見出し画像

石油と豪華客船④

前回からの続きです。


降臨

 1908年5月。
 前月に完成した『天洋丸』は、横浜港で数千人を招待してお披露目を行った。

『天洋丸』

 さすが現任の『日本丸』級を倍近く上回るだけの巨船である。誰しもがその巨大さと豪華さに度肝を抜かれただろう。
 その一方で、会社規模の小さい東洋汽船がこれだけの巨船を登場させたことに、同社の今後の先行きを危惧する者もいた。

 豪華な内装も、資機材同様に英国ヒートン・タブ社の設計製作だった。
 20世紀に入って間もない時期なので、アールヌーヴォー様式を主としていたが、和の要素も織り交ぜられていた。
 のちに就航する三番船『春洋丸』の一等食堂には、日露戦争に勝利して間もないことから、吹き抜け壁面に東郷平八郎の立像も飾られていた。

『天洋丸』級断面図
台風で会社が休みになったので、暇つぶしに・・・。

 手書きの上に、字も汚いのはごめりんこ・・・(;´Д`)
 アヘン窟があるのにギョッとするが、ライバル船にもあったので、アウトローな設備では無かった模様・・・。
 もっとも定員が多いのは三等(816名)だが、船尾に多段式ベッドに詰め込まれる感じである。その程度の扱いというわけ・・・😒
 一方、定員の少ない一等(260名)に充てられる空間は断トツに広い。
(二等はわずか47名定員なので、忘れられた感じ??)

やっぱり石油は・・・。

 浅野が期待した燃料だったが、結局浅野の想定通りにはいかなかった。
 計画当初はカリフォルニア産原油のトン単価6.7円に比し、国内産の石炭がトン単価8円と想定していた。
 しかし、原油関税の税率引き上げにより、その目論見は頓挫とんざする。
 もっとも、『天洋丸』級に採用した蒸気タービンの燃料は石油だけでなく石炭も使用できた。
 同船の石油タンクは、石炭庫に容易に転換できる設計にしてあった。
 「石炭も使えるなら一安心」と言いたいところだが、そうは問屋が卸さず、『天洋丸』の時点において蒸気タービンはまだ発展途上で、技術的に未成熟であった。
 従って、燃費も当時メジャーだったレシプロ機関に劣る結果にもなった。

 確かに、理論・構造上は蒸気タービンに利があった。
 しかし現実には、蒸気タービンを使用した商船は世界的にもまだまだ少なく、どちらかというと中古船の機関を試験的に改装して使ってみて、ようやく「これはレシプロよりも良さげだぞ」という目処が立ち始めた頃だった。
 巨大豪華客船の主機関に目新しい蒸気タービンを採用したのは、さすがに浅野の勇み足の気が強かったのかもしれない。

『紀洋丸』
1970年代までの大型石油タンカーは、こんな特徴的な外見だった。

 日本初の航洋タンカーかつ、当時世界最大級のタンカーとして建造されていた『紀洋丸』は、浅野財閥の石油事業挫折の余波を受けて、途中で貨客船として設計変更されて竣工した。もう1隻は建造中止となった。

 石油事業が順調にいけば、『天洋丸』と共に『紀洋丸』ももう1隻の主役になり得たはずだった・・・。

紫雲閣

 『天洋丸』に遅れること7ヶ月、二番船『地洋丸』が就航した。
 彼女は姉『天洋丸』と違い、内装も国内で設計された。
 とりあえず2隻揃うことで、サンフランシスコ航路でライバル社と互角に戦えるようになった・・・。
 と思われるが、やはり現実は厳しかった。
 『天洋丸』就航後間もなく、東洋汽船は創立以来初の赤字を計上してしまう。
 サンフランシスコ航路と南米航路以外に利益を見込める航路を保有していない上に、充分な貨物船も無かった東洋汽船は、このように収益源が少なく、経営基盤がお世辞にも強固とはいえなかった。
 折悪しく、就航した時期も良くなかった。
 アメリカの移民抑制策が強まった時期で、主な乗客として期待した3等移民に多くを期待できなかった。
 それに加え、中国における反日感情の高まりにより、こちらも取り扱う貨物や乗客数の減少につながった。
 いずれも浅野が原因ではないし、ましてや責任を負うべき筋合いではないが、株主からは経営責任を問われるのは致し方なかった。
 それでも、『遠洋航路補助法』による補助金によって、ひとまず経営の危機を脱することができた。

 さて、1896年の欧米視察旅行で浅野はもう一つ感銘を受けたものがある。
 各界の実業家・名士の大豪邸であった。
 欧米では、名だたる実業家は宮殿のように豪奢な邸宅を建てて、その財力を誇ったが、単なる成金趣味と切り捨てるのは早計である。
 各界からの客人をもてなすのに、いちいちホテルなどを手配する必要がなく、全て自己完結できるという、地味に無視できないメリットがあった。
 豪華な邸宅はビジネスの舞台としても極めて有益だった。

 浅野もそういったビジネス面の効用に大いに着目しただろうが、東洋汽船を利用して日本にやって来た外国人乗客を歓待するためのもので、自らの贅沢を目的としていないことだった。

 もっとも・・・、贅沢が悪いことでは決してないと思う。
 自分の稼ぎであるなら、他人からなんと言われようと自分の趣味・贅沢を貫くのは全くやましいことではない。

 浅野は、「せっかく外国人をもてなすのに、西洋式建築では芸が無い」と考え、純和風の粋を集めた大建築とした。

 富国強兵に邁進まいしんしていた明治期であれば、何から何まで西洋風が優れているように思われ、建築も例外ではなかった。
 当時は官民問わず、たいていの大建築は西洋式に範を取って設計された。
 一方、浅野の豪邸は、そのトレンドに逆行していた。
 若き頃から自らの才覚一本でただ只管ひたすらのし上がり、多くの仲間と共にのし上がってきた浅野には、後ろ暗いコンプレックスは無縁だったろう。
 そんな彼が、自らが日本人であることに卑屈になる理由など、どこにも無かったのかもしれない。
 欧米の人々に対して気負うことがなかったし、下手な対抗心・敵愾てきがい心も持たなかったのではないか。
 そんな彼だからこそ、
「はるばる日本にまでやって来てくれた外国人をもてなすなら、和風建築が良いだろう」
 と、ごくごくナチュラル+フラットに考えたとしても、不思議はない。
 こうして建てられた自邸迎賓館に、浅野は『紫雲閣』と名付けた。

『紫雲閣』
右端に停車する車と比べても、その大きさが窺える。
小川一真出版部, Public domain, via Wikimedia Commons

 寺社仏閣やら天守閣やら様々な要素を混ぜ込んだ、一見すると”建築様式のごった煮”が如く、純和風に違いないが、私たちがイメージするシンプルな和風建築(≒数寄屋造)とはほど遠い、竜宮城のような印象である。
 『天洋丸』ほかの東洋汽船の船で横浜に到着した、一等の外国人乗客は必ず『紫雲閣』に招かれ、振袖をまとった浅野の娘や孫娘たちが歓待したという。
 こんなことをした船会社は世界中を探しても、同社だけだろう。
 それ以外にも、各国からの貴顕を接待する場としても重宝されるなど、まさしく浅野が構想した通り、民間外交の舞台として活用された。

 一方で、見るからに豪華絢爛な建物に否定的な見方をする者も多かった。
 質素倹約で知られた明治天皇は立腹したというが、浅野が「民間外交に役立てている」と申し上げると、ご機嫌になったと言われている。
 幾人かの文人も『成金趣味』『低俗』などと綴っている。
 いわゆる汗のかかない”インテリ”と、つねに泥臭く頭と体を動かし続ける数多の漢たちとは、いつの世も水と油の関係ということだろうか。
(どこかのいわゆる”女子アナ”のツイートを思い出してしまった(;゚ロ゚))

 なお浅野自身は、『紫雲閣』裏に建てた普通の邸宅に暮らしていた。
 自分自身の贅沢には興味が無かったのだ。

記事を読んでくださり、ありがとうございます。 気に入っていただければサポート宜しくお願いします!! いただいたサポートは、新しいネタ収集の資源として使わせていただきますだおかだ(´д`)マタスベッタ・・・。