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2004年映画『カナリア』観賞

塩田明彦監督作品の映画『カナリア』観賞。

解説
オウム真理教をめぐる事件をモチーフに、親子で身を置いていたカルト教団が崩壊したため家族も離れ離れとなってしまった少年が辿る悲痛な運命を描いた社会派ドラマ。監督は「害虫」「黄泉がえり」の塩田明彦。主演は「バーバー吉野」の石田法嗣。共演に、映画初出演の谷村美月。

あらすじ
母親に連れられ、カルト教団『ニルヴァーナ』の施設で幼い妹、朝子(味野和明日架)と共に幼年期を過ごした12歳の少年、光一(石田法嗣)。教団はその後テロ事件を引き起こして壊滅し、光一と朝子は警察によって保護され、関西の児童相談所に預けられる。やがて祖父(品川徹)は朝子の方だけ引き取っていった。一方、母親(甲田益也子)は行方不明。ある日、光一は再び親子3人で暮らせる日を夢見て児童相談所を脱走し、朝子を取り戻すため、東京にある祖父母の家を目指す。途中で光一は、同じように大人のエゴによって深い心の傷を抱えた少女、由希(谷村美月)と出会う。2人はそのまま一緒に旅を続け、反発し合いながらも次第に絆を強めていく。

参照:allcinema

物語冒頭、真っ黒の画面に白抜きの文字と少女の声で、カルト教団『ニルヴァーナ』から保護された子供たちについて語るナレーションから始まる。フィクションではあるが実在したオウム真理教がモチーフとなっているため、非常に重々しい。音楽もない。この作品ではほぼ全篇に渡り、由希が口ずさむ曲以外音楽らしい音楽はかからず、音楽での情緒に頼らず、登場人物の心理を丁寧に追った作品です。

光一は児童相談所から着の身着のままで飛び出して来た名も知らぬ土地で由希と出会う。由希は光一が教団にいたことを知っても気にせず、携帯(2004年なのでガラケー)でゲームをするような普通の少女だが、時折口ずさむ曲は流行りの物ではなく母親が好きだった「銀色の道」と言う古い曲だ。

また、教団の施設内での修行、供物、罰などは全て回想という過去の形で纏められており、テロそのものの描写はなく(※子供に対する酷い体罰シーンがあるので苦手な方は気をつけてご鑑賞を)「尊師」と言う言葉も出て来るが当該人物は登場しない。施設内では幹部以外全員白い服を纏い、マントラと呼ばれる祈りを唱え、頭には尊師の波動を感じるようにと白い包帯のような物が付けられる。修行の時間以外は比較的自由な環境ではある。そのような飴と鞭のようなやり方で教団からマインドコントロールされて行く。ここで光一たちに尊師からの供物を与えるシュローパ(西島秀俊)に出会う。光一に教団内での名前を与える役もシュローパで、光一が信頼していた一人だ。その後、テロが起こり、元信者として光一と再会するのはもう少し後のことだ。

光一と由希は仲違いすることもあるが、協力してあらゆる出会いを利用して食を賄っていた。しかし親の庇護がない子供が生きていくには、当然そんなやり方では寝食に不足が出る。万引きや不法侵入などの行動に走ることもある。そして由希はどんなに子供であっても自分の体を欲する男がいることを解っている。作品内でも度々、体を武器にしようとする由希の場面が登場する。由希がそこで何をされるか具体的に理解しているとは思えない。そんな由希を光一は咎め、救い出すのだが、その場から救っただけに過ぎない。彼らはまだほんの12歳なのだ。

やがて、僅かな金もなくなり、ボロボロになってひたすら歩くことしか出来なくなってしまう。昼間であるのに光がなく、誰もおらず、もう倒れて死んでしまうかも知れない。そんな絶望の中で幽霊のようにぼんやり歩いていると、光一の名前を呼ぶ声が聞こえる。
それは教団施設にいた頃親しくしていた大人の信者、吉岡(戸田昌宏さん)と先のシュローパだった。懐かしいシュローパの姿に思わず抱きつき、泣きじゃくる光一。由希も微笑みを浮かべる。初めて助けてもらえる大人が登場したこのシーンには心から安堵した。(しかもそれが西島秀俊なのだから)

シュローパと吉岡は教団を脱会し、同じく辞めたメンバー数人とリサイクル業を営んでおり、名前も本名の伊沢彰に戻していた。ここでは久しぶりのきちんとした食事でもてなされ、待ちきれない様子でもぞもぞしてお腹が鳴ってしまう由希がかわいい。

そんな時、伊沢の許にテロ事件を起こした張本人であり、指名手配中のジュナーナ(水橋研二さん)から連絡が来る。彼は未だ尊師に心酔している。伊沢は幼い光一と由希を何とかしてやりたいと思い、光一の母親と連絡が着くか聞くが、話は物別れに終わる。そればかりかジュナーナは、普通の人間になり落ちぶれた伊沢に会わなければ良かった、とまで言い放つ。ジュナーナとの話し合いはあの教団に一時的にでも所属し、教えを守っていた伊沢の胸に傷を残す。
やがて、光一と由希が祖父母の家へと出発する日、伊沢はジュナーナとの会話から出した答えを光一に話す。
「お前はお前だ。誰でもない。これからは自分のことは自分で全て決めるんだ。自分が自分でしかないことに決して負けるな」と、願いを込めて送り出す。

伊沢の言葉を胸に、祖父母の元へ向かう二人だが、途中入った食堂のテレビで指名手配されていた母親が数名の信者と共に死亡、とのニュースを目にしてしまう。その中にはジュナーナの姿もあった。母親と妹と三人で暮らす唯一の希望が崩れ去り、錯乱して草わらの中に倒れ込んで胎児のように泣くことしか出来ない光一。

由希は、光一が肌身離さず持っていた護衛であるドライバーを奪い、光一の祖父母の住む家を探し当て、光一の妹を取り戻すべく侵入する。祖父は突然入って来た由希の素性も訊ねず娘(=光一の母親)の昔話を訥々と語り聞かせ、今朝、光一の母親から死ぬ前に電話があった、と話す。しかし最後まで光一と朝子のことを気にかけていた母親とは裏腹に、祖父は「自分の魂を救うため、朝子と二人でやり直す。もう失敗したりはしない」と言う。
光一の母にマインドコントロールをして教団に仕向けたのはこの祖父だった。身勝手な祖父の言い分に由希は一瞬呆れ、やがて激高する。
子供は親を選べへんのや! 親は子供を選べるんか!?
由希がこの言葉を放った相手は、光一の勝手な祖父であり、過去、由希に暴力を振るった父親に対してでもある。やがて、祖父の前に姿を現した光一だが、静かに祖父を一瞥すると由希の手からドライバーを取り、床に捨てた。光一の声を聞きつけたのか、二階から姿を見せた妹、朝子を光一はしっかりと抱きとめ、由希を連れて「人間の屑」を残し、三人で家を後にする。

朝子を真ん中にして両隣に光一と由希で手を繋ぎ、三人は並んで歩く。
これからまた先の事が判らない生活になる。由希は分かっていながら光一に問う。
「これからどうするん?」
光一は言う。
「生きてく」

ここで物語は終わる。

主人公二人とも、全編に於いて素晴らしかった。
個人的に、由希を演じた谷村美月に注目した。見た目は幼く痩せっぽちで、自分のことを頭が弱い、とも言う。しかし、反抗的で尖りまくっている光一にも臆せず関西弁で捲し立て、自身が怖い想いをしても怯まない。生きて行く力と言う面に於いて、由希はとても友好的でしなやかさがある。
由希にとっては全く知らない人間である伊沢の家や職場に来ても、自ら炊事を手伝ったり、目の見えない老婆を気遣ったり、情にも厚い。その何事にも臆しない性格は光一の祖父に対しても変わらず、殺されるかも知れない場面でもそんなことすら物ともせず強い言葉で噛みつく。由希こそ、この物語内の眩い光源そのもので、光一にとってはかけがえのない存在だろう。

西島秀俊演じるシュローパこと、伊沢彰は映画が43分経ってから登場。
教団施設での回想シーンでの彼は厳しく、反抗的な態度の光一を怒鳴りつけたり罰を与えたりするが、同じ信者のジュナーナが命じた更に重い罰には難を示すなど人情味が窺える。
登場時は険しい顔つきだった伊沢だが、後半、光一と再会するシーンでは絶望の中の一縷の望みとして満を持しての登場で、こちらまで包み込まれるような安堵を感じるのが印象的だ。伊沢彰という人間は、教団内でテロが生じ、脱会せざるを得なくなった時、信じていた思想を手放さなければならなくなった。いわばアイデンティティを無理矢理崩され、教団の思想と本来の自分の思想との狭間で苦しんだのだろうと想像する。光一と別れる時、少し傷ついたような瞳を潤ませた表情で光一にかける言葉は、そんな伊沢の心情を把握した西島秀俊だからこそ、説得力のある答えとなって活きている。

最後に、少々違和感を覚えたのはエンディングテーマでした。
もちろん制作側の意図があってのことだとは思いますが、……妙に生々しく目立つ歌詞が苦手でした。最後に文句。ごめんなさい(笑)

/ 敬称略

『カナリア』ポスター
映画パンフレット


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