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私は、私を全肯定する芸術。

地下鉄を降りる。

JRと地下鉄が入り組む都会の駅は、それだけ多くの人が利用している。いつもは人込みを離れて人の少ない方面の改札を通っているが、今日は人の流れに乗ってみる。

都会の街は、個性の主張が激しい。服装、髪型、刺青、その容姿だけで私に訴えかけてくる。

「私は私だ。唯一無二の私なのだ。」

それらの容姿に拘らず、私を含め街を歩く人は皆「私は私だ」と主張しているに違いない。私は他の誰でもなく、他の誰よりも世界を彩る存在なのだと思っている。

けれど、それは簡単に光を浴びることはない。それぞれの個性溢れる色も、私にはすべて同じ色に見える。

逆も然り。

私は、私を「1億2千万分の1ではなく、この世界になくてはならない唯一無二の私」だときっと思っている。だからこんな文章も書いている。

階段ですれ違った背筋がしゃんとした男子高校生は、私に目もくれなかった。25歳にもなって、大学生のように、スポーツジャージを纏い、黒いリュックを背負った私のことが、目に映らなかったようだ。

改札を出て、街に出る。

「S」のロゴが入ったビルが目に入る。誰もが知っているブランドのホテルだ。そのホテルの創設者がそのブランドのロゴを一番目立つ箇所に掲げたのは、私が唯一無二の存在だと表したからだろうか。

都会の街は、私は私のエネルギーで形成されている。私を見てほしい。私を知ってほしい。そんな強いエネルギーがこの街には溢れている。

けれど、その建物を誰が設計して、建設したかを私は知らない。きっと作り上げた人物のポートフォリオに辿り着けば、このホテルのことが大きく書かれているだろう。これは私が作ったのだと。

私の文章は、50人しか読んでいない。

奇抜な容姿のその人は、30人にも注目されていない。

その建物を作った人は、そのことを10人の人にも認知されていない。

そのホテルのブランドは、1000万人に知られている。

私たちの個性は芸術だ。光を浴びているかどうかの違いはあるけれど、文章なのか、容姿なのか、その媒体は無限にあるけれど、私たちは芸術を生み出している。

他者に理解が得られなくても、どんな個性的な芸術を生み出しても、私はそれを理解する。私はそれを美しいと思う。

私は、私を全肯定する芸術なのだ。


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