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5/22 日記 「頭の世界」からの脱却

先日、よくTwitter上でやり取りをする方から、以下の記事を読んで感想をほしいと頼まれた。
養老孟司「東大医学部に入るのは超高血圧になるのと同じで、褒められることではない」 日本では「頭の世界」が大きくなり過ぎている #プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/55681

筆者は「日本の社会は『頭の世界』が大きくなりすぎている」と主張しており、過度な受験競争は「全体の人数の中で大きく外れている方がよい」ということは奇妙であり、また、何でも言葉で説明し、理解しようとする社会風潮に対する批判的な目を向けている。
こうした日本社会を「児童虐待社会」と評し、子供の自殺の増加と結びつけている。

ちなみに、最後の自殺者数の増加についてデータを調べてみたが、40年以上前にはすでに「いじめ自殺」という言葉が登場しているなど、特に現代的な問題ではないようだ(リンク)。こうした社会が当たり前のものになってしまったことに、80代半ばの養老先生は危機感を持っているのかもしれない。

さて、勉強の世界では集団の大多数から外れた「外れ値」を目指すことが目的になっていることに筆者は違和感を感じているようだが、「外れ値」であること、つまりuniqueな存在であることは価値を持つことが多くあるように思える。個々人が他者とは異なる存在としてのアイデンティティを確立し、自己実現欲求を満たしていくためには、uniqueな存在になることが求められるのではないだろうか。
筆者の想定する問題は、大多数の子どもたちにとってuniqueな存在になるための手段が「勉強以外に存在しない」ことにあるのだろう。「頭の世界」が大きくなることは、子どもの脳内から、他の世界を取り除いていくことでもあるといえる。

勉強の世界において上限方向の外れ値であることは、「エリート」であることであろう。この「エリート」を生み出すための教育、エリート教育という傾向は経済界・産業界の要請によって生まれたもので、経団連の前身組織である日経連が1995年に発表した「新時代の『日本的経営』-挑戦すべき方向とその具体策」という方針がもたらしたものであるとよく述べられる。
こうした方針によって、外れ値であるエリートと、非エリートは選別され、教育の段階から異なったルートを進んでいくことが期待されるようになっていった。エリートは高等教育を受けて正規雇用され、会社の中で管理職など指導的な立場を担うことが期待され、非エリートはより低い程度の教育を受け、非正規雇用で単純作業などに従事することが期待されていた。

あなたの眼前に、この2つのルートが提示されていて、あなたはどちらを目指すだろうか。あるいは、あなたの子どもにはどちらの道を歩ませたいだろうか。
おそらく非エリートのルートを敢えて選ぼうとする人は少ないのではないだろうか。こうして、子どもたちは当然とも言える形で「エリート」を目指す競争に巻き込まれ始めたのだ。「頭の世界」が拡大する一方で、その他のモノが持つ価値は軽視されるようになってしまう。

現代においても経団連はその提言においてエリート教育の重要性を訴えている。今年3月の「スタートアップ躍進ビジョン」では

従来の学校教育は、教師が一律のペースで一斉に指導する画一的な教育が中心であった。経団連は、EdTech#85の活用により、多様性を重視した自律的な学びを実現することを提唱している。GIGAスクール構想により小中学生一人一台端末の整備がほぼ完了した今、学校が個別最適な学びにより、各領域で抜きん出た才能を有するトップ人材やエリートを育成することや、各人が関心のある領域を突き詰め、尖った才能を伸ばすことが、イノベーションの創出の観点からも重要である。同時に、東京大学の「LEARN」プロジェクト#86やJSTの「ジュニアドクター育成塾」#87のように、企業や研究機関をはじめとした多様な主体が連携しつつ、既存の教育課程の枠にとらわれない育成の仕組みも拡充すべきである。

https://www.keidanren.or.jp/policy/2022/024_honbun.html

といった感じで尖った才能を伸ばすことでイノベーションを創出することが大事だと述べている。もちろん、こうした形でuniqueな才能を発見し、伸ばしてあげることは大切だろう。ただ、こうした才能を持たない人間はどうしたらいいのか。自律的な学びが困難な生徒たちはどうしたらいいのか。
私の教員としての経験から考えても、端末を与えてもローマ字がいつまでも覚えられない生徒や、機械操作が苦手で指示した作業を満足に行えない生徒はごまんといる。悲しいことに、そうした子どもたちはこうした提言の眼中にはないのだ。

インターネットとスマートフォンの普及により、子どもたちの世界はどんどん広がっていっているが、それでも子どもたちの社会の基盤となるのは学校であろう。しかし、その学校で行われている教育は、残念ながら上述したような提言の影響を受けている。子どもは「エリート」を目指す競争に巻き込まれている。
養老孟司は「体の評価では異常とされることが、頭の評価だと正常どころか、むしろよいことだとされている」と「外れ値」であることを述べているが、「基準に収まってしまう非エリート」には希望の持てるような未来がないということがその原因になっているのだ。

そう思うと、普通の能力を持った普通の人が、満足の行く生活を送ることのできる社会を作ることができれば、大きくなりすぎた「頭の世界」を小さくすることができるだろう。しかしそれは簡単なことではない。

教師を目指していたころに、衝撃を受けた言葉がある。高校時代の友人に「教師を目指しているならぜひこの人と話してほしい」と言われて会った方だが、その方は「教師として働くということは、尊いことだと思います。でも教師として働くことは、政府の方針に沿って、政治の望む方向に子どもを育てるということでもありますよね」と初対面の私に言ったのだ。
当時高校3年生だった私には言われたこの言葉の本当の意味は分からなかったが、その方は、1人の教師には経済・産業界の要請から生まれた教育システムを変える力はないこと、その上で大きな「頭の世界」に対する問題意識を私に持ってほしいと思っていたのだろう。

社会を変えることが出来ないとすれば、「エリート」と「非エリート」の二元論を脱構築し、もっと異なる価値観から自らを見つめることができるようになる必要があるだろう。既存の教育システムのあり方を外部から見直していくことで、従来的な価値観に取り込まれないuniqueな自分を見出していくのだ。

4月から勤務している学校では「学校の成績だけが子どもたちの唯一の価値基準になってはならない」「生徒の自由な活動を支えていこう」と言われることがある。生徒たちは学校内で良い成績を残すため、希望する進路に進むためにもがき、苦しんでいる。「〇〇のためにはどれくらい勉強したらいいですか?」「テストで何点取ればいいですか?」のような質問を受けることもある。
しかし、「頭の世界」だけが子どもたちにとって唯一の評価軸にしてはならない。世界はもっと広いこと、uniqueな存在として自己実現するための手段はいくらでもあること、「エリート」「非エリート」の二元論を脱却することをどのように示していくか。私学教育を選んだ教員としての、私の手腕が問われているのだろう。

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