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2012年映画『メモリーズ・コーナー』感想

フランス人女性ジャーナリスト、アダ(デボラ・フランソワ)は、95年に起きた阪神大震災の式典を取材するために神戸を訪れる。街は復興し、誰もがかつての悲劇に決別し、豊かな暮らしを楽しんでいるかのように見える。
通訳の岡部(西島秀俊)を伴い、かつての被災者の家を訪ね歩くアダの前に、いまだに後遺症に悩む寡黙な石田(阿部寛)が現れる。かたくなな態度をとる彼の心を開かせようとする彼女に、岡部は、彼がこの世の男ではないと告げるが、彼女は石田の取材にのめりこむ。彼が幻であることを悟った彼女は、淡路島の美しい風景の中に石田の記憶を見出していく…。

『メモリーズ・コーナー』(字幕版)より

2011年映画『メモリーズ・コーナー』(監督/オドレイ・フーシェ)鑑賞。
観た後で気づいたのですが、掲載されているあらすじが、ほぼネタ明かしになっていました。とても静かな作品です。震災やその事故に伴う孤独死を扱っておりますが、あくまでも一人の架空の被害者に絞った物語です。

被災後、住人の誰もが取材を拒む中、生気を失ったような石田と言う人物はドアを開けてくれたが取材はうまくいかないまま終わる。しかしアダは帰り際、石田に古いお守りを手渡される。そのお守りに思うことがある岡部は今後、石田への取材を一切受けないとアダに話す。石田のもの言いたげな感じが忘れられないアダは岡部の要求を聞き入れない。不毛なやり取りが続き、岡部は石田の代わりに防災センターの館長への取材を取り付ける。
取材に応じた館長は「人が死んだ後、成仏するかその場にとどまり亡霊となり彷徨うか、それはその人の残した想いにも関係がある(意訳)」と言う話を始める。アダはバカにされていると感じ、途中で席を立ってしまう。

こういった死後の世界についての考え方はアジア人特有のものなのだろうか。館長の解釈、私はとても理解できるものだった。アダは孤独死をあくまでも現実問題として具体的な疾患によってのものだと捉えたがっている。もちろん疾患の場合もある。けれど淋しさは人を簡単に死に追いやってしまう。その部分がなかなかアダに通じず、もどかしい。
そんなアダも最初こそ亡霊に批判的だったが、やがて本物の幻を見て納得する。途中から幻になった石田を演じた阿部寛さんの大きな瞳は虚無に包まれ、どんな小さな希望も映さず、孤独と言う絶望の恐ろしさをこちら側に見せつけて来る。
阪神淡路大震災と仮設住宅内での孤独死という切っても切り離せないふたつをテーマにしているけれど、あくまでもオドレイ・フーシェ監督が感じた震災の物語であり、日本で生まれ育った私から見るとかなり幻想的な解釈に感じました。
けれど監督の目線がとても優しくて、魂の浄化を、鯉のぼりをはためかせる風など自然を通して見せる映像表現がとても美しかった。どれほど震災と言う悲惨な事故に対して強い想いがあっても取材と言う安全な立場から見ると、その悲しみを完全に心の中に落とし込むことはできない。もちろんそこまでしなくてもいい。けれど、人々の心の中の終わらない悲しみを前にしたら、なすすべもなく、どうしたって励ましたり、希望を見出す言葉をかけてあげたくなるだろう。それは相手に対しているようで自分を守る態度でもある。

その後、岡部に連れられ、彼の出身地である淡路島を訪れたアダは幻の石田に出会う。アダはお守りを返そうとするが、この震災の悲しみを忘れずにいて欲しいと、お守りをアダに託す。アダは幻の葬列の中に混じって行く石田の背中を見送る。帰り道のバスの中で、すっかり信頼関係を取り戻した岡部の肩に頭を乗せて眠るアダは、何を夢見るのだろう。

ここでの西島さんは通訳という役柄上、ほぼ全篇フランス語を話します。
その違和感のなさに驚きました。失礼な言い方ですがとても上手かった。ハードな作品の彼も魅力的ですが『ドライブ・マイ・カー』に代表されるような静かな佇まいの役は西島さんが持つ繊細な演技が生かされるので、今後も引き続き、心が穏やかになる静かな作品に出演して欲しい。

ところで、こんなにシリアスな内容ですがアダ役のデボラさん、実はいたずら好きらしく、撮影中、西島さんからデボラとデビル(小悪魔)をかけて「デビ子」とニックネームをつけられたそうです(笑)どんな撮影でも和気藹々としたムードを作るのが、西島さんと言う俳優の魅力であり、力量でもあると思います。現場の雰囲気は大事ですよね。(ちなみにデボラさんからは「ヒデ」と呼ばれていたそう。)

映画版ポスター

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