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コミュリョク

前回からの続きになるが、

コミュ力の無い娘に、「日本語より英語の方が合ってるんちゃう?」と言ったが、特に理由は言わなかった。

そもそもコミュ力って何だろう。

日本では受け手側のスキルののようだ。発信側の意図を読む、察する力が重視される。
反対に海外では発信側のスキルらしい。曖昧さを排除し、正確に聞き手に伝える能力のことを言う。

この二つ、違い過ぎないか…

娘にどちらの能力を高めて欲しいかといったら、そりゃ後者だ。
だったら英語だろう。
というのが最初のセリフにつながった。

本当に不思議だ。
国民性が言語を生み出したのか、言語が国民性を生み出したのか、どちらなのだろう。

英語は重要なことを先に言う。

肯定か、否定か、疑問なのか
未来か、今か、過去なのか
どういった意志なのか、行動なのか
誰が?

日本語は逆だ。全て後回し。

意思を決めないまま話し始めることも有りだし、途中で変えるのも有りだ。最後まで言わないこともある。
だから、受け手の察する能力をありがたがるのだろう。それを利用してる感もある。

もし娘が、日本語のコミュニケーションがなんか苦手だなーって感じてるなら、それはもう仕方ない。娘が悪いんじゃなくて、日本語が悪いんだ笑
だったら英語、やってみれば良い。案外、しっくりくるかもよ。
という気持ちだ。

そもそも受け手次第の曖昧なゆるい共感が許されるのは仲良しグループの中だけなんで、ビジネスの現場では役に立たない。
最後まで何が言いたいのかわからない発信が許されるのは文学だけだ。(僕も散々指摘された…)

受け手側のコミュ力なんて磨いたところで知れてる。けど、いかに精緻にかつ分かりやすく伝えるか、という発信側のコミュ力は磨けば磨くほど将来役に立つ。

案外、本や漫画、テレビやSNSで大きな発信力を持っている人ほど、周りからはコミュ障って言われてるかもしれないぜ!

だからコミュ障なんて、気にすんな


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