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「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んでみた

読書術のようなものが流行っているように感じる。
時間を決めて(〇〇分で読むと決める)とか、目的を決めて(この本からこれを得よう)とか、一か月に何冊読むと決めて多くの本を読もうとか、書いたらアウトプットしようとか…。

いささかわたしはそのようなものに疲れている。
本を読むのは好きだけど強制されたとたん、嫌になる。
おすすめの本はなに?と聞くのは好きだけど「この本ぜひ読んでごらん」と押し付けられると読みたくなくなる。

「走ることについて語るときに僕の語ること」(村上春樹・著)はそれらの類の本ではない。

どちらかというと、なるべくゆっくり読みたくなるような、おもしろいんだけど読み終わりたくないような、夏休みが始まって最初はその生活ペースに慣れないんだけど、慣れてくると二学期が始まってほしくないような、好きな人との別れを惜しむような・・・そんな本である。

著者が敬愛する作家レイモンド・カーヴァーの短編集What We Talk About When We Talk About Love になぞらえてつけられたタイトルであることはよく知られている。

わたしは“ハルキスト”(村上春樹さんの熱狂的なファン)ではない。彼の作品をたくさん読んでいるわけでもないし、新刊を待ちわびて初版を買うこともない。有名なセリフも知らないし、音楽にもうとい。

むしろわたしはこう思う。
本の世界にひとたび入ると日常生活にもどるのに、時間というかスイッチの切り替えというか、心のストレッチが必要で、村上春樹ワールドには特にその傾向がある。

さて、この本とは全く関係なしにわたしの未来のやりたいことリストのひとつに「ホノルルトライアスロンに出る」というのがある。コロナ禍の外出自粛中に思いついたことであり、これまで走るのも泳ぐのも素人並み。自転車はママチャリのみ。メンタルもへたれまくり。
いざ走ろうかと思ってみてもせいぜい2~3分でへたばり、がんばっても5分。泳ぎは25メートルはなんとか。1往復して50メートル泳ぐと休みたくなるレベル。
トライアスロン向けのスクールというのも存在しており、そのようなものに通えばある程度決められた期間と練習のもと、形にはなるだろう。しかし正直なところわたしには時間はあってもお金がない。トライアスロンをやっている人にはいわゆる社会的に成功した人々、忙しくとも時間をやりくりしてトレーニングに励み、金銭的に自分に投じるだけの余裕のある人というイメージがある。したがって必然的に自主トレということになる。

自主トレ(自主的トレーニング)という言葉は、ふさわしくない。
むしろ自分がどうなるか、結果ややり方が分からないけれども、わたし自身が主体的にトレーニングしていくことをイメージしている。辞書にはないが主体トレ(主体的トレーニング)ということになる。

この本を読んでよかったのはイメージのトレーニングができたことである。それはレースに完走してあーよかったというゴールイメージではない。
むしろ苦しくてつらくて、身体のあちこちが声なき声、痛みとか違和感とかいう悲鳴をあげ、のどの渇きや、脳の状態、心の葛藤・・・そのようなものが、毎度ノーベル文学賞候補と言われる作家の心情として文字として受け取れるのだ。これをどうして速読、読書術などという手法で読めようか?

どんなにすばらしい文学作品をうみだす作家といえど、ひとりの人間であり、ランナーであり、日々走り続ける人なのである。その描写は恐ろしく正直で、でも美しく、想像力をかきたてられ、そして読む前よりは「あー今日も走ってみようかな。」そんな気持ちになるのである。

本にしおりをはさんで閉じる。着替えて走りにいく。家にもどる。くたくたである。でも心のどこかに強さの芽が出てきた気がする。こんなへたれのわたしでもまだなんとか走れるんだな。そんなことがここ数日繰り返された。
雨の日でも走ろうと思えた。セミがうるさくても気にならなかった、炎天下よりは少し日が落ち着いたから走ろうかな、そう思えた。

Pain is inevitable. Suffering is optional.(いたみは避けられないが苦しみはオプション、自分のこころもち次第)
著者の文章を借りると
~たとえば走っていて「ああ、きつい、もう駄目だ」と思ったとして、「きつい」というのは避けようのない事実だが、「もう駄目」かどうかはあくまで本人の裁量に委ねられていることである。~前書きより。

著者は墓碑銘に
「少なくとも最後まで歩かなかった」
と刻まれることを希望されている。

わたしは走ると決めて走り始めてもすぐ歩く。走っては歩く。でまた気まぐれに走っては歩く。家にはたどりつく。
「少なくとも最後まで(止まらずに)歩き続けた」
それが今のわたしの望んでいること。

実はこの本を読むのは初めてではない。これまで生きてきた中で何冊か私は村上春樹作品を買ってはいるがすぐに手放している。前述したように病「村上春樹病」にかかり、日常の些末なことを放棄したくなったり、現実の人とのやりとりがおっくうになったりしがちだからだ。そしてその気になればまたいつでも買えるし図書館で借りたりもできる。図書館で予約数が3ケタになったり本屋で売り切れたりするのはほんの一時期のことで、発売されてから何年たっても折にふれて読み返したくなる(はやり病にかかりたくなる)のである。

走る、書く
人生マラソン
おりかえし
いつもそばには
村上春樹

短歌はじめました。

To be continued・・・


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