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どんどん「考える」がレアになる

今日は打ち合わせ後にクライアントさんも含めてランチ行きましょうの会があって、取材現場近くのイタリアンへ。

前菜がとてもおいしかった。

「現場」での仕事、そろそろ自分が最年長らしいと認識してそら恐ろしい(現実は見ないようにしている)。

chatGPTの話を聞きながら、最近突然評論家の小林秀雄さんの本を読んでいる私は、その相反する世界を比較しながらぼんやりと未来を考える。

世界を取り巻く情報の渦から、対象物の一般的な解釈を抽出するのがAIならば。

小林秀雄さんが語る人間主義はテーブルの反対側にいる。

「他者が何を言っているかとか、科学的に証明できるのか、とか。そういうことはどうでもいい。あなたがどう考えるかだ」

というようなことを難しい言葉で延々と書き綴る小林さんの文章を全く理解できないので、全集を読むのを諦めたと読書師匠(骨董屋さん)に伝えたら、「そんなものいきなり読めるわけないじゃない」と。

「考えるヒント」を貸してくれたので、そこから手をつけている。

考えることがレアになっていく。

考えるということは脳内で作業するだけをいうのではなくて、自分の目でみて、自分の足で材料を探して、自分で何かを書いたりメモしたり写真をまとめながら整理して検証を重ねることだ(多分。知らんけど)。

「考えるヒント3」には、具体例として、民俗学者の柳田國男先生のエピソードが出てくる。地方を歩いて伝承を集めた先生は「おばけなんかいることが大前提だ」という姿勢で生きてきた。

しかし近代化した日本で暮らす人々は、「ところで先生、おばけは実在するんでしょうか?」とニヤニヤしながら聞いてくる。

先生からすると「何を言っているんだ」となる。

→まず、「おばけの有無を決めるのが自分ではなくなっている」。それは誰か賢い人によって検証されるべきもので、いると思ってもそれを表に出して言えないような教育を受けている。

さらに、「実際はいないだろう」という意見が大多数の中で、それでも「なんかやっぱりいるような気がする」という気持ちだけは人々の心から無くならないのも事実。そしてみんな困って「ところで、おばけは実在するんでしょうか」と聞いてくる。

そんな不自由な思考が蔓延していることを、小林さんや柳田先生は問題視しているのであって。

考えた結果が実は間違っていたとか、証明されていないとか。そういうことではなくて。

自分がどう感じるか、どう思うか。それを言語化し続けることこそが、考えるために必要なんだなと思う。

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