備忘録 失格
難聴になってからひと月ほど経過し、なんだかこの生活にも慣れてきてしまった。相変わらず生活はしづらいけれど。
ただどうしたらいいかわからなかった。身動きが取れないというか。
この状況を変えないといけないけど、どうやって言い出せばいいのかわからない。
というか、そっちから言い出してよ。
なんでわたしがこんなに悩まないといけないわけ。
わたしが浮気してるの?って言ったとして、そしたら泣いて謝られて家の中が泥みたいな雰囲気になるか、それかもし逆切れからの殺されたらどうしよう、ってもう頭の中がぐるぐるぐるぐる。
こんなことでエネルギーを使いたくないのに。
こんなことで悩みたくないのに。わたしこんなつもりで結婚したわけじゃないのに。
ひとまず、一人でも生きていけるようにしよう。そうしよう。
そう考えていた矢先だった。
仕事中に嘔吐したのだ。
おやおや?ここまで体調が悪化しては仕事に支障をきたすことになる。
その日は午後、休みをもらって家に帰ることにした。
ここまできて、ようやくわたしは実家に帰る決意をした。
なんといっても体は資本だ。
会社に迷惑をかけるわけにはいかぬ。
言い訳は後で考えるとして、彼が帰ってくる前に何日か分の洋服をまとめる。スーパーで空段ボールをもらって、洋服と靴を詰めてコンビニにもっていく。なに、ちょっとうきうきしていない?わたし。
彼にはなんて言おう。
今日、体調を崩したからちょっと実家に帰るね、とでも言えばいいか。
彼から連絡が届く。
「話したいことがあるから、夜待っていてほしい」
ここへきて、なにか話されるらしかった。
もう決めちゃったけど、致し方あるまい。何も知らない嫁だから、
了承して家で帰りを待つ。
帰ってくるなり泥のような雰囲気をまとっている彼。
息するのがしんどい。極寒の外だけど、窓を開け放ちたい衝動に駆られる。
「ちょっとだけさみしくて、マッチングアプリを入れてしまった。」
夕飯もそこそこに、とうとう白状した彼。
わたしの体調が悪化した時点で、もしかしたら自分が原因かもしれない、と思ったらしかった。はよいえやと言いたくなる気持ちをぐっとこらえる。
「アプリは入れただけだ。誰とも会っていないし、もう消した。信じてくれ。これが嘘だということになったら君の言うことは何でも受け容れる。」
全部全部嘘ではないか。
君が何人ともやり取りをしていることも、デートをしていることも、知らない女にかわいいね、ショートカットの子好きなんだ、などと発言していることも、会員制のあやし~いお店に通っていることも、すべてオミトオシなのだ。はっはっは、わたしの洞察力を侮らないでいただきたい。
「そっか、わかった。もう今日は遅いから、お風呂に入ってきて。今日はこれでいったん終わりにしよう。またあした話そう。」
理解ある嫁は、旦那に風呂を促す。
一方でわたしは、この後の計画を頭の中で練る。
今ならまだ終電に間に合う。
明日は大事な商談が入っている。
あのセットアップにパンプスで出るとすると、明後日からのためにスニーカーも持って行かないとしんどいな。
お風呂場からシャワーの音がする。
よし、いまだ。
両手に荷物を抱えた、パンツスーツのOL。
はたから見たら、どんな人に映っているんだろう、と思いちょっと笑える。
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