シスヘテ男性である私とポルノグラフィの関係について

今回もシスヘテ男性である私と性について書きます。それも今回はまあまあ刺激の強い描写になるかもしれません。少しでも気分が悪くなるようでしたらブラウザバックしてください。







よろしいですか?





赤川学さんが1993年の論文『セクシュアリティ・主体化・ポルノグラフィー』の中で述べた、ある言葉が忘れられない。

その論文は、フーコーの「セクシュアリティの装置」という概念から(およそシスヘテ男性向けの)ポルノグラフィという現象を分析したものであった。電子化されているので調べれば出てくると思う。

正直その論文そのものは私には難しかった。5割も理解できていたか、という感じだった。

しかし、その中にあった「性的欲望への欲望」というフレーズは、私の中に深く刻み込まれて衝撃を受けた。

「ポルノグラフィーを見る男性が、どんな欲望を満たしているのか」という問いへの考察において、赤川はポルノグラフィ写真家のコメントを参照しながら、上記の答えを出した。

それは、ポルノグラフィは、いかにして(シスヘテ)男性の性的欲望を喚起させるかということに注心していて、(シスヘテ)男性は自らがどんな性的描写に対して最大の興奮を得られるのか、どういった性的行為を好むのかを知ることに行動が誘導される、というような論理だったはずだ。私の理解が不十分かもしれないが。


私にとって衝撃的だったのは、ポルノグラフィによって満たされるものは、性的欲望そのものではないかもしれない、という可能性の提示だった。

自分でも考えてみる。私の体は、別にポルノグラフィー見ていなくても射精することは可能なはずだ。以前に書いたことがあるが、もはや私は視覚的な性を流し込み続けてしまい、ポルノグラフィを実際に見ずとも、そのような表象が頭をちらついてしまうから、そんな仮定はあまり意味がないのだけど。

そして、ポルノグラフィを見る目的は、何も自慰のオカズにするときだけではなかった。もちろん、自慰をするためにポルノグラフィを見ることもある。でも、ポルノグラフィを見るだけ、ということも全く珍しくなかった。なぜ見るだけ見るのかといえば、それが見ていて心地よい描写だったからだ。シスヘテ男性向けのポルノグラフィは、シスヘテ男性である私にとっては快適な描写が少なくなかった。というか、快適なものばかりを見ていた。その鑑賞が自慰に繋がるかは全くの別問題だった。

私がポルノグラフィを見るときには、性欲を十分に満たしたいという欲望を満たすためでもあったのかもしれないし、あるいはポルノグラフィそのものを見たいという欲望を満たすためでもあったのかもしれない。


そういう私の全ての性に関する在り方、セクシュアリティは、私ならざるものに握られている感じがする。

ポルノグラフィというものが、既存の性規範と社会構造の中で、いわば体制派としてその再構築に貢献しているのではないか、と私は考えている。その中で、シスヘテ男性のセクシュアリティも、ポルノグラフィの表象によって、適応的にしつけられてしまうのではないか。

まして、ポルノグラフィに最初に接触する年齢は、決して高くはない。ネット環境がポルノグラフィとの距離を縮めた今、若いシスヘテ男性がポルノグラフィににアクセスすることは簡単だ。私だってそうだった。そんな若い世代は、ポルノグラフィを性のニュートラルな規範として取り入れてしまう可能性がある。私だってそうだ。

シスヘテ男性にとって、自分自身がどんなセクシュアリティであるかは、ポルノグラフィが、そして従来の性規範と社会構造がこれを握っていると思う。そしてそうやって作られるセクシュアリティは、ジェンダーnotセンシティブなものになると思う。私がそうだ。

私はそんなセクシュアリティを変えたい。新たなセクシュアリティを構築したい。そのために今は、ポルノグラフィやそういった表象を見ないように努めている。それが効果があることなのかは分からないけど、手段を選べる状況にはないから、自分でやっていくしかない。


今、私の手元に森岡正博さんの『感じない男 決定版』がある。私が知る、数少ないシスヘテ男性のセクシュアリティ当事者研究書だ。これから私はこの本を読んでいこうと思う。

私は、私のセクシュアリティを自分なりに納得できるようにしていきたい。森岡さんの本が、そんな私にどんな影響を与えてくれるのか、今から楽しみでもあり、恐怖でもある。



追記:今回はですます調ではなく、だである調で文章を書きました。これは、もはやですます調では書けないほど自らのことをえぐり出す必要があった、ということが理由です。だであるの形で、まるで他者のことを書くかのように書いていかないと、あまりにもグロテスクだったのです。


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