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世の中は窮屈になってきてる?

ネット上で様々な意見を見ると、「世の中はだんだん窮屈になっている」と考える人が、だいたいいつもいるように思います。
ただ、一般にそのような考え方の人は時代問わず一定数いるとされていて、現代社会が過去の人類史と比べて生きづらい事実はないようでもあります。

だとするとなぜ、その人達はなぜ、世の中がだんだん窮屈になっているように感じるのでしょうか。
彼らの意見はどこまでが一般論で、どこからが偏見なのでしょうか――。

いつもお読みいただきありがとうございます。
または初めての方も、この記事を見つけてくださって嬉しいです。

私はエンジニアリングを生業として暮らしております、中島と申します。
先日初めてコロナに罹患し、何日か閉じこもり暮らしをしておりました。
めっちゃ退屈で心が死んでしまうかと思いきや、案外快適でした。
でもあんなものに快適さを感じている自分に、ちょっと危機感を持っている今日この頃です💦

この 絶対バグらないシステム作ろうぜの会 では、バグの出ないシステム・問題を起こさないチーム運営・AIには作れない設計論などのコラムを、なるだけ面白く・分かりやすくお伝えする主旨で記事を配信しております。


1. 「世の中が窮屈になった」と感じる人に欠けている視点

「最近は何でもすぐ炎上する! 好きなことが好きに言えないなんて、インターネットはだんだんつまらなくなっている!」と言う人がいます。
また、「ちょっとしたことに物凄い数のアンチコメントがつく。まるで集団リンチだ!」と考える人もいるようです。

ただ個人的にちょっと思うのは、「インターネットって、そもそも好きなことを好きにホザいていい場所でしたっけ?」ってこと。

もし本当に好きなことを好きに言っていい場所なのであれば、アンチコメントをつける自由だって認められなければいけません。
そんなの認めちゃって本当にいいんですか?

最近のインターネットに「すぐ炎上する」という認識を持っている人の中には、ネット上がそもそも “公共の場所” ってことを理解していない人もいるようです。
あるいは理解はしていても、“公共度” に対する認識がまだまだ甘い人も。

『商店街の街角は公共の場所である』
『インターネットは公共の場所である』
『どちらも同じ公共の場所』
『つまり商店街の街角で言っていいことは、ネットでも言っていい』

これくらいの認識しかない人も、個人的に見渡す範囲ではかなり多いです。
正直申し上げて、公共の場所という概念に対する認識が甘すぎるし、そのような考え方自体が “子供じみている” と評価せざるをえません。
世の中の全ての公共の場所には “公共度” というものがあって、それによってどのように振る舞うべきかがそれぞれ違います。

インターネットの公共度は、商店街の比ではなく、とても高いです。

公共度とは:
ここでは『発言者に対する注目度』という意味で使っています。
“公共度が高い = 発言者はより注目を浴びている” ってイメージ。

ネットでは、とりわけ有名人ともなれば、その発言1つ1つを数百万・数千万単位の人間に見られる可能性があります。
こんなにも公共度の高い場所は実社会には存在しません

ですので、インターネットを実社会の公共性と同列に扱うのは誤りだし、そのていどの認識しかできない人はそもそもインターネットで情報発信すべきではありません
これは、『舞台に立つ度胸のないヤツは舞台俳優にはなれない』と言ってるのと同じです。

舞台に立てば注目されるんだから当然のことです。

一般に公共の場所では、人は “無難な主張” しかできません。
たとえば、たとえ本人が聞いていなくても、公共の場所で自社の社長の悪口を言う人はいないでしょう。

舞台では台本のセリフ以外を言ってはいけないのと同じように、公共の場所はプライベートエリアと比べて発言が制限されるからです。

だとすると、同じことをインターネットでやっていいことにはならないし、むしろネットで言う方がなお悪いことになります。
なぜなら、インターネットは実生活社会とは比べ物にならないほど、圧倒的に公共度が高いからです。

もしくは無難でない強い主張を公共の場所でやりたいのであれば、かなりしっかりした根拠と証拠が必要です。
話題によっては、学術論文レベルの綿密な証拠がないと、ネガティブなツッコミを受けるかもしれません。

インターネットはいつからそんな面倒くさい場所になってしまったのか?
はい。最初からそういう場所でした

  • むしろインターネットが生まれる遥か以前の時代から

  • 《公共の場所》とは

  • 歯に衣着せぬ物言いをしていい場所ではありませんでした

2. ハラスメント認定って、する方が悪いの?

「世の中が窮屈になった」とおっしゃる方の主張の中には、他にも「最近は何を言ってもハラスメント認定されてしまう」という論調もありますね。

  • ちょっとからかっただけじゃん

  • 自分が好きなものオススメしただけじゃん

  • 仕事の注意をしただけじゃん

  • などなど

これも当然だけどさ、、、
ハラスメントって言葉が出来た結果として、その行為がハラスメント認定されたんだとしたら、
それは “今までもずっと相手は嫌がっていた” ってことなんじゃないの?

それとも、「今までは人の嫌がることをやっていい社会だった」とでも言いたいわけ?
そんなわけないですよね。
世の中が改善した結果として自身が窮屈さを感じたのなら、それは今まで人の嫌がることをしてきているってことなんですよ。

もちろん中には、

「いやいや、度を越したハラスメント認定だってあるでしょ?」
「そんなことまでハラスメントにしなくていいじゃない」

と思うことがある人もいるかもしれません。

それ、全然違います。
その行為がハラスメント認定されたことが問題なんじゃありません。

たとえば過剰なハラスメント認定としては、以下のような主張があります。

  • お店の人が客の顔を覚えるのはハラスメントだ

  • 自分と同じ色の服を着るのは偶然でもハラスメントだ

  • 中年男性は加齢臭がするので、存在自体がハラスメントだ

あまり一般的でないこれらの考え方は、問題ないことを無理やり問題にしてしまうところに悪質性があるわけではありません。
このような誹りを受けた側にも、『その人が個人的に嫌がっていることに対し共感できていない』という問題はあるからです。

もちろん、全く共感できないサイコな論調ってのもいっぱいあるけど、それはそれとして、コミュニケーションが成立しない責任をどちらか片方に全部押しつけるのも違うんじゃないか、ってこと。

たとえば:
視線恐怖症の人をジロジロ見たりすれば、その行為は “視線ハラスメント” の誹りを受けることでしょう。
当然ですよね。

でもそれは、その人が個人的に嫌がってるだけであって、これは社会的に人を見てはいけない常識があると主張するのとは全く別物です。
ただ『人の嫌がることをやってはいけない』という社会のルールがあるだけです。
ですのでそういう人は、論破などせず放っておいてあげればいいんです。

もし、現代社会でそうした『相手の心情』みたいな部分を理解できない人が徐々に排斥されつつあるのだとすれば、それは社会が改悪しているのではなく、ちゃんと改善しているってことなんじゃないでしょうか。

そうなったとき、どうすれば『排斥される側に立たないでいられるか』を常に考え続けることが大事なんじゃないかなと、私なんかは思うわけです。

ではまた。

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