見出し画像

体の「生きる」と、頭の「生きる」|生きる行脚#9@佐賀

 僕は大学で学んでいることや「大学」という環境、自分の将来のことなど、いろんなことについてとにかくもやもやを感じていた。
 そんな中REIWA47キャラバンでの株式会社ポケットマルシェ(現:株式会社雨風太陽)のCEO、高橋博之さんとの出会いをきっかけに、大学3年生(2021年度)の1年間を休学し、日本各地で一次産業を生業とされている方の隣で一緒に作業をさせてもらう旅、「生きる行脚」をすることを決めた。
 生きる行脚とは、一次産業を生業とされている日本各地の漁師さん・農家さんのところに住み込みで1週間~1か月ほど滞在し、漁師さん・農家さんが普段やっているようなことを隣で一緒にやらせてもらう修行の旅である。
一次産業という産業のなかで物理的に命を扱ったり命と向き合ったり、一次産業を生業とされている方の生き様などを通して「生きる」とはどういうことなのかを感じたり、考えるため、2021年の3月8日(火)から2022年の3月28日(月)までのおよそ1年間、この「生きる行脚」を実施した。
 このnoteでは、この1年間で日本各地の漁師さん・農家さんのところへ行かせていただいたときに僕が見てきた景色や、僕が感じたことや思ったこと、考えたことを綴っている。


 9月いっぱいで緊急事態宣言が解除されてからどこにも行けず、何もしないまま実家で過ごした。
2週間、畜産農家さんをあたり続けていたもののいい返事がもらえず、行き先が決まらなかった。
 このままだと、行き先が決まらないことを盾に家から一歩も出なくなるような気がして、怖くなった。
そこで直感的に
「受け身のまま何かが起きるのを待っててもたぶん何も起きない。今の状況に満足してないんだから、思い切って自分から何かをしてみなくちゃいけない。」
と思った。

 だから、行き先が決まらないうちに福岡行きの飛行機のチケットを予約して、強制的に(物理的にも)自分を動かすことにした。
飛行機を予約してからも1週間くらい猶予があったので、考えられるありとあらゆる手段を使って色々なところへアプローチし続けていたけど、とうとう行き先が決まらないまま飛行機に乗る日を迎えた。飛行機に乗ってるときは「親戚も身近な友達もいない九州に行く宛もないのに来てしまうなんて、僕はなんて馬鹿なことをしたんだ…」とか、「途中で資金が底をついたらどうしよう。」といった不安が頭の中をぐるぐると駆け巡った。

 空港に着いても行く先がない。だからロビーのベンチに腰掛け、ポケットからスマホを取り出してGoogleやらポケットマルシェのアプリで九州の畜産農家さんを探した。

 ポケマルで何気なく開いたのは、佐賀で自然養鶏を営む、ほんま農園の本間昭久さんの商品ページだった。
「里山、田舎にはいいところがたくさんある」「暮らしていくにはお金が必要という都市部とは違い、知恵とひと手間によって心豊かな暮らしを送れている」といったことが自己紹介には書かれていてとても共感するところがあったし、脊振という場所が気になった。正直、鶏自体に対する関心は薄かったけれど、「農業体験」「山村留学」ということも書かれていたことから「ここなら受け入れてもらえるんじゃないか。」という淡い期待半分、「まただめなんじゃないか。」という諦めの気持ち半分で、最後の希望を託すような思いで「お願いします!」と祈りながらメッセージを送った。
 すると、僕の諦めとは裏腹にその日のうちに連絡をいただくことができ、その数日後から行かせていただけることになった。


温度を育む、自然養鶏。


 日本の採卵鶏(卵を産む鶏。)の養鶏では、鶏を1,2羽ずつ入れた小さなケージを積み重ねて飼う「ケージ飼い」が全体の95%以上を占めるが、ほんま農園では鶏舎の中で鶏が自由に地面の上を歩き回れるようにした「平飼い」という方法で鶏を飼っている。
 さらに、メスだけでなくオスも同じ空間で飼うことで有精卵の卵となっている。有精卵は、無精卵との成分や栄養的な面での違いはほとんどなく、気温が高くなると細胞分裂が進んでしまうことがあるため、一般的に敬遠されがちな傾向にある。しかし本間さんは、鶏の自然な営みの中で生まれた卵には生命力や数字には現れない力があると信じ、食べてもらう人に少しでも命や生命力を感じてほしいという想いもあって、オスも一緒に飼うことで有精卵を作っているという。

 そしてほんま農園の養鶏の最大の特徴は、鶏の堆肥による発酵熱を利用して雛を温めて育てる「堆肥熱育雛」だ。
 寒さに弱い育雛(孵化場から導入してきた生後1週間ほどの雛を、ある程度の大きさになるまで育てること。)期間に一般的に用いられる、局所的で機械的な暖かさである電気ヒーターに対し、堆肥熱育雛には全体的にじんわりとした、母鶏の胸の中で温められているかのようなぬくもりがある。
 堆肥熱育雛は、自然に近い環境で雛を育てられたり、鶏糞を使うことや雛を入れる囲いを工夫することで病気に強い健康な鶏を育てられることに加え、母鶏の胸の中で温めて育てられているかのような環境を作り出すことにより、穏やかで、「心」を持った情緒のある鶏に育つのだと本間さんは教えてくれた。

 鶏は、時として残酷だ。
尻つつきだ。鶏は、何らかのストレスを感じると群れの中の弱い鶏のお尻をつつき始める。鶏は集団の生き物だ。だから、1羽がつつき始めると集団でその鶏のお尻をつつくようになり、お尻から血が出ようが、肛門から内臓が引きずり出されて死に至るまでつつくことを止めない。また、その1羽が亡くなれば尻つつきが治まるというわけではなく、新たな鶏をターゲットにしてストレス源が排除されるまで尻つつきは終わらない。ストレスの原因はなかなか単純でないことが多く突き止めるまでに時間もかかることから、一度発生すると数十羽という数の鶏が亡くなることもあるという。
 しかし、雛の段階から堆肥熱育雛によって穏やかというか、感情のある鶏に育てることで、尻つつきの発生をできるだけ減らせるようになると本間さんは考えているということだった。

入雛(孵化場から雛を運んでくること。)したばかりの雛。ある程度の大きさになるまでこの堆肥熱育雛の囲いの中で育つ。
かわいい以外に言葉が出てこない(笑)。


 命には、「温度」がある。
 初めて集卵(産卵箱から鶏が産んだ卵を回収すること。)をして、胸の中でじっと卵を温める母鶏を抱えたとき、生まれて間もない卵を手に持ったとき、母鶏の体温や直前まで温められていた卵の温かさが手から伝わってきて、
「鶏って、卵って、こんなにあったかくてちゃんと体温があるもんなんだ。」
と思って感動した。
だって、プラスチック容器に入れられてスーパーに並んでいる卵からは温度なんて感じられないし、冷蔵庫から取り出す卵があったかいことなんてないから。卵っていうものはひんやりしてて、冷たいものだと思っていたから。だから、
「今まで何も思うことなく食べていた卵は生き物だったんだな。」
と気づかされた。

 鶏舎に入れば、オスがメスの上に乗って交尾をしている光景が見られるし、日齢が違う鶏たちを見ていると、鶏が卵を産むようになるまでの成長や過程を感じる。また、産卵箱を開けると母鶏が大事に大事に卵を温めていて、集卵のために母鶏をどかそうとすると「コォーッ!コォーッ!」と威嚇されるし、オスとの距離感の取り方を誤って敵だと思われると膝に強烈な飛び蹴りをくらう。
 命はこんな風にして生まれて、育まれて、大きくなって、次に命をつなごうとする。そして僕は、その「生」のサイクルの中にある命をいただくことで、自分の命をつないでいる。命の成り立ちから終わりまでの命のサイクルとか循環を、鶏や卵を通して目の当たりにし、とにかく命とか生きることを感じた2週間だった。

卵を温める母鶏。集卵のときに手に抱えると、しっかりと体温があることが分かる。
人が近くに行くと、鶏も寄って来てくれる。僕の中では鶏ってあんまり人との関わりがないイメージだったから、こんなに近くで鶏を感じることができて「え、鶏ってめっちゃかわいい!」と思った。
ほんま農園の卵を使った卵かけご飯。黄身は優しい黄色をしている。自家配合の餌と緑餌を与えているためまったく臭みがなく、甘い。卵かけご飯で食べるのがおすすめ。僕は滞在中、これでもかというほど食べさせていただいた。とても幸せだった。(ごちそうさまでした(笑)。)


生きるを「選ぶ」。


 ほんま農園の代表の本間 昭久さんは、19歳のときに大学を辞めてから、農業コミュニティへの参加や山小屋での住み込みバイト、友人とのバイク屋の共同経営、中国1ヵ月放浪など様々な経験をした。社会勉強のため32歳のときに法人への飛び込み営業の仕事に就いたものの、ストレスや精神的な揺らぎが大きく、生き方に迷った。それでも、農業コミュニティで初めて農業に触れたときの感動や農業への憧れから、「農業をしたい」という想いを捨てきれず、40歳を目前に兼業で稲作と200羽の養鶏の小さな農業を始め、43歳で正式に就農し念願の専業農家となった。

 専業農家になりたての頃は手続きの関係で前に進むことができず、奥さんの綾さんと派遣やバイトを掛け持ちする生活が続き、まさしく「いばらの道」だった。深夜のガソリンスタンドのバイトでトイレ掃除をしているとき、「もし農業をしない方がいいと言うのなら、体調を崩すとか何かしらの反応をください。」と本気で天に訴えかけながら便器を磨いたこともあったという。

 本間さんは養鶏に加えお米も作っていて、田んぼでとれたお米を餌として鶏に与え、そのお米を食べた鶏の糞を堆肥として田んぼに撒くことでお米を育てる「循環型農業」を営んでいる。

 本間さんが高校生のときに目の当たりにしたチェルノブイリ原発事故の惨状、「はだしのゲン」を読んでショックを受けた原子力や核兵器の脅威、大学時代のコンビニバイトで目の当たりにした弁当の大量廃棄。学生時代から、自然を遠ざけ、破滅する道を選んで歩んでいくかのような文明の発展の仕方に、「人間ってなんだろう…?」「破滅するために文明を発展させているのだろうか?」といった違和感を感じていた過去があった。
 そこで、農業を始めるときにも「自然と調和した形の農業をしなければいけない。」と思い、循環型農業という形を選んだ。

 しかし本間さんは循環型農業を実践する一小規模零細農家として、最近の農業全体の動きや方向性に疑問を抱いている。

 近年、国の農業政策では「農業を成長産業に」を目標に、スイカやメロン、和牛など日本でしか作れない高付加価値の農産物を作って海外の富裕層をターゲットに輸出する「勝てる農業」を提案し、輸出向きの作物を作る法人や大規模企業など勝てそうな農業者へ向けて、成長戦略と銘打って手厚い支援や補助をしてきた。
 法人や大規模という既に勝ち組の「勝てる農業」をより勝たせようとするかのような予算のウエイトの置き方に、自分のような小規模零細農家は置いてけぼりにされている感があり、「儲からない農業、国の補助金を借りてやるような農業は辞めてください。」とまで言われているような気分になると本間さんは言う。

 自然界は不増不減(増えることも減ることもないということ。)で、物質は常に循環している。それは自然の中で行う農業も同じで、経済を優先して長期に渡って特定のものを作り過ぎたりして負荷をかけると、いつかは自然の中に歪みが生じ、環境問題や連作障害を起こしかねない。その結果、農薬や肥料に大量に依存せざるを得ない農業が営まれるようになれば、後々人体にも影響が出てくる可能性も完全に否定することはできない。

 また、1980年代以降新自由主義の思想は世界的な広がりを見せ、日本でも2000年以降、新自由主義的な政策が導入された。そして、新自由主義による「競争」がこれまで以上に農業に影を落とすようになれば、効率が悪い山間部では農家が次々と姿を消すようになり、広大な土地を確保できる平野部で資本力のある大規模な企業や法人だけが農業をやるような世の中になっていく。山間部の農業がなくなるということは、集落や自然環境の維持機能の衰退を意味する。もしそうなれば、人口の流出や災害の頻発は免れない。だけど農業には、水を貯めることで災害による被害を軽減する機能や、景観や生態系を維持したり、農家がその土地で暮らすことで集落を維持する機能など、数字や合理だけでは決して計ることのできない、「多面的な役割」がある。

 フランスでは、農家の収入の約95%が補助金により賄われており、政府は農業に対して超保護的な政策をとっている。これは、農業という産業の存在が国家の安全保障の絶対条件であると政府が認識しているためだ。一方でどちらかの肩を持つような政策をとる日本は、国として農業をないがしろにしていると言っても過言ではない、と本間さんは語気を強めた。

 そして本間さんは、「農業だけじゃなく、脊振という『地域の経済』も循環させていきたい。ほんま農園の卵とお米や、脊振で採れた野菜を背振の農家レストランで提供したり、地域通貨の発行のような、小さくても外部に頼らずに地元でお金が循環する仕組みを考えていきたい。」と今後の展開についても語ってくださった。


 本間さんのライフストーリーや考えを伺う中で、「生きることを自分で選んでいる方だな。」という印象を受けた。
 大学を辞める決断をしたのも、農業を始めるまで本当に色々な経験をしてきたのも、なんとなくのその場しのぎでその道を選んでいたんじゃなくて、「こうしたい。」とか「こうなんじゃないか。」ってその瞬間その瞬間の自分の声に耳を澄まし続けてきた結果なんだと思う。

 また、選挙のときには候補者の応援演説をしたり、農業においても自分がプレーヤーとなって実際に現場で手を動かしてその背中を見せることで自分の想いや願いを語ろうとする本間さんは地に足の着いた方だな、という印象を受けた。


 僕は今まで、これからの世の中のことを決めていく歳になったという自覚なんてなかった。政治とか歴史の難しい話は深く理解できないこともあって「ふーん、そうなのかぁ。」と思いながら話を聞くことしかできなかったけど、政治や世間に対して思いの丈を語ったり実際に手を動かす本間さんの姿を見て、自分は世の中で起きていることを他人事のように眺めて文句を言うだけのギャラリーだったのだと気づかされた。

「歳を重ねていったとき、自分の子どもの世代から『お父さんなにしてたの?』なんて言われないようにしないとね(笑)。」という本間さんの言葉が印象的で、ほんとにそうだな、と思った。


 体で生きることを感じて、頭で生きることを考えて、刺激を受けた2週間だった。


 急にお願いしたにも関わらず、すぐに日程を調整して温かく受け入れてくださった本間家のみんな、博紀さん、ありがとうございました。毎日の養鶏のこと、生活のことをはじめ、ラーメンや鯉を食べに連れて行っていただいたり、決起集会や不在者投票にまで連れて行っていただいたり、予定を延長して滞在させていただいたり、色々なお話を聞かせていただいたりと本当にお世話になりました。
佐賀は新潟からそれほど遠くない(時間感覚的に)ことが分かったので、またひょっこり顔を出しに行けたらいいな、なんて思っています(笑)。
2週間本当にありがとうございました。


鶏舎の周りの様子。ポケマルの自己紹介に書いてあった通り、本当に360度周囲を森林に囲まれたところにポツンと鶏舎があった。写真のように天気がいい日はほんとに気持ちよかった。



本間昭久さんの商品はこちらから!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?