと信じて参加している現場での出来事なのです。

そのような前提のある現場で、ワークの中で見えたもの感じたことをそのまま外に持ち出して、今この場で言葉にすることが出来た自分がいるのです。そんな自分を、とても正直だとは思いませんか? 

決して何が出てきたとしても否定されることが無い、出しても安全だ、と自分が思ってなどいなければ、こういった一般的にはまずいと思われてしまうような思いをするするっと外に向かって出すなんていうことを自分が行うなんてことはしないでしょう。普段はしませんよね? (笑)

もっといつもは上手に隠していますよね? (笑)

普段は自分でも気がついていないうちにやっていることかもしれません。慣れてしまっていて、そうするのが当たり前だし、人当たりもよいだろうから、本当は何を感じているのか今!なんていうことは横に置いて、常識的行動を当たり前のように自動運動させてしまっているということなのかもしれません。

自分のことを、考えてみるチャンスがやって来ています、という状況です。

自分のことをもっともっと認めましょう。一般的なところからの良い悪いという判断はここではまず使わないことがポイントです。

自分から溢れ出るものを否定されることが無い、という前提の場所ではうっかり出てきてしまうものがある、ということに気持ちを向けてみましょう。そういう場を自分に対して用意していない日常なのでしょうか?

「ある」ものは無くなることはありません。後ろにまわして倉庫に置いておく、ということを私たちは日々考えることも無く行っていたりします。私たちの中で湧き起こった様々な感情の行き場を用意していなくて、無かったことにしてしまうということが当たり前に起きていたりします。いったん「横に置く」という言い方がありますが、横に置いたものを積極的に再び手を伸ばして触りよく見るとか味わう、受止める、という行動へと繋げることを日常のこととしていない場合は、実際多いでしょう。

いい人であろうとしている人ほど、それが長期化するほどに横に置いてしまった「影」は大きくなっていくものです。放置したそれは、段々と自分が怖れるものになっていきます。怖れるほど、あってはならないもの、見てはいけないもの、気がついてはいけないものへと育っていくことになります。

時としてそれは、風船が破裂するみたいに、ぱんっと割れる時が来ることもあるでしょう。こころが疲れちゃったよ、という症状が出る瞬間です。


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広い広い田舎の田園をイメージしてください。

田んぼの中では、たくさんの稲穂が実っています。ぎっしりと実が詰まっている稲穂は頭を垂れて下へと向いているのが見えます。

そんな風景の中で、自分だけが、目の前にいる人に頭を深く下げています。それは自らのぎゅっと詰まった実りの重さからでは無く、ぐいっという自らの力業で頭を下げているという自分の姿です。

広い田園の風景の中で、自分も稲穂も頭を垂れて下げていますが、ずいぶんと中身が違っていますよ。

そう言った瞬間に皆さんの中で笑い声が広がりました。

何かが面白くなってしまいましたね。そうですね、笑いましょう!

稲穂は自分の重みで頭を下に向けていますから他者のことなど関係ありません。ですが、自分は他者に向って自らの頭を力業で下げていますね。

可笑しいな、滑稽だなって笑っていいんです。笑いましょう!


今度のイメージの描き方は、頭を下げている自分そのものになっているのでは無くて、その自分を外から見ているので今度は笑うことが可能になりました。自分から少し離れて自分を見ているという状態を作っています。

笑ってしまうということは、自分を受け入れるということに繋がっています。失敗をした、何かをやらかした、そんな自分を否定することなく、横に置いたり後ろにまわして見ない振りをすることなく、その存在を許可しているということを行っているという状態です。

そこには許された自分がいます。

ちょっと悪いことを考える、人が悪いというようなことを思ってしまう、そんな自分を「ある」「あっていい」として受け入れた自分が発生しているという状態を起こしています。そういう自分を体験しています。

そうすることで、例えば自分の内面奥にあり続けてきている、長い間抱えて来ている他者や環境に対する「不信感」というものがゆっくり解けていくということが起き始めることにもなり得るのです。

解けて、力が抜けていったその先には、きっと時と場所と人を選んで「あえて悪いことを考えている自分を出してみた私」ということは起こさなくなっていくでしょう。


写真と文 sanae mizuno

https://twitter.com/SanaeMizuno


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