「即」という名のアポリア 第8回

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 これまで、四諦説や無常・ドゥッカ・無我や縁起説や無記や対機説法・応病与薬、といった初期仏教の思想をみてきましたが、そこで目指されているのは、無明や渇愛を滅ぼし、毒矢を抜いて己の生死という実存苦から解放されることです。

 それでは「自分」に刺さった毒矢を抜くためには具体的にどうすればいいのか。そういう具体的な実践について説いているのが、戒・定・慧の三学という教えです。まずというのは、パーリ語だと「シーラ」という言葉です。「シーラ」はもともとは「性質、性格、習慣、行動」などを意味したのですが、それが転じて「道徳的習慣、よい性格、道徳的徳目」を意味するようになった言葉です。もっと言えば、要は仏教徒が守るべき生活規定です。ではどのような規定があるのか。在家信徒や沙弥・沙弥尼(沙弥は男性の見習い出家者。沙弥尼は女性の見習い出家者)が守るべき戒として以下のようなものがあります。

①殺さない
②盗まない
③不倫などの道徳に反する性行為をしない ③´性行為をしない
④嘘をつかない
⑤酒を飲まない
⑥午後に食事をしない
⑦歌舞音曲を離れる
⑧化粧品などを用いない
⑨高い椅子やベッドを用いない
⑩金銀を手にしない

 ①~⑤をあわせて五戒と言います。ここまでは、在家が守るべき戒です。
その五戒のうちの③を③´にかえて⑥~⑩を加えると、十戒になります。十戒は沙弥・沙弥尼がまもるべきものです。
 また、①~⑨のうち、③を③´にかえ、さらに⑦と⑧を合体させて「化粧品などを用いず、高い椅子やベッドを用いない」ということにして八カ条にすると、八斎戒になります。この八斎戒というのは、在家の人がある特定の日(どういう日なのかは少々面倒な問題もありますのでここでは説明を省略します)に、一日だけ守るべき規定です。この日だけは在家も出家者ばりの生活をするわけです。

 そして、僧団の一員として比丘・比丘尼(比丘は男性出家者・比丘尼は女性出家者)になるためには、具足戒というのを授けられる必要があります。これは200~300ぐらいあります。

 さて、「シーラ」は「身心の調整」とも解釈されます。それは落ち着いて仏道修行をするために「身心を調整する」ということです。修行の前段階として戒を守って「身心を調整する」ことが必要になるというわけです。ここで重要なのは、戒を守る目的は、「いい人」になるためでも「社会的に尊敬されるような倫理的な人」になるためでもないということです。確かに戒を守っていれば“結果的に”「いい人」になるんじゃないかとは思いますが、それはあくまでも結果です。

 以前も言ったように、初期仏教の目的は、ドゥッカの根本原因である無明を滅ぼし、幻想や「物語」を解体して、縁起によって条件づけられて生じる現象をニュートラルに捉え如実に見る智慧を得ることです。そして世間的・社会的な意味での「いい人」「悪い人」という善悪は、時代や地域によってたやすく変化する無常な「もの」ですし、初期仏教においては超越されるべき幻想や「物語」の一つです。仏教の目的は「いい人」になることではないのです。戒を守るのは落ち着いて修行するスタートラインに立つための手段であり、目的ではないのです。初期仏教は倫理的に生きることを最終目標としてはいないのです。本屋や図書館に行くと、釈迦が世俗的な道徳や倫理であるとか、あるいは「ふわっとした癒される話」を説いた人であるかのように語る俗っぽい仏教書があふれていますが、それは誤りです。

 例えば初期経典には、一般に「七仏通戒偈」と呼ばれる有名な詩が出てきます。


すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、――これが諸の仏の教えである。 (『ダンマパダ』183 中村元訳)


 この「七仏通戒偈」は漢訳では、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」と訳されています。
 これはただ単に善悪のけじめをつけよと言っているのではなく、心の乱れをなくして修行の前提を整えよ、という話なわけです。確かに世間的にイケナイとされていることをやったり、乱れた生活をしているようでは、心は落ち着かないし修行に集中することなどできないとは言えます。そうすることで“結果的に”倫理的な「いい人」になったりもするでしょうけど、それが目的なのではなく、あくまでも修行に集中するための手段だという話です。

 やや脱線気味になりますが、誤解や混同が多いようなので言っておきたいのは、この戒は律とは異なるということです。日本語には戒律という言葉があるせいか、両者が混同されることも多いようですが、両者は原理を異にする概念です。まず、戒は修行者が自律的に課す自己規律です。そのため、戒については破っても罰則はありません。

 それに対して律(パーリ語で「ヴィナヤ」と言います)とは、出家者集団が共同生活を送るうえで守らなければならない規則のことで、出家者集団がきちんと存続していくことを目的としたものです。これを破った出家者には、僧団追放とか一定期間僧としての資格を剥奪されるとかいった制裁が加えられます。ですから律はあくまでも他律的な集団生活の規則です。

 仏教学者によれば、パーリ語には戒律という言葉の原語は存在しないそうです。そして戒律というのは中国人による造語で、漢訳仏典をひもといてみると、戒ではなく律のほうを意味する用例が多い。こういうこともあってか、国語辞典などを見ると、戒律を「僧が守るべき規律」などと定義していることもあります。

 しかし、律はあくまでも僧団を健全に上手く運営していくための規則ですから、律が大切でないわけでは決してないけれど、仏教にとって“本質的”重要性をもつのは戒のほうだと言えるでしょう。日本語の感覚で戒と律をごっちゃにしてしまうと、そのあたりがぼやけてしまうように思います。

 話を戻しましょう。戒を守って「身心を調整」し、修行のための準備が整ったら行われるべきなのがです。これは、(やや語弊があるのですが)思い切って一言で言うなら精神集中です。
 深い瞑想に入って精神を集中し、心が動揺しない状態に入り、目の前で縁起≒関係によって条件づけられることで継起している現象を如実に見ようとするわけです。

 そうやって定=精神集中を実践すると、三つ目の=智慧(もちろんこれは知識のことではありません)が獲得されて無明が滅ぼされ、人間が常識的に抱く幻想や「物語」が解体され、ついにドゥッカから解放された「涅槃」の境地が実現される、と仏教は説いているわけです。これが戒・定・慧の三学です。

 では、深い瞑想というのは具体的にどのようなものなのでしょうか。私は仏教の瞑想経験はないし、修行をしたこともありません。そもそも仏教徒じゃないし、この雑文にしても恥ずかしながら安楽椅子にもたれて書いております。

 ですので、私がここで言えそうなことはあまりないし、何を言おうとも、武道の心得のない者が武道家のモノマネをして得意になっているかのようで滑稽極まりないだろうからあれこれ言いたくはないです。ただ、それでも言えそうなことがあるとすれば、初期仏教における瞑想は、どうやら多くの人がイメージするようなものとは異なっているようだということです。ここでは、そのことに的を絞って見ていきたいと思います。

 20世紀のスリランカを代表する知識人であったワールポラ・ラーフラという人がいます。この人はスリランカで伝統的な上座部仏教の僧侶教育を受けた後、近代的仏教研究において優れた成果を残しました。彼が書き残した『ブッダが説いたこと』という本があるのですが、これは西洋で最も読まれた仏教入門書とも言われている定評ある本です。この本の中に、仏教の瞑想に関する次のような興味深い一節があります。


 ブッダの教え、ことにその瞑想法は、完全な心的健康状態、平衡、そして静謐を生み出すことを目指している。残念ながらブッダの教えの中で、仏教徒からも非仏教徒からも、瞑想ほど誤解されているものはない。「瞑想」ということばを耳にするだけで、人はすぐに日常生活の活動からの逃避だと思う。洞窟の中や僧院の一室に安置してある像のような姿勢で、社会から遠く離されたところで、なにか神秘的な考えあるいは憑依状態に没頭していることを思い浮かべる。本当の仏教の瞑想は、けっして逃避ではない。瞑想に関するブッダの教えは、あまりにも理解されることがなく、誤解された結果、時間が経つにつれて瞑想法は堕落し、一種の儀式、陳腐なテクニックになり下がってしまった。多くの人は、他の人がもっていない「第三の目」のような精神的、神秘的能力を獲得するための瞑想やヨーガに興味をもっている。少し前であるがインドで、完璧な視力をもちながら、耳で見ることができる能力を発達させるために瞑想をした尼僧がいた。こうした考えは、「精神的倒錯」に他ならない。それはいつも、能力への欲望、渇望である。
 瞑想ということばは「修養」「啓発」すなわち心的修養、心的啓発を意味する原語バーヴァナーの訳ではあるが、けっして適切ではない。仏教のバーヴァナーは、心の修養である。それは心を肉欲、憎しみ、悪意、怠惰、心配、落ち着きのなさ、疑いといった汚れや動揺から浄化し、集中力、気付き、知性、意志、エネルギー、分析力、自信、喜び、静けさといった資質を啓発し、最終的にはものごとをありのままに見、究極の真理、ニルヴァーナを実現する叡智に到達させるものである。(ワールポラ・ラーフラ『ブッダが説いたこと』今枝由郎訳より)


 瞑想は「なにか神秘的な考えあるいは憑依状態に没頭」することではないし、超能力だの「神秘的能力」だの「耳で見ることができる能力」だのを獲得することが目的でもない。
「心を修養」し、「ものごとをありのままに見」て「静謐を生み出すことを目指している」、というわけです。宇宙の根源と一体になるとか、ブラフマンと一つになるとかいった話もここにはでてきません。

ではここでいう「ものごとをありのままに見」るというのはどのようなことなのか。まずは今回も例のごとく経典を見てみましょう。


 比丘達よ。ここに一本道がある。有情達を浄化し、もろもろの憂い悲しみをのり越え、もろもろの苦しみ・悩みを終らせ、正しい道(真理)を証得し、涅槃を作証するためのものである。すなわち、それは四つの思念を発すことである。四つとはなにか。ここに、比丘たちよ。比丘は世間の貪欲による心の悩みを調伏して、[一]身体について身体を観察し、熱心に、正しく知り、思念をもって住する。[二]世間の貪欲による心の悩みを調伏して、感受について感受を観察し、熱心に、正しく知り、思念をもって住する。[三]世間の貪欲による心の悩みを調伏して、心について心を観察し、熱心に、正しく知り、思念をもって住する。[四]世間の貪欲による心の悩みを調伏して法について法を観察し、熱心に、正しく知り、思念をもって住する。
 では比丘達よ。どのようにして比丘は身体について身体を観察して住するのか。
 ここに比丘達よ。比丘は森に行き、あるいは樹のもとに行き、あるいは空屋に行き、脚を組んで坐り、身体を真直にして面前に思念を生起させて坐る。かれは思念をそなえたまま入息し、思念をそなえて出息する。あるいは長く入息しつつ『わたしは長く入息している』と知り、あるいは長く出息しつつ『わたしは長く出息している』と知る。あるいは短く入息しつつ『わたしは短く入息している』と知り、あるいは短く出息しつつ『わたしは短く出息している』と知る。『身体全体で感受しつつわたしは入息するだろう』と学ぶ。『身体全体で感受しつつわたしは出息するだろう』と学ぶ。『身体の行(なにかを作りなそうとする意志)を鎮めつつわたしは入息するだろう』と学び、『身体の行を鎮めつつわたしは出息するだろう』と学ぶ。
 さらにまた、比丘達よ。比丘は行きつつ『わたしは行く』と知る。あるいは立っていて『わたしは立っている』と知る。あるいは坐っていて『わたしは坐っている』と知る。あるいは寝ていて『わたしは寝ている』と知る。あるいはまた、かれの身体がそれぞれ置かれているその通りに、それぞれのそれを知る。
 そしてまたさらに、比丘達よ。比丘は前に進むにも、後に退くにも正しく知るものである。前を視たときも、あたりを視たときも正しく知る者である。[身を]曲げたときも、伸ばしたときも正しく知る者である。大衣・鉢・衣うぃ携えるときも正しく知る者である。食べたとき、飲んだとき、噛んで食べたとき、味わったときも正しく知る者である。大小便をするときも正しく知る者である。行き、立ち、坐り、眠り、不眠を行い、しゃべり、黙っているときも正しく知る者である。
 そしてまたさらに、比丘達よ。比丘はもろもろの法について、つまり六つの内部と外部の感知の場(十二処)について法を観察して住する。では、どのようにして、比丘達よ。比丘はもろもろの法について、すなわち六つの内部と外部の感知の場について法を観察して住するのか。
 ここに、比丘達よ。比丘は眼を知り、またもろもろの色形あるもの(色)を知る。また、およそその両方によって生ずるその結びつきを知る。また、まだ生起していない結びつきが生起すると、それをその通りに知る。また、生起している結びつきが捨てられると、それをその通りに知る。また、捨てられた結びつきが将来に生起しないときには、それをその通りに知る。
 また耳を知り、そして音を知る。[また、およそその両方によって生ずるその結びつきを知る。また、まだ生起していない結びつきが生起すると、それをその通りに知る。また、生起している結びつきが捨てられると、それをその通りに知る。また、捨てられた結びつきが将来に生起しないときには、それをその通りに知る]。
 また鼻を知り、そして臭いを知る。[また、およそその両方によって生ずるその結びつきを知る。また、まだ生起していない結びつきが生起すると、それをその通りに知る。また、生起している結びつきが捨てられると、それをその通りに知る。また、捨てられた結びつきが将来に生起しないときには、それをその通りに知る]。
 また舌を知り、そして味を知る。[また、およそその両方によって生ずるその結びつきを知る。また、まだ生起していない結びつきが生起すると、それをその通りに知る。また、生起している結びつきが捨てられると、それをその通りに知る。また、捨てられた結びつきが将来に生起しないときには、それをその通りに知る]。
 また身体を知り、そして触れられるものを知る。[また、およそその両方によって生ずるその結びつきを知る。また、まだ生起していない結びつきが生起すると、それをその通りに知る。また、生起している結びつきが捨てられると、それをその通りに知る。また、捨てられた結びつきが将来に生起しないときには、それをその通りに知る]。
 また意を知り、そしてもろもろの法)(意を向けるものごと)を知る。また、およそその両方によって生ずるその結びつきを知る。また、まだ生起していない結びつきが生起すると、それをその通りに知る。また、生起している結びつきが捨てられると、それをその通りに知る。また、捨てられた結びつきが将来に生起しないときには、それをその通りに知る。(マッジマ・ニカーヤ第10経 中村元監修『原始仏典 第四巻 中部経典Ⅰ』)


 ここで言われていることは要するに、一つ一つの行為に意識を行きわたらせ、<いま・ここ>で起きていることをきちんと観察せよ、ということでしょう。シンプルで常識的なことしか説かれていないと思う方もおられることでしょう。でも人間は、日常生活においてこのシンプルで常識的なことを全く実行してはいません。むしろ、ここで言われているような<いま・ここ>で起きていることをきちんと観察するというのは、人間の“自然な”性向に逆らう「もの」です。

 例えば、おそらくほとんどの人は会社や学校などに歩いて行くときに、自分が歩いていることに意識を行きわたらせてはいません。何か別のことをもやもやと考えながら歩き、過去の出来事を“ふっと”思い出しては喜んだり怒ったり、あるいは未来の出来事を“ふっと”思い描いてわくわくしたり不安になったりといった具合に雑念に翻弄されていたらいつの間にか目的地に着いていた、などということは誰しも経験することです。

 人間の日常とはたいていそのようなもので、自分の振る舞いについて多くの場合は無自覚です。この雑文の第3回でも述べたことですが、ちょっと落ち着いて自分の内面を観察してみると、我々の内面にふっと浮かんでくる欲望は、「自分」がそれを“浮かばせている”わけではありません。欲望はいつも、どこからともなくふっと浮かんできてり消えたりしています。

 我々はふだん自分が自分の意思で「思い」通りに振る舞っていると感じていますが、その「思い」というものは、「そう思いたい」と思ってみずから浮かばせた「思い」ではありません。仏教の言葉でいえば、それらは先行する諸条件が組み合わさり縁起することで流動的に表面化してくる心理的な現象にすぎません。人間はそうやって縁起によって生じた流動的な欲望のことを「自分」の確かな意志だと錯覚し、それに従って行為してしまう。その結果として、縁起によって生じた欲望のままに行為してしまい、欲望に追い立てられながら常に新しい刺激を求め続け、それが叶わぬと苦しむ。この一連の流れすべてがドゥッカである、と初期仏教は説くわけです。

 そしてそういう悪循環から脱出するために、一つ一つの行為に意識を行きわたらせ、<いま・ここ>で起きていることをきちんと観察せよ、というわけです。先ほど登場していただいたワールポラ・ラーフラは次のように言っています。


 身体的活動に関する心的修養の、重要で、実践的で、有益なもう一つのかたちは、公私を問わず、仕事中であるかどうかを問わず、日常生活ですること、話すことを十分に意識し注意することである。歩く、立つ、坐る、横たわる、眠る、身体を曲げる、伸ばす、周りを見る、服を着る、話す、沈黙する、食べる、飲む、トイレに行くなど、すべての行ないに対して、それをする瞬間にそれを意識することである。すなわち、今この時点で、今行なうことに集中する、ということである。これは、過去・未来を考えるべきではない、というのではない。その逆で、現在と今行なうことを関連させて、ふさわしいとき、ふさわしい場で、過去・未来のことを考えるべきである、ということである。
 一般に、人は自分が今行なうことに、あるいは現在に生きていない。人は過去あるいは未来に生きている。人は今ここで何かをしているように見えても、頭の中ではどこか別なところで、問題や心配事を思い浮かべながら生きている。普通の場合には、それは過去の記憶であり、未来への願望であり、思惑である。それゆえに、人は今行なっていることに生きていないし、それを楽しんでいない。だから人は現在、今している仕事が楽しめず、不満で、していることに全注意を集中できない。
 たとえば、よく目にすることであるが、レストランで本を読みながら食事をしている人がいる。彼は忙しいビジネスマンに見えるかもしれない。彼は二つのことを同時にしているのかもしれない。しかし実際には、彼はそのどちらもしていない。彼は無理をしており、心が乱れており、していることを楽しんでおらず、無意識的に、愚かにも人生から逃避して、この瞬間に人生を生きていない(かといって、食事中に友だちと話してはいけないというわけではない)。人生から逃避しようとしても、できるものではない。生きている以上は、町の中であれ洞窟の中であれ、人は人生に直面し、人生を生きねばならない。本当の人生は、過ぎ去った、死んだ過去の記憶でもなく、まだ生まれていない生まれていない未来の夢でもなく、この瞬間である。今の瞬間を生きる人は、本当に人生を生きており、もっとも幸せである。
 弟子たちが、一日一食のシンプルで静かな生活を送っていながら、顔色が輝いているのはどうしてかと尋ねられ、ブッダはこう答えた。
 「彼らは過去を悔やまず、未来のことを気に病まない。彼らは現在を生きている。だから彼らの顔色は輝いている。愚かな者たちは、未来のことを気に病み、過去を悔やんで、それはまるで青々とした葦が刈り取られ、陽に当たって枯れてしまうようである」
 気付きあるいは自覚といっても、「私はこれをしている」「私はあれをしている」といつも思い、意識することではない。その逆である。「私はこれをしている」と思う瞬間、あなたには自意識が生まれ、行っていることにではなく、「私は存在する」という考えに生きている。その結果、行いはだめになる。あなたは自分を完全に忘れ、今行なっていることに自分を没入しなければならない。たとえば講師に「私はこの聴衆に話している」という自意識が生まれた瞬間、講演は乱れ、思考の流れが途切れる。しかし講演に、そしてテーマに没入しているとき、講師の能力は最大限に発揮され、話もスムーズで、説明もうまく行く。芸術的、詩的、知的、精神的分野における偉大な仕事は、本人が制作に没入し、自分を完全に忘れ、自意識から解放されたときになされる。
 次には、幸せ、不幸せ、そのどちらでもないといった感覚、感情に関する心的修養がある。その一例だけを挙げるとしよう。不幸な、悲しい感覚を経験したとしよう。こうした状況では、あなたの心には雲が立ちこめ、すっきりとせず、気落ちしている。場合によっては、あなたはどうして不幸せなのかがはっきりわからない。まずは不幸せと感じたとき、そのことでさらに不幸せになったり、心配事があるとき、そのことでさらに心配したりすることがないようにすべきである。そして、どうして不幸せ、心配、悲しみという感覚、感情が生まれるのかをはっきりと観察する必要がある。それがどのようにして生起するのか、何が原因なのか、どのようにして消滅するのか、どのようにして止むのかを検討する。科学者が対象を観察するように、外側に立ち、主観的反応を交えずに状況を吟味する。ここでも、主観的に「私の感覚」「私の感情」としてではなく、客観的に「一つの感覚」「一つの感情」として眺める必要がある。そして「私」という誤った概念を棄てなければならない。感覚や感情の本質、それがどのように生起し、消滅するかがわかると、心がそれに左右されなくなり、執着がなくなり、自由になる。これはすべての感覚、感情について当てはまる。
 次には、心を検討しよう。心は、情熱的であったり、超然としていたり、あるいは憎しみ、悪意、嫉妬に打ち負かされていたり、その逆に愛情、慈しみに溢れていたり、曇っていたり、あるいは明晰であったり、実にさまざまに変化するが、そのすべてを完全に意識しなければならない。往々にして、私たちは自分の心を直視するのを恐がったり、恥ずかしがったりし、それを避けたがるということを認めなくてはならない。しかし鏡で自分の顔を見るように、勇気をもって、真剣に自分の心を直視しなければならない。
 正邪、善悪の批判、判断、区別といった問題ではない。単純に観察し、眺め、検討するだけである。あなたは裁判官ではなく、科学者である。自分の心を観察し、その本当の性質が明らかになると、あなたは情熱、感情、ストレスに対して冷静になれる。そうすると執着がなくなり、自由になり、ものごとがありのままに見えてくる。
 一例を挙げてみよう。あなたは本当に立腹しており、怒り、悪意、憎しみが煮えたぎっているとしよう。不思議にも、そして逆説的に、立腹している当人は、自分が立腹していることを本当に意識せず、それに気が付いていない。自分の心の状態に気づき、それを意識し、自分の怒りが見えると、自分が恥ずかしくなり、怒りが静まり始める。怒りの本質、その生起、消滅を吟味しなければならない。ここでも「私は怒っている」とか「私の怒り」ということを思ってはいけない。怒っている状態に気付き、意識するに留めなくてはならない。怒った心をただ客観的に観察し、吟味するだけである。これが、すべての感覚、感情、心の状態に対してとるべき態度である。 (ワールポラ・ラーフラ、前掲書)


 では、このように一つ一つの行為に意識を行きわたらせ、<いま・ここ>で起きていることをきちんと観察するとどうなるか。例えば、仏教の瞑想経験があるロバート・ライトという人の『なぜ今、仏教なのか』という本に、興味深い記述があります。


 突破口が開いたのは瞑想合宿五日めの朝だった。朝食のあと、持ちこんでいたインスタントコーヒーをちょっと飲みすぎた。私は瞑想を試みながら、カフェインをとりすぎたときの典型的な症状を自覚していた。あごにいやな張りがあり、歯ぎしりをしたい感覚に襲われた。この感覚のせいでなかなか集中できず、集中を乱されまいとしばらく闘ったが、最後には降参し、注意をあごの張りに移した。注意を移したというより、注意を広げたという感じかもしれない。呼吸に意識を向けつつ、それを背景に後退させ、うっとうしいあごの感覚を舞台の中央に立たせた感じだ。
(中略)
 カフェインのとりすぎからくるあごの感覚に少し注意を向けたあと、突然、それまでになかった視点に立って内観しているのがわかった。こんなふうに考えたのを覚えている。「さて、歯ぎしりしたい感覚はまだあるな。いつもなら不快と決めつける感覚だ。でも、それはあごのあたりにあって、私がいる場所はそこじゃない。私がいるのはそこから遠くはなれた頭のなかだ」。あごの感覚はもう私の一部ではなくなっていた。いつのまにか感覚を客観的に眺めていた、といってもいい。一瞬のあいだ、感覚の支配から完全に切りはなされていた。不快な感覚が実際には消えていないのに不快でなくなるというのは、なんとも奇妙な体験だった。
 ここに矛盾がある(矛盾については前もって忠告したと思う)。私が最初に注意を広げて、不愉快でうっとうしいあごの感覚をとりこんだとき、それは同時にその感覚への抵抗をゆるめることでもあった。ある意味で、遠ざけておこうとしていた感覚を受け入れているような、さらには抱きしめているようなものだ。ところが、その感覚にぐっと近づいた結果、感覚とのあいだにある種の隔たりが生じ、いくらか超然とかまえることができた。一部の瞑想指導者が好んで使ういい方をすれば「執着」しなくなった。これは瞑想を通じてくり返し起こりうることだ。不快な感覚を受け入れ、さらには抱きしめることで、その感覚とのあいだに最低限必要な距離をおくことができ、最後には不快さが小さくなる。

 基本的な考えは、衝動、たとえば喫煙の衝動と闘わないことだ。といっても、衝動に負けてタバコに火をともすということではない。衝動を心から追いだそうとするなということだ。(中略)落ち着いて(その状況で可能なかぎり落ち着いて)その感覚を検分する。体のどの部分にその衝動があると感じるだろうか。その衝動はどんな感触がするだろう。鋭いだろうか。鈍く重たいだろうか。調べていくうちに、その衝動はだんだん自分の一部ではないように思えてくる。(中略)感覚に十分近づいてじっくり眺めることが、感覚から最低限必要な距離をおくことになる。感覚の束縛がゆるむ。束縛が十分にゆるめば、その感覚はもう自分の一部ではなくなっている。
 衝動と闘うのは、ネズミがレバーに近づくたびに追い払うようなものだ。短期的にはうまくいく。レバーを押せなければ餌は出てこないし、しばらくすればネズミもレバーに近づくのをあきらめるかもしれない。それでも、レバーに近づくことを許されれば、いつでもレバーを押すだろう。レバーを押しても餌が出ないことをうかがわせるものは何もないからだ。
 衝動にマインドフルに対処するのは、私にいわせれば、ネズミがレバーを押しても餌が出ないようにすることだ。衝動(レバーを押すのに相当する)は完全な形であらわれることを許されるが、強化されることはない。私たちがマインドフルに検分することで衝動の力は失われ、欲求と報酬のつながりが絶たれるからだ。時がたち、衝動が何度もわきあがりながら満足を得られないことがつづくうちに、衝動は二度と起きなくなる。

 例をあげよう。私は今この文を書くことに集中しているし、この文を書くのはいい気分だ。ものごとに成功するのは好きだし、この文がコンピュータの画面に少しずつ姿をあらわしつづけるかぎり、私は何かに成功しているわけだ。でも、つぎにどんな文をつづけるか決めかねるところまできてしまうと、ちょっと落ち着かない気分になってくる。もしそれが、つぎの文をどうことばで表現するかという問題ではすまない場合、つまりつぎの文で何を言うべきか、さらには文章をこの先どの方向へ進めるべきかというもっと大きな問題にぶつかった場合、本当に落ち着かなくなる。文をあれこれいじるのは好きだが、構成の問題を考えるのは大嫌いだからだ。
 いやちょっと待て。まだ書かれていない、書けるかどうかわからない文に立ち向かって不快になるだけが道ではない。インターネットブラウザは開いたままだし、そういえば買いたいものがあった。新しいスマートフォンを買おうと思っていたのだ。……私は新しいもの好きだから、インターネットで検索することを考えると気分がよくなる。つぎにつづけるべき文を探すことを考えるより、はるかにいい気分だ。というわけで、ちょっと検索してくるとしよう。
(中略)
 仕事をしたくないという強い願望があるにもかかわらず、仕事に集中しようとかたく決意している場合、スマートフォンを検索しようという考えをとがめるのが普通の反応だろう。だめだめ、スマートフォンのことは考えるな。執筆にもどれ。しかしマインドフルなアプローチをするならこうだ。いいから、気のすむまでスマートフォンのことを考えてごらん。あなたは眼を閉じ、最新のスマートフォンについての最新の商品レビューを検索したときの気分を想像する。最新のかっこいいスマートフォンが欲しいという感覚や、インターネットでそれを検索したいという感覚をじっくり観察する。観察しているうちにやがてその感覚が力を失う。これで執筆にもどれる!
 一般にはニコチン依存と集中力のなさにそれほど共通点があるとは考えないが、実際はどちらも衝動制御の問題だ。原則としてどちらの場合も、衝動と闘わず、衝動があらわれるにまかせ、ただ注意深く観察することで衝動を弱体化できる。(ロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか』熊谷淳子訳)


 スマートフォンのたとえなどは、自分もショクバで仕事をしているときやこの雑文を書いているときに確かにこういう行動をよくしているなぁと身につまされる話であります(´・ω・`)

 それはともかくここで重要なのは、とかく仏道修行というと、我慢によって無明だの渇愛だの煩悩だのを滅ぼすというイメージを抱く人が多いようですが、実はそうではないということです。身体と精神を完全に分離して捉えて、清らかな精神によって汚れた肉体を抑え込む、みたいな話ではないです。そんなことをしても多くの人はある種の同人誌に出てくる女騎士や対魔忍みたいに即堕ちしてしまうのが通り相場でしょう(´・ω・`)

 また、ここでは宇宙の根源や真理と一体化する、といった類の後世の仏教でよく言われるような目的が掲げられているわけでもありません。神秘体験を味わうことが目的だというわけでもありません。神秘的なやべぇ体験をすることそれ自体が目的なのであれば、「瞑想なんかやってないでLSDでもやった方が早いんじゃないの」というダメな話にしかなりようがないでしょう(´・ω・`)

 戒にせよ定にせよ、この二つを土台にして慧を得ることが目的であり、やべぇ体験をすることが目的ではないのです。薬物ではやべぇ体験はできても智慧を得ることはできないわけです。
 目の前で縁起によって継起している現象を如実に見て、無常・ドゥッカ・無我を見てとり、「“私”が存在する」「これは“私”の“もの”である」「“私”は傷ついた」といった「物語」や幻想を滅ぼすことによってドゥッカから解放される、という筋道がみてとれるわけです。ともあれ最終目的はあくまでも慧です。瞑想経験がない私がこれ以上あれこれ言うのは非常に危険だと思うので、これくらいにしておきます。



 さて、長くなりましたが、ひとまずこれで「ナーガールジュナを語る上で押さえておく必要があると私が考える、初期仏教の教説」について一通り説明し終わったことになります。
 どんな仏教入門書にも載っているような、初期仏教にまつわる重要事項や用語などは他にもあります。ですが以前も申し上げたように、この雑文の目的は教科書や受験参考書のごとく重要事項を網羅的に記載することではなく、ナーガールジュナの思想をめぐる諸問題を記すことです。その目的に必要な範囲で、初期仏教で語られることの中でこれだけは押さえておく必要があると思われる重要な教説はひとまず述べ終えたと考えます。
 今まで述べてきたことをまとめると次のようになります。


 初期仏教は、人間存在をドゥッカの遍在として捉えました。人間は皆、病み、老い、いつしか死にます。人生はすべてドゥッカである、というわけです。
 そして遍在するドゥッカの原因を、存在の構造についての無知=無明のなかに見出しました。現象世界に見られるすべての存在は、(五蘊・十二処・十八界の考え方にみられるように)いくつかの要素が寄り集まって一時的につくられた「もの」です。つくられた「もの」は、縁起によって(関係によって条件づけられて)生じたのであり、その条件が失われれば消滅せざるをえない。つくられた「もの」は無常であり、変化し続けてやまない。人間は「これは机である」「これはコップである」「これは自分の所有物である」と言うが、その机もコップも所有物だとみなした「もの」も、今この瞬間も朽ち続けている。そもそも、その「自分」というのも、縁起によって生じた蜃気楼のような現象である。かように、つくられた「もの」はすべて無常でありドゥッカであるし、すべては無我である。

 人間はこの構造を知らず、「自分」は存在する、これは「自分」の所有物であるなどと信じ、執着してやまない。それゆえ、「自分」や愛する者やわが「もの」と信じる存在が消滅するとき、嘆き悲しんで苦しみにうちひしがれる。このように、存在の構造を如実に見ることを妨げているのが無明であり渇愛である。だから、ドゥッカから解放されるためには、無明・渇愛を取り去らねばならない。そこで修行によって目の前で縁起によって継起している流動的なプロセスとしての現象を如実に観察し、智慧を獲得すれば、もはや何事にも動かされることのない境地に到達する。救済はこのようにして達成される。


〇四諦説や無常やドゥッカや無我や縁起の教説は、相互に絡み合いながら初期仏教の核を構成している。

〇初期仏教が説く教えは、多くの日本人が漠然と抱いている仏教に対するイメージとだいぶ異なる(どちらがいいとか悪いかという話ではなく、ともかく異なる)。

〇全知全能の神様のような存在を立てずに話を進めるし、信徒が無条件に信じなければならない事柄も非常に少ないため、現代人にも納得できる部分や生かせそうな部分がありそうである。

 こういうことが素人なりにどうにかこうにか記せているならいいのですが、どうでしょうか。

 次回からは部派仏教にまつわる話に入っていくことにしますが、初期仏教にまつわるものすごく重要なお話がもう一つだけあります。それは、初期経典に出てくるとあるエピソードをめぐるお話です。このエピソードは、かなり成立が古いとみられている上に、初期仏教どころかその後の2500年の仏教史すべてを考える上で極めて重要で、これを抜きにして仏教という宗教を語ることはできないと言っていいくらいです。もったいぶるようですが、このエピソードについては、また後ほど詳しく述べることにします。(続く)

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