見出し画像

私はいじめの加害者だった

私自身は幼稚園を年長の一年しか行っていない。
年中の途中から入ろうとしたが馴染めず、2、3日でギブアップしたらしい。
そのある一日の場面はぼんやりと覚えている。

園庭の長ブランコに乗りたいけど、もう友達の輪は出来上がっていて混ざれず、寂しい気持ちで近くにポツンと立ちすくんでいる自分。

母の話だと、年長から入り直した際はすんなりと通ったようだ。
担任のはるみ先生はとても優しくてきれいで大好きだったからかもしれない。
七五三には内祝いの菓子折りを先生にもあげたいと親にせがんで渡してもらったらしい。
後日先生からバラの刺繍が両サイドに入った赤いハンドバッグをもらい、とても気に入って大切にしていた記憶がある。

幼稚園生活が楽しかった記憶はないが、嬉しかった記憶が一つだけある。

その時はなぜだか教室に私と先生3人くらいがいて、目の前にオルガンがあった。
何か弾ける?と聞かれて、オルガンの前に座って右手だけで当時大ヒットしていた「ブルー・シャトウ」を弾いたら、先生達が驚いて上手だ上手だとすごく褒めてくれた。
普段は目が吊り上がっていて髪をアップにしている年中クラスの先生も、ニコニコ褒めてくれたので嬉しかった。

幼稚園の途中入園はドロップアウトしたが、小学校からは思い起こしてみても登校拒否というものを経験していない。

逆だったのだ。

小学校時代の私は
いじめの加害者だった

どんないじめをしたのか、なぜ友達に嫌なことを言ったりしたのか、随分と勝手な言い草だが、今でもわからない。

大人になって考えてみた。
私の家には団欒というものがなかった。
私の両親は仲が良くなかった。
父はとても母に冷たかったのを子供心に感じていた。
母の家事にいちいちケチをつける人だった。
子供の前で平気で母を怒鳴る人だった。
怖くて兄も私も父の前では無口だった。
両親の不和が私の中のストレスになっていて、憂さ晴らしに学校で威張っていたのだろうか。
今思えば父の母へのモラハラがとても嫌だった。
“私の大好きなお母さん”をバカにしてけなす。
食事の内容にもケチをつけた。
父がいつも「こんなもの!」と言うもんだから、母は料理下手な人なんだと思い込んでいた。
自分が家庭を持って毎日食事を作るようになって、母はご飯を普通に美味しくしかも丁寧に作る人だとわかった。
あまりにも気づくのが遅く自分の愚かさに呆れてしまう。

母は要領の良い人ではなかった。
しかし家事にしても育児にしても“雑さ”が無く、当たり前のことをちゃんとやってくれる人だった。

どうしてあんなに母をいじめたのかとうとう死ぬまで父に聞けなかった。

小学校高学年のある朝、
校庭で遊んでいると、同級生の女の子がお母さんに連れられてビクビク登校してきた。
その日の昼休みだったか放課後だったか、担任の先生に呼ばれて「〇〇さんに何を言ったんだ!」と大声で怒られた。
私はその友達に「明日学校に来たら承知しない!」と言ったらしく、友達は怖くて朝泣いていて登校できなかったことをすごく担任に叱責された。

この時だけでなく私は他の友達にも随分と嫌なことを言ったりしたりしていて、授業参観後の保護者会ではいつも名前が上がり問題児だったと同級生のMちゃんから面と向かって言われ、自分が友達から嫌われていたことを初めて知った。

家に帰って母に話した。
「私なんか産まなければよかった?」と最後に聞いたら母は
「別に。。」
とだけ答えて私を責めなかった。

小さな小学校から中学校に進んで、他の小学校と一緒になって、自分は成績もいたって普通で秀でたものもない人間だと気づいた。
以来私は、たいして存在感のない生徒になった。

90歳過ぎで亡くなった父が、
「人生ってのは案外、自分に嫌なことを言った人が、後になってみると恩人だったと思うことがある。」
と言ってたことがある。

じゃあ、それで言うと
面と向かってお前は問題児なんだぞ!と言ったMちゃんは私の恩人ってことになるのか…。

確かにそうかもしれない。
あの時言われていなかったら、私のいじめは止まなかったかもしれないのだから。

高校は地元の学校に進学した。
帰り道に、時々友達とソフトクリームやお好み焼きを食べる店があった。
当時“寄せ書きノート”が流行っていて、その店にも置いてあった。
書き込んだことはなかったが、一度何気なくパラパラ見た時があった。

「〇〇〇〇死ね!」

と自分の名前を見つけて物凄く驚いたが、友達に気付かれないようにそっと戻した。
帰宅して直ぐ店長に電話をして事情を話した。
翌日一人で店に行き、店長の目の前でそのページを切り取らせてもらった。
店は何も悪くないのに店長は謝ってくれた。
きっと私が小学校時代にいじめをした誰かから書かれたんだろうな、と思った。

私には小学校時代の友達が今も一人もいない。


そんな私は社会人一年生にして初めてやられる痛みを知った。
生意気な私は、先輩3人に目を付けられた。
わからないことを聞こうと私が近づくと受話器を持たれた。
かけているフリの時もあるが、話しかけることはできない。
終わるまで傍で待っていると
「電話中って見て分かりませんか?」
「邪魔だから横に立たないで下さい!」
「あーびっくりした!あんまりデカいから男かと思いました!」
などと言われた。
「その仕事は私の担当じゃ無いのでわかりません!」
絶対に知っている仕事も教えてもらえなかった。

夜眠れなくなり、お酒なんか嫌いだけど眠るために飲んだりした。
飲めないことを知っている母はそんな様子を見て、
「仕事なんて辞めたって良いんだよ」
と繰り返してくれた。
でも辞めればあの馬鹿女たちの勲章を増やすだけ。
今まで何人辞めさせたかをよく自慢していて、
要は私たちを敵に回したら、お前もそうなるんだと…。

勝気というものも少しは役に立つもので、馬鹿女達に負けてやめるのは嫌だった。

幸い他の先輩達は皆優しかったし、
3人の同期にも支えられ私は乗り切れた。
運悪く支えてくれる人に出会えない人もいるよね。

あの意地悪をした先輩たちも何かを抱えていて心が歪んでいたのだろうな…。

“いじめ加害者の周りには必ずモデルがいる”
というそうだ。

学校などはいじめを起こさせないよう様々な取り組みや対策を試みたりするけれど、私はなんとなく無くならないだろうなと思ってしまう。
それは、いじめている側の心の歪みをどうにかしない限り、解決は難しいと感じるから。

#創作大賞2024
#エッセイ部門  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?