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「いや」がいやでなくなる世界の方が楽になれる。

きれいな世界を見ていたい、というと、めちゃくちゃ甘い考え甘い視点な気分にもなる。
だけど私は、わざわざいやなものを見るより、できるだけ見たいものを見ていたいと思う。

もちろん、何か考える上で見たくないものも見る必要はあるのだけど。

見たいものを見ていたいと思うけど、それは、見たくないものを切り捨てるというより、見たいところを見つけるのもあるかなと思う。
(ほんとに見たくないものはまったく見ないし避けるけど。)

たとえば、誰かと関わるときに、相手の雰囲気とか態度とか言動とかを見て、苦手だなぁと思うことがある。
でも、ぱっと見苦手だけど、やりとりしたらそうでもないかもしれない。
苦手なのは自分の思い込みかもしれないし、そのとき機嫌悪いとかタイミング悪かったとかの可能性もあるし、ぶっきらぼうなだけで実はいい人とかかもしれない。
単に自分とは合わないだけで、いやな人ではないかもしれない。
苦手だいやだと思ってると、その苦手な部分が目につくけども、そうでもないかもしれないと思って見てたら、いいところが見える。

いいところがあると思って見てたら見えてくる。
いやな人は関わりたくないんだけど、でも関わるならいいところ見えた方がやりとりしててもうまくいくじゃん?

ちょっと性善説的なところがあるかもしれない。
でもみんな、何かしらいいところがあるものでしょう?自分にはわからないかもしれないけど、それぞれのいいところ。

そもそも、いいところよくないところって何?っていう話。
何がよくて何がよくないか、誰が決めるものなのか。

それぞれ、自分にとってよいと思えたらいいところで、そうでなかったらじゃまになったり困るようになるならよくないところって思うだけだ。
同じことについても、人によって状況によって、いいと思う人とよくないと思う人がいる。
いいとかよくないとかひとつの裏表だったりする。

だから、いいとかよくないとかほんとは決められないもののはずで。
単になんかの特性なりがあるだけ。
それをどうとらえるかっていうだけ。

だから、誰にでもいいところがあって、ちゃんと見てたら見つかるものなのだと思う。

別に、いいところを見つけようとかめちゃくちゃがんばるわけではなくて、こんなところもあるんだなぁ、とか、こんな風に考えてそうしたんだなぁ、とかその程度だけど。
背景とか想いとか知ったからって、合わないものは合わないし、好きになるわけではないけど。

だけど、何も知らないで、むかつくなーとか理解できない!とか思ってるだけより、よく見える。
そういうところもあるんだなぁとか、いろいろ考えてるんだなぁとか、私は共感しないけど同じように考える人はいそうだなとか、少なくとも、いやな人だ!むかつく!だけではなくなる。

その程度でも、それでも変わると思う。
自分が見る世界が。

そして、「別にいやな人ではない」「こういう人ってだけだな」程度であっても、むかつくとかいやだとか思ってるときと、伝わる空気が変わるはずで。
言ってなくても顔に出さなくてもなんとなくお互い伝わるものだから。
そうするとやっぱり相手も変わると思う。
(だからといって変わるのを期待して自分が変えるとかはまた違う結果になりそうだけど。)

結局何を言いたいかというと、特別きれいな世界にしなくても、ちょっといやなものがなくなる世界のほうがよくない?って話。
それくらいならそう甘い考えでもなく世界を歪めて見るでもなく、かんたんにできると思うのだ。


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ふと思ったこととか、noteにまとめる前の思考を記録したりする予定…



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