2016年映画『女が眠る時』感想
2016年映画『女が眠る時』(監督/ウェイン・ワン)鑑賞。
もちろん物語ではあるのだけど、断片を集めたような作品だった。
佐原は異様に描かれているが、西島さん演じる健二もかなり異様だった。ええと、類は友を呼ぶって言いますよね(笑)
小説家が書きたいと思う題材を見つけたら、時には狂気にも似た集中力を発揮することがある。けれど、ふたりの部屋を連日覗き、挙句、部屋に侵入と言う犯罪に値する行動は健二の作家としての本能なのか、佐原と美樹というカップルのストーリーに魅惑されている男のひとりとして執着しているのか判らない。
手ぶれを起こしたような画面。迫り来る波の音。健二の腕を這う細い指先。汗が粒になって流れるほどの熱気の中で、息が詰まるような緊張と脳内が麻痺するような感覚になりながら断片を辿った。解釈は色々あると思うけれど、鑑賞し終えたばかりの私個人の解釈として(多分一番多い解釈だと思います)健二は多分、佐原と美樹がインスピレーションとなり、新作を書き上げたのだと思う。ラスト、健二の新刊祝いが行われるがその本がこの物語なのだろう。佐原と美樹というふたりが存在していたとしてもしていなくても、健二と美樹がふたりだけで会っているシーンはすべて健二の脳内の出来事なのだと思っている。
ただ、もしも佐原と美樹の物語が真実だったと考えると、佐原は変態でも何でもなく純粋に美樹を愛しているのだと思う。だからこそ大切に扱う気持ちと裏腹に嫉妬も生まれる。愛に年齢は関係なく、互いに愛を感じ合っているふたりなのだと思った。だからこそ、どんなことがあっても健二はただの傍観者に過ぎない。佐原と美樹の間には入れない。だが物語の続きを紡ぐことはできる。健二は小説家なのだから。
夏の会話。
僕らが交わした物語。
しかし、
確かにそこにあったという確信は、
どこにも辿り着くことはない。
佐原と美樹というふたりに出会い、バカンスの間、如何に健二が混乱した状態だったのかはこの最後の健二自身のナレーションが物語っている。暑い夏の日が見せた幻なのだろうか。
美樹を演じた忽那汐里さん、とても良かったです。
大きな瞳と厚めの唇はどこか『愛人 / ラ・マン』(1992年仏映画)のジェーン・マーチを思わせました。肌が艶やかで美しく、ヌードはなくても、若々しく、美しい腰から足にかけての線だけで堂々と「見られる」存在を演じています。
元々、私自身が「大人の男と少女」という組み合わせが好きなので、色々と自分の癖(ヘキ)を揺さぶられる作品でした。セクシャルなシーンがたくさんある上に、最後まで答えが出ないので観る人を選ぶ作品ではありますが、私はこう言った頭がこんがらがってしまうようなアート系の作品がとても好きです。
横道に逸れる感想になりますが、混沌とした日々もバカンスの日程、と言う確かな現実で終わりを迎えます。しかし時間軸がバラバラで明確な答えの出ない物語の上、健二目線の映像なので、佐原と美樹の関係を探ろうとする姿をこちら側も健二と一緒について行く羽目になるので心臓に悪かった。
私は! この場から! 早く! 逃げたい! なぜ! 行く! と、何度も心の中で健二を咎めた(笑)そして、何か大きな事件が起きているようで、終わってみると夢のように美しい残像だけが残り、尾を引く。
更に、この映画の中での西島さん、サービスショットが多くてストーリーからは逃げたいと思いながら目は吸い付いて行く、と言う相反する経験もしました(笑)
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