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幸せに「なる」って何やねん

(注意!割りと病んでます!病んでる人を見たい人はどうぞ!)

「幸せになりたいですか?」

私は口ごもってしまうと思う。難問だ。

この問題に素直に「はい」といえない理由は、自分の中の、「運命」的なものを信じる心にあると思う。

「あなたは「運命」を信じますか?」

私はやたらに信じる。もう少し細かく言うと、人間は何かの力によって流されるように生きるものだと思っていて、それはすなわち、自分自身で未来を作り上げていく力を信じないということでもあった。

だから、「幸せでありたいですか?」という質問に対してはそこまで時間をかけずとも「はい」と言える自分も、「幸せになりたいですか?」という質問に対しては口ごもってしまう。「なる」というところに人為的な何かがあるから。


この状況は、自己効力感不足ということ端的に説明がつくと思う。自分が働きかけることで実際に何かができるであろうという思い込みが足りていない。

少なくとも幼い頃の自分は割りと全能感が強かったけど、その頃から運命的なものへの従属は強くって、自分はできるものだからできていた。自分が頑張れば何でもできるようになるとは多分考えていなかった。

今となっては、「できない」自分が運命に流されている。


自己効力感が足りない今は、自己効力感を感じられるようにするための取り組みすらおっくうに感じる。目的地と今の自分の距離は、果てしなく遠く見えるし、あまりにも濃い霧に覆われていて、どんな苦難の道があるか分かったもんじゃない。

何かを成し遂げようとするとき、その道が短く見える人もいるだろうし、道のりがはっきり見えている人もいるだろうし、どんな道だとしても一歩一歩を踏み出せる人もいるだろう。でも、そうじゃない自分が今ここにいる。


「幸せ恐怖症」。

幸せになることへの希求がありながら、その道筋をたどることができず、居心地の良さすらある「幸せではない」感覚の今を生きてしまう。それは「不幸」とはまた違った、満ちていない状態。今日明日死ぬ訳じゃない。でもこのまま生きることは確実に良くない。

カウンセリングは、結局クライアントの気持ち次第らしい。クライアントの力を引き出し、その頑張りを支援するのがカウンセラー。だから、本気で良くなりたがっているクライアントでなければ良くならない。私の現状は確実にここに届いていない。


さて、普段はジェンダーやら男性学やらについて書くことが多い身なので、少しだけそれについても触れておきたい。

今の状態の自分にとって、フェミニズムに親和的な自己内省型の男性学を志向することは、ややもすると自虐的ですらあって、今の自分には割りと馴染みが良かった。「やった!やっぱり自分は幸せになるべきではなかったんだ!よかったー!」くらいなもんである。文字にするとめちゃくちゃだけど、結構本気でホッとしたんですよ?

是非、他の男性ジェンダーの方には、私よりも真剣に幸せを希求する男性学を築いてほしい。私の予測する「運命」では男性学は前進し、より調和のとれた性別の世界ができることになっている。私がそれにどれほど加わるかは分からないけど、少なくともここに一人いることだけはアピールしておこうと思う。

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