「即」という名のアポリア 第10回

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 今回はいったん仏教の話から少し離れて、より広くインド思想全般にまつわる話を少しだけしようと思います。ここで取り上げるのは、ナーガールジュナの思想を読み解く上で、押さえておくと見通しがよくなると思われるインド思想上の発想です。それは、「基体と属性」という「ものの見方」です。この「基体と属性」という「ものの見方」について説明するために、まずインドで「正統学派」とされている六派哲学と呼ばれる諸学派について簡単に述べることにします。

 紀元後のインドでは、バラモン哲学者たちの間で、哲学派を形成する動きが盛んになり、諸学派がそれぞれ理論体系を整備していくようになります。
そうやって形成されたのが、インドで「正統学派」とされ六派哲学と呼ばれている以下の六つの学派です。

①サーンキヤ学派
②ヨーガ学派
③ヴェーダーンタ学派
④ミーマーンサー学派
⑤ヴァイシューシカ学派
⑥ニヤーヤ学派

 これらの学派は、バラモン教やヒンドゥー教の聖典であるヴェーダの権威を承認し、その流れを汲んでいるがゆえに「正統」だと言われています。以前もお話ししたことですが、仏教やジャイナ教は、バラモン教の権威が揺らいでいた時代にそのアンチとして登場してきた、インドでは「非正統派」の宗教です。

 ①と②、③と④、⑤と⑥はそれぞれ密接な関係にあります。例えば①のサーンキヤ学派の思想は②のヨーガ学派の理論的基礎となり、ヨーガの実践を重視するヨーガ学派を支えました。
 ③のヴェーダーンタ学派と④のミーマーンサー学派は思想的には異なる点もありますが、ヴェーダの伝統を重んずるなどの共通点が多いです。
 ⑤のヴァイシェーシカ学派と⑥のニヤーヤ学派は姉妹学派であり、11~12世紀以降は統合されて一つの総合学派になったりします。


 ともあれ「基体と属性」の話に入るとしましょう。インドでは古来、世界の構造について考える場合、この「基体と属性」という見方を背景にした考察が行われることが多いです。

 例えば、ここに壺があるとしましょう(インド思想の文献では具体例として壺があげられることがよくあります)。壺には、色とか形とか匂いとか重さとか大きさとか感触とかいったような属性があります。この壺から色とか形とか匂いなどの属性をどんどん取り除いていくとしましょう。そうやってすべての属性を取り去ってしまったら、そこに“何か”が残るでしょうか。そもそもそんな“何か”など存在するのでしょうか。もしそんな「もの」が存在するとすれば、それは色も形もなく運動や作用もしない無色透明の「場所」のような“何か”でしょう。この無色透明の「場所」が基体です。

 この基体をめぐっては、インド思想では大きく分けて3つの立場があります。

Ⅰ 基体が実在し、基体と属性のあいだには明確な区別が存在すると考える立場
Ⅱ 基体は実在するものの、基体と属性のあいだには明確な区別がないと考える立場
Ⅲ 基体は実在せず、属性のみが実在すると考える立場

 結論から言うと、バラモン「正統派」の考え方はおおむねⅠかⅡです。壺から色とか形とか匂いとかいった属性を全部取り除いた後にも、無色透明の、それがなければ壺という現象が成立しない「場所」のような“何か”が残る。そういう「場所」がなければ、いろんな属性が集まった現象世界は成立しないだろう、というのがバラモン「正統派」の考え方です。

 Ⅰは、まず壺という基体が確固として存在し、そこに色とか形とか匂いといった属性がこれまた確固として存在して貼りついているという見方です。これに対してⅡは、「人間が壺という言葉で呼んでいる『もの』は色や形といった属性の集合であり、そういう属性を離れて無色透明の基体があるわけではない。基体と属性との間に厳然たる区別をみとめることはできない」という立場です。六派哲学の学派でいうと、おおむね①~③はⅡの立場で、④~⑥はⅠの立場だと言うことができます。

 そしてⅢは仏教的な見方です。前回有部の理論について説明した際に、有部が実在すると主張する有為法は物体ではなく、どちらかというと、「属性」や「性質」に近い概念だと言いましたが、有部の立場はまさにⅢです。


 さて、六派哲学のなかで有部やナーガールジュナの思想との関係で特に重要なのは、ニヤーヤ学派とヴァイシェーシカ学派です。今まで述べてきたように、この二つの学派は密接な関係にあり、いずれも基体と属性のあいだには明確な区別が存在すると考えるⅠの立場です。この二つの学派の立場は、ナーガールジュナの思想と完全に対極に位置しており、のちにナーガールジュナの後継者たちとくんずほぐれつの論争を繰り広げることになります。ですから、ナーガールジュナの対極に位置する彼らの考えについて知っておくと、ナーガールジュナの思想をより深く理解することができます。ここでは、ナーガールジュナと絡んでくる重要なポイントに絞って彼らの考えについて述べることにします。

 まず、この二つの学派はいずれも、世界の構造を有限個の構成要素の組み合わせによって説明しようとしました。有部がダルマの組み合わせによって世界の構造を解き明かそうとしたように、ニヤーヤ学派もヴァイシェーシカ学派も世界に存在する「もの」を区別し、分類していって構成要素を見い出し、その構成要素が組み合わさることによって世界は動いているのだと考えるわけです。ここでは、ヴァイシェーシカ学派の見解を少しだけ見てみることにします。

 まずヴァイシェーシカ学派は、実体・属性・運動・普遍・特殊・和合という6つのカテゴリーを立てています(後世のヴァイシェーシカ哲学は第七のカテゴリーとして無も認めるようになりました)。そして実体は9種類(地・水・火・風・虚空・時間・方角・アートマン・思考器官の9つです)あって属性は〇種類あって運動は△種類あって、という具合に数えあげていくわけです。

 実体について簡単に触れると、地・水・火・風の4つは、原子です。例えば、壺や土は地の原子の集合体であり、我々が普段飲んでいる水は水の原子の集合体であるとヴァイシェーシカ学派は考えるわけです。原子はそれ以上分割不可能な「もの」であり不滅ですが、壺などの原子の集合体は、構成要素である原子に分割できるという意味で無常な「もの」だとされます。

 ちなみに、有部は、壺などという「もの」は実在せず、色や形や匂いといった要素のみがあるという立場ですが、ヴァイシェーシカ学派では、壺は実在すると考えます。壺は原子からなっており無常ではあるものの、そこには壺という「全体性」が備わっているので実在すると考えるのです。壺という基体が確固として存在し、そこに色や形や匂いといった属性が貼りついていると考えるわけです。このような、基体とそこに貼りついている「もの」との関係を和合と言います。

 また、9種類の実体の中にアートマンが含まれていることからもわかるように、この学派は「自我」も確固として存在すると考えています。ついでに属性と運動についてもごく簡単に触れると、属性には色・味・香り・寒暖の感触・数・量などがあり、運動には上昇・下降・屈・伸・移動があげられています。

図1

ヴァイシェーシカ1

図2

ヴァイシェーシカ2

図3

ヴァイシェーシカ3

 さて、ヴァイシェーシカ学派が考える世界像は、積み木細工にたとえることができます。
 例えば、ここに茶色の壺があるとしましょう。これをヴァイシェーシカ学派風に理解すると、図1のようになります。図1の二つの長方形のうち、下の長方形は壺という実体を示し、上の長方形は茶色という属性を示しています。そして二つの長方形の間を結んでいる線は、茶色という属性が壺という基体の上にあることを示しています。

 さらに、この壺は原子の集合体ですから、(現代日本人には感覚的にやや理解しがたい発想かもしれませんが)原子という部分が壺という「全体性」の基体となっており、原子と壺が和合しているとヴァイシェーシカ学派では考えます。このことを図1に書き加えると、図2のようになります。

 さらに、壺という実体には茶色という属性だけではなく、重さや量などの属性もありますので、この点も書き加えると図3のようになります。

 ヴァイシェーシカ学派は、こんな具合に積み木細工のような構造を積み重ねていくことで、複雑な世界構造を説明しようとしていると言えます。ヴァイシェーシカ学派の考え方でいくと、世界は基体と属性の関係の積み重ねを軸にして示すことができるということになります。

 重要なのは、このような世界モデルでは、基体とその上に乗っかっている「もの」は厳密に区別されていなければならないということです。両者の区別が曖昧な場合には、ヴァイシェーシカ学派の世界観は成立しないからです。図3で言えば、原子と壺と色と重さと量は、厳密に区別されていなければなりません。

 では、それらを分かち区別している「もの」の正体は一体何なのかと問い詰めていくと、それは言葉です。ヴァイシェーシカ学派やニヤーヤ学派の理論には、ある“自明の前提”が存在します。それは、「存在する『もの』とは認識される『もの』であり、言葉の対象である。存在する『もの』と知識の対象と言葉の意味は同一である」という前提です。

 ここで、有部の論客であるサンガバドラは前回申し上げたように、「実体とは知られるものということである。知られるという点でそれが存在だといわれる」と言っていたことを思い出してください。また、有部の三世実有説で言うところの過去・現在・未来の三世にわたって存在し続ける有為法という「もの」の正体は、言葉を実体視した「もの」であるという話も思い出してください。有部の理論は、ヴァイシェーシカ学派やニヤーヤ学派の影響を受けながら成立したのではないかと言われることもありますが、有部の場合もヴァイシェーシカ学派やニヤーヤ学派の場合も、表面化してくるのは言葉の問題なのです。

図4

ヴァイシェーシカ4

図5

ヴァイシェーシカ5

 実は、今まで述べてきた「基体と属性」という「ものの見方」には、言葉の論理が大きく絡んできます。
 例えば、図1のように壺が基体でその上に茶色という属性が貼りついているという見方は、「この壺は茶色である」という形に文章化することができます。
 図4であれば「この紙は白い」と表現できますし、図5は「鳥が飛ぶ」と言語化することが可能です。

「この壺は茶色である」とか「この紙は白い」とか「鳥が飛ぶ」といったような我々が日常的に何気なく使用する文章は、「まず壺や紙や鳥という『もの』が確固として実在し、そこに茶色や白色という属性や飛ぶという動作が貼りついている」というヴァイシェーシカ学派的な世界観を前提にしています。つまり、基体が実在し、基体と属性(運動)のあいだには明確な区別が存在すると考えるニヤーヤ学派やヴァイシェーシカ学派のような立場は、我々が日常的に使用している言語の主語や述語に対応する「もの」が世界にはきちんとと実在するという立場でもあるのです。

 とはいえこれはニヤーヤ学派やヴァイシェーシカ学派に限った話ではありません。人間は日常的に「この壺は茶色である」「この紙は白い」「鳥が飛ぶ」といった言葉を使って特に疑問を覚えることもないわけですが、そこではやはり「まず壺や紙や鳥という『もの』が確固として実在し、そこに茶色や白色という属性や飛ぶという運動が貼りついている」という世界観を前提にしているわけです。

 ですが、そもそも基体と属性のあいだに明確な区別が可能なのか。もっと言えば、ここでいう壺とか紙とか鳥とかいった基体は本当に実在するのか。壺とか紙とか鳥とかいった言葉があるから、それに対応する基体も実在すると人間が勝手に思い込んでるだけなんじゃないか。

 人間の言葉は、「この壺は茶色である」「この紙は白い」「鳥が飛ぶ」といった具合に、「壺という基体」と「茶色という属性」を分離し、「紙という基体」と「白色という属性」を切り分け、「鳥という基体」と「飛ぶという運動」を切り離さざるをえない。つまり、何かを言おうとすると、どうしても世界を主語、述語、目的語といった具合に切り分けていかないといけない。そうすると基体と属性(運動)は明確に切り離されたあとで改めて結びつけられることになるが、そういう仕組みでできている言語が、本当に世界の姿を如実に語っていると言えるのか。

 ともあれ、有部やニヤーヤ学派やヴァイシェーシカ学派のように、実在論的な思想を唱える人たちが、大昔のインドにいたわけです。そして彼らの思惟によって表面化してくる重要な問題の一つが、言葉を巡る問題なのです。ナーガールジュナは、これら仏教内外を問わず存在していた、言葉に対応する「もの」が実在すると考える実在論的な思考を徹底的に批判することで、とてつもない世界を切り開いた人です。徐々に話が私の「推し」の坊主に近づいてはいるのですが、今回はこれくらいにします。(続く)

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