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子はどんな生き物より面白い

職場の唯一の同期は、京都大学とその大学院を卒業した才女だ。

私自身は、有名大学とか私立中学とはすっかり縁のない人生を歩んできた。おまけに好きを仕事にしたクリエイターの身分なので、子に英才教育を施すつもりはさらさらない。

さらさらない、けれども。
そもそも、どうしたらこの田舎町から「京大へ行こう」という発想が生まれるのか。
どうしたらそれを成しうるのか、は
地味〜〜〜〜に長年の謎だった。

その答えが垣間見えるやりとりは、
突然降ってきた。

育休後の復職について話していた時のこと。

「私のお母さんは、私たちを観察してたら一日終わってたんだって」

ほう。

彼女曰く、彼女の母親は、生まれた赤ちゃんの動きを見ているのが面白くて面白くて、朝から晩まで観察に明け暮れていたら、それが人生の全てになってしまったらしい。

子どもたちがある程度大きくなり、進路選択やら人生選択にぶち当たってもその態度は変わらず、
子どもたちの選択を興味深げに観察してきたという。

これはかなりのカルチャーショックだった。

それまで私が思い描いていた親といえば、
子の知らないことをたくさん知っていて、答えもほとんど知っていて、子が迷った時は先回りしてくれる。そんな存在。

それは記憶にない赤ちゃん時代もきっとそうで、
ずりばいを始めたらやがて伝い歩きをすることや、
乳首からいずれはストローを使いこなすこと、
ママ、パパなどと話し始めることを知っている。

だから他の子の成長と比べて、うちの子は遅い?と不安になったり、メソメソしたり、
なんで出来ないの?と怒ったり。
そしてその悲しい記憶は不思議と、子供の脳みそに刷り込まれていたりする。

でも「観察」は、それら全てを無に帰す子育てじゃないか。
我が子の成長だけをじっと、目を逸らさずに、興味を持って見つめる。
それって単純なのに、ちゃんと子育て。
むしろ真の子育て?かもしれない。

見たこともない生物が生まれ落ちてきて、突然始まる怒涛の毎日。
本当に観察育児を実践できるかという現実問題はさておき、
「こんな子育てをしたい」という理想の道が
少しだけ定まった出来事だった。


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