性依存に近い何か

ここ最近自らのセクシュアリティを書き続けて、昨日一つのマイルストーンとなる記事を書くことができた。問題は終わったわけでは少しもないけど、一通り自らの話をまとめたことで少しだけ心持ちも変わった気がする。

ということで、今回も「性」について書きます。苦手な方はブラウザバックを推奨します。

ちなみに昨日の記事はこちらです。もし良ければこちらも読んでいただきたいです。














心持ちの一つの変化としては、「私は性依存症に近い状態にある」ということを自分のなかで素直に捉えることができるようになった、ということがある。

私がシスヘテ男性向けポルノグラフィを見なくなったのはつい2週間前のこと。それまでは自慰をしたいときや、単純にシスヘテ男性向けポルノグラフィを見たいときによく見ていた。

何で見るかという理由をまとめてみると、

自慰をしたいときには性的興奮、性的刺激を強めるためという点もあれば、ポルノグラフィを見ることで自分のことを意識せずに自慰をすることができるという点もあった。

シスヘテ男性向けポルノグラフィを見たいというときには、そこに描かれた表象が自分にとって心地いいものである、という点があった。

そして、そういったこともひっくるめて、私は性を自らへの報酬とし、現実からの逃避の手段としていたところがあった。


私は、これまで決して自分を上手に満たすことができずにいたし、今もそうできる自信はない。

普通に学校生活を送るなかで、大体私はストレスを抱えまくって生きてきた。周囲で起こる様々な出来事にも、至らないことだらけの自分自身にも怒りと失望を重ねて、それでもそれを放出する方法をうまく持てずにいた。

自分にとって、数少ない報酬が「性」だった。苦しい時間を乗り越えた私が、私に与えられる数少ない逃避が「自慰とシスヘテ男性向けポルノグラフィ」だった。

長らく私は、自らが性的存在であることにはできる限り目を瞑って、快楽に頼り続けた。その頃には、その報酬が「汚れた」「不正な」ものであるかもしれない、なんて考えたこともなかった。

ジェンダー学やフェミニズムなどを学び始めてからも、私はシスヘテ男性向けポルノグラフィをやめられなかった。自分への報酬を止めることはできなかったし、逃避したい現実は山ほどあった。

そして、今もそんなに変わったわけではない。

だから、これほどまでに性に悩み続けている。


性依存とは違うかもしれないけど、他人を直接に介してはいないかもしれないけど、でも自分はそれに近い状態なんだろう。明確に性によって甚大な影響が出ているとはいえないけど、緩やかに永続的に影響は出ていると思う。

今はシスヘテ男性向けポルノグラフィを見ないでやっていけてるけど、それへの欲望が全く消えたわけではない。全くない。自制はできているけど、これからもできるとは限らない。

私は性とどんな距離感を取ればいいのだろう。

深く根差した性が、何かによって代替されることはあるのだろうか。

自分を満たし、現実を生きることができれば少しは変わるかもしれないけど、私にはそれすら遠い遠いものに感じる。

そして今は、性も大きく崩れ始めている。

他ならぬ私が、それを受け止めることができるだろうか。

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