「即」という名のアポリア 第25回
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前回で『荘子』内篇についてはひと通り記したので、今回は外篇と雑篇の内容を扱ってみたいと思います。外篇・雑篇は逍遥遊篇や斉物論篇よりも成立が新しいと言われており、内篇とは異なる思想がいろいろ含まれているということはすでに述べた通りです。外篇・雑篇の具体的な中身に入る前にまず最初に指摘しておきたいのは、外篇・雑篇では、内篇には全くみられなかった「性」という言葉がよく出てくるようになるという事実です。この「性」という概念は、私がこの雑文を通じて記したいことともかなり関わってくるので、ここではいったん『荘子』から離れて、この概念の背景について述べてみたいと思います。
この「性」というのは、中国の「天」という世界観と関わりが深い概念です。元々「天」というのは、「頭上に広がる大空」を意味する語ですが、「天帝や上帝と呼ばれる、空の上にいる神」をも意味する言葉でした。古い時代の中国では、「天」は人格神だったのです。中国最古の詩集である『詩経』や、中国最古の歴史書である『書経』には、そのような人格をもった天が描かれています。ところが時代が下ると、この天から次第に人格神としての性格が薄れ、非人格的な「もの」になっていきます。これは、今から約2500年前に孔子が登場した頃にはすでにみられる傾向です。例えば『論語』には、「天何ぞ言わんや、四時行り、百物生ず、天何ぞ言わんや」という孔子の言葉が記されています。天は人間のように言葉で何かを命令したりすることはない。四季がめぐり、万物が生じるそのなかにこそ天はある、ということです。つまり、天というのは四季の循環や万物の生成のなかにある法則
それ自体のことだということになります。人格的な存在ではなく、理法とか真理とでも言うべき「もの」だということになるのでしょう。
非人格的な理法としての「天」という発想は、その後の中国思想史を通じて様々な展開をみせることになります。例えば、朱子学(12世紀の宋の時代に新たに登場した儒学です)は、天とは「理」であると主張しました。この「理」というのは、この世のすべてを貫いている根本的な真理のことであり、すべてを貫く理法のことです。朱子学は、この世のすべてを貫いている理という「宇宙の法則」によって、この世のあらゆる物事の本質を説明しようとしたのです。そのため、朱子学は理学と呼ばれることもあります。後世の朱子学においても、「天」は天道や天理と呼ばれる非人格的な法則・理法だとされているわけです。
わかりにくいでしょうか。どうもイメージが湧かないという方は、第22回で『老子』の「道」について説明した際にも申し上げましたが、『涼宮ハルヒの憂鬱』に出てくる統合情報思念体とか、『魔法少女まどか☆マギカ』に
出てくるアルティメットまどかの円環の理なんかをイメージしてください。「天」だの「理」だのといったコトバが出てきたら、どうしてもよくわからなければ大ざっぱに統合情報思念体や円環の理をイメージしておけば、(厳密なことを言ったらまずいのかもしれないけど)大過はないのではないかと思います。円環の理という法則が全宇宙を貫いているがゆえに、この世のすべての魔法少女は絶望することなく円環の理という法則に導かれて救済され、円環の理の一部となって他の魔法少女を救済する「はたらき」をするようになるというアレです。天も理も、そういう全宇宙を貫く法則・理法であるという点では、円環の理と同じです。
もうお気づきの方も多いかもしれませんが、天や理という概念は、『老子』が万物の根源にあると言っている道に近いところがあります。第22回でみたように『老子』は、この世界の根源にある道と呼ばれる理法の「はたらき」によって、猫や狗や草や木といった万物すべてが生み出されるという思想を語っていました。ここでは、猫も狗も草も木も、すべて道から生まれて道から流出したという点で、道という「宇宙の法則」によって貫かれているわけです。
ただし、天と理と道という3つの概念は相通じる面はあるけれども、中国思想史全体を通じて「天=理=道」などと考えられてきたとまでは言えません。例えば、道という言葉は学派を問わず「人が行うべきこと」「正しい生き方」「従うべき規範」ぐらいの意味で用いられていることが多く、道という言葉を「この世を貫く根源的な真理」という意味あいで用いるのは主に道家系統の文献だったりもします。学派や思想家によって言うことも違うので、単純に「天=理=道」などと定式化できない部分はあります(ちなみに、先ほど紹介した『論語』の「天何ぞ言わんや、四時行り、百物生ず、天何ぞ言わんや」という言葉にしても、ここでは天は四季の移り変わりや万物の生成などの法則として意識されてはいても、後世の『老子』が言う道のような宇宙の根源にある本体のごとき「もの」とまではまだ考えられていないかもしれません)。
そういう微妙な問題はあるのですが、ともあれ以上のように「天」という概念を踏まえたうえで、「性」という概念をみてみましょう。この「性」というのはざっくり言えば、「人間の本性」「人間の本来的な性質」のことです。学校で世界史とか倫理とか漢文の時間なんかに、孟子は性善説を唱えたのに対し、荀子は性悪説を唱えた(孟子も荀子も、孔子の思想を受け継いだ儒家の思想家です)などと覚えさせられたりしますが、その「性」です。
さて、それでは「天」と「性」はどのような関係にあるのか。例えば、儒家の経典である『礼記』という書物には、「天命これを性という。性にしたがう、これを道という。道を修むる、これを教えという」とあります。天が人間に与えた「もの」を天性といい、この天性に従うことを道と呼ぶ。そして道を我が身に体得するための具体的な方法を示したのが教えである、というわけです。先ほど述べたように、天というのは四季の移り変わりや万物の生成といった現象のなかにある真理であり理法です。天が万物に関わる真理であり理法である以上、それは万物を貫き、万物に宿っているということになります。目の前にある草や木や狗や猫といった万物すべてに、天という法則が宿っている。人間ももちろん万物の一つですから、人間のなかにも天が宿っていることになります。そして、この人間のなかに宿っている天こそが、「性」なのです。要するに、中国思想の文脈では、性というのは人間に宿った内なる天なのです。
これは、「天」と「人」は断絶しているのではなく、連続性があるという発想です。この世界を貫く真理や理法は、我々のいる世界から遠く離れたところにあるのではなく、目の前の現象世界に即してある。目の前の現実を離れたところに真実の世界があるのではなく、真理は目の前の世界すべてを貫いており、いまここで顕現している。そういう世界観なのです。以前述べたことの繰り返しになるようですが、これは中国思想史全体を貫いている思想だといっても過言ではありません。西洋の場合例えばプラトンのイデア論では、目の前の現象とその背後に隠れた本質や本体=イデアは別物であり、両者が溶け合うということはありません。キリスト教でも、神と人間は完全に隔絶していて、神と人が合一するとか融合するなどと言うと異端扱いされたりします。そのような西洋思想でよく見られる断絶の発想とは対照的です。
中国思想に全般的にみられる特徴として、目の前の人間や草木や狗や猫が織りなす現象世界と、「天道」とか「天理」といった言葉で呼ばれる真理の世界との距離が限りなく近いということがありますが、その距離感をどのように捉えてどのように語るかということが、中国思想史の一貫した課題であったとさえ言えます。そしてこのような中国的な思惟の傾向は、中国仏教にも大きな影響を与えていくことになります。ちなみに、『荘子』外篇の知北遊篇には、中国思想でみられる以上のような思惟の傾向が非常によくあらわれている、次のような面白い一節があります。
猫やイケメンや絶世の美女は好きだけど、ハエやゴキちゃんや大便小便は嫌いだ、などというのは人間が恣意的にでっちあげた「分別」にすぎない。そのような「有為」の「分別」を離れれば、Aは善でBは悪だとか、Cは好ましいがDは厭わしいなどという「分別」は解体され、猫もイケメンも絶世の美女もハエもゴキちゃんも大便小便もAもBもCもDもみな平等に「余すことなく包む」ことができる。猫やイケメンや絶世の美女やハエやゴキちゃんや大便小便といった万物すべてが“即”「道」であり、この世には宇宙を貫く理法・真理に貫かれていない「もの」など何一つとしてない。そういうわけです。
以上のような中国思想史の文脈を考えれば、孟子が唱えた性善説のような発想が生まれるのは何ら不思議なことではないと言えます。天というこの世を貫く普遍的な法則が人間に宿ったのが性だというのであれば、性は当然善いモノだということになるからです。「では荀子みたいに性悪説を唱えた人はどうなんだ」と思った方もおられるかもしれません。このあたりの問題について考えるために少しだけ歴史をたどってみましょう。
儒家の始祖である孔子の言葉を記した『論語』に、「性」という言葉が出てくるのは二箇所だけです。まず、孔子の弟子の子貢が「夫子の性と天道とを言うは、得て聞くべからず」と言っている箇所があります。もしこの言葉に従うのであれば、孔子は「性」についてはめったに語らなかったということになります。また別の箇所では、孔子が「性相近し、習い相遠し」と語っています。これは、「人間の性は誰でも生まれつき似ているが、習慣によって遠い隔たりが生まれる」という意味です。『論語』に「性」という言葉が出てくるのはこの二箇所だけであり、孔子は人間の本性や本来性について論じることに関心を持たなかったようです。性善説を唱えた孟子は孔子のおよそ百年後の人ですし、性悪説を唱えた荀子はさらに後世の人ですから、儒家の間で「性」についてあれこれと論じられるようになるのは孔子の後の時代になってからです。
孟子と荀子の立場は全く逆にみえますが、どちらも先ほど紹介した孔子の「性相近し、習い相遠し」という言葉を受け継いで発展させたものだと言えます。この言葉に対して、前半の「性相近し(人間の性は誰でも生まれつき似かよっている)」に重心を置いた解釈を施して思想的に発展させたのが孟子の性善説です。逆に、後半の「習い相遠し(習慣によって遠い隔たりが生まれる)」に軸足を置いた解釈を行なうことによって発展させたのが荀子の性悪説です。
この点についてもう少し辿ると、『論語』には「これを道びくに政を以てし、これを斉うるに刑を以てすれば、民免れて恥ずること無し。これを道びくに徳を以てし、これを斉うるに礼を以てすれば、恥ありて且つ格し(格る)」という孔子の言葉があります。権力の政治で民を指導し、刑罰で統制すると、民は法の網をすりぬけて恥ずかしいとも思わないが、道徳で指導し、「礼」で統制するなら、民は羞恥心を持って正しくなる(善に至る)ということです。民を徳(道徳)によって治める政治を理想とするこのような思想は、徳治主義と呼ばれています。(これに対して、儒家の徳治主義を痛烈に批判し、法が道徳に優越することを主張し、法によって政治を治めるべきだと主張したのが、後世の法家という学派です)。ちなみに、「これを道びくに徳を以てし、これを斉うるに礼を以てす」という箇所の「礼」というのは、以前も少し触れましたが、人間の社会的な行動として定着している「しきたり」や「習俗」を意味する言葉です。最も広い意味では、文化全体を指すこともあります。
ともあれ『論語』は法ではなく、徳や礼によって世の中を治めるべきだという思想を説いているわけです。しかし、徳や礼は法と比べると強制力という点で弱いと言わざるをえません。法であれば、刑罰をセットで定めることで人々に法を守るよう強制することができますが、道徳や慣習や習俗だけではやはり厳しいものがあるでしょう。『孟子』が性善説を主張するのは、『孟子』が『論語』の徳治主義を継承しており、強制力の面で弱い徳治主義を成り立たせるためには、人間の本性は善であるということにしておかざるをえなかったという事情もあるということが言えます。
孟子に対して荀子は性悪説を唱えましたが、荀子の天に対する見方は、伝統的なそれとは大きく異なっています。というのも、先ほど述べたように中国思想史では天と人は断絶しているのではなく、連続性があるという発想が根強いのですが、荀子は天と人を切り離して、明確に区別しようとするのです。
これまでに何度か紹介したように、『老子』には「道、之を生じ、徳、之を畜う(道が万物を生みだし、徳がそれらを養いそだてる)」という言葉がありました。また、『易』繋辞伝には、「形而上なる者これを道と謂い、形而下なる者これを器と謂う」という言葉がありました。『荀子』も、そのような伝統的な見方に従って、「天が万物を生み出す」ということはみとめています。しかし、天のはたらきはそこまでなのです。天は、そうやって生まれた万物に秩序を与え、世を治めることはできない。それは人間の手、すなわち「人為」によらなければできないことなのです。天と人を切り離す『荀子』のこのような思考は、性悪説と密接に結びついています。『荀子』は「礼」の起源について次のように言っています。
『孟子』では、人間に“本来的に”そなわっている辞譲(目上の人にゆずることです)という感情を“そのまま”育ててゆけば礼になると説かれています。これは、礼は人間に“本来的に”そなわっている性から生まれるという考え方です。ところが『荀子』はこれを否定して、王様の「人為」によって生まれるのだと言うのです。生まれつきの欲望をそのまま放っておいたら、人々は争いあって「社会は破局に陥る」。だからそこに礼という「人為」を加えるのだというわけです。
このようにみてくると、『荀子』の説く礼は、法に近い性格を帯びていることがわかります。もちろん、先ほど申しあげたように『論語』には「これを道びくに政を以てし、これを斉うるに刑を以てすれば、民免れて恥ずること無し。これを道びくに徳を以てし、これを斉うるに礼を以てすれば、恥ありて且つ格し(格る)」という、法による統治を激しく攻撃した孔子の言葉があります。荀子も儒家である以上、この枠からは逸脱してはいません。荀子が主張したのはあくまでも礼治主義であり、礼という「人為」の重視です。
ですが荀子は、思想史的にはあと一歩踏み出せば法家になってしまうというぎりぎりのところに立っていた人でもあります。実際、司馬遷の『史記』という書物には、李斯と韓非子(二人とも法家を代表する人物です)は元々は荀子の門下で学んだ人間だったという、実に象徴的なエピソードが記されていたりします。
ともあれ『荀子』には、いろんな点で儒家としては「異端的な」要素が多くみられます。人間は天に従うべきものだという思考は、『論語』にもはっきりとあらわれている(『論語』には「ただ天のみ大なりとなす」という言葉があります)ものです。しかし『荀子』では、天と人を切り離して「人為」に高い地位を与えられているのです。また『荀子』は、「人為」を離れ「はからい」を手放して道や天に「あるがまま」に随順していく道家の思想とは全く逆の立場の書物でもあります。『荀子』は、いろんな面で道家と正反対の発想がみられる書物です。
ちなみに『荀子』には、「荘子は天に蔽われて人を知らず」と言って荘子を批判している箇所があります。天に「あるがまま」に随順し、現象世界のすべてを万物斉同であると言う荘子は、「人為」が織りなす人の世を明らかにすることはできないと言うのです。
『荀子』には、「天を大なりとして之を思うは、物として畜いて之を制すると孰与ぞ、天に従いて之を頌むるは、天命を制して之を用うると孰与ぞ」という言葉すらあります。天を偉大なものとして思慕するのと、天を物として手なずけて「人為」に従わせるのとでは、いずれが優れた態度であろうか。天に服従して天をほめるのと、天を(「人為」によって)制御して利用するのとではどちらが優れた態度であろうか。そんなことを言ってのけているのです。天と人を切り離して捉え、天を自然物として「人為」によって人に従わせて利用せよと言うかのような荀子の思想は、中国思想としては異質なものですし、本当にこの人は2000年以上前の人なんだろうかとすら思えるほどです。ちなみに、天と人を切り離して捉え、「人為」を重視する荀子の思想は、江戸時代の日本に出現した荻生徂徠という人にも影響を与えているのですが、このあたりの問題はこの雑文の問題とは直接的には絡んでこないうえに、話し始めると脱線がものすごく長くなってしまうので、荀子についてはこのくらいにしておきます。
さて、前フリが長くなりましたが話を『荘子』に戻しましょう。ここまでくれば『荘子』外篇・雑篇に出てくる「性」について述べることができます。孟子の性善説や荀子の性悪説は、いずれも儒教の道徳による政治が可能かどうかをめぐって生まれた説ですから、その議論は人間の本性の善悪という道徳論のレベルに限定されたものでした。『荘子』外篇・雑篇では、そのような道徳論のレベルを超えて、もっと広く人間の本性について語ろうとしています。
外篇・雑篇には「その初めに帰る」「その性情に反り、その初めに復る」「その性に反る」「反りてなんじの天にしたがえ」といったような表現がよく出てきます。人間の「あるがまま」の本来的な性質=「性」は、最初から完全な形で人間に備わっている。だが、「有為」はその本来的な性質が発露するのを妨げている。よって、“余計なこと”をするのをやめて「有為」を取り払い、「復性」「反性」(本来的な「性」へと復帰すること)して「あるがまま」の姿へと帰ればよい。そういう話になります。このような発想は、後世においては中国での仏教の受容にも大きな影響を及ぼし、さらに(元々道家と対立する学派であった)儒家にも影響を与えることになります。例えば、唐の時代の儒学者で、宋学(宋の時代に出てきた新しい儒学です。この宋学を朱子という人が集大成したのが朱子学です)の先駆者と言われている李翺には『復性書』という著書がありますし、李翺の思想の影響を受けた宋学でも、「復性」とか「復初」という語がよく用いられます。
人間に「天」というすべてを貫く理法が宿ったのが「性」であり、その本来的な「性」に復帰するのだという話になると、「天」から与えられ「性」を受け止め、そこに“ただ”満足すればうまくいくのだという思想が出てきます。例えば、外篇のしょっぱなにある駢拇篇には次のようにあります。
鴨の足が短いのも鶴の足が長いのも天から分け与えられた性であり、万物はそのようにして分を得ているのだから、そこに「有為」によって“余計なこと”をつけ加えようとしたり、無理矢理それを変えようとしたりする必要はないというわけです。そして、そのような「性」を失わせる「もの」が、きらびやかな五色(青・黄・赤・白・黒の五種類の色)・五声(五つの音階)や六律(中国の伝統音楽で用いられる十二律のうちの六律)が織りなす音楽・財貨・仁義礼楽の道徳などの、己の外側にある「もの」だと言うのです(外篇・雑篇では、人間の本来的な「性」を失わせるものとして、このほかにも名誉や学問などがあげられることも多いです)。
ちなみに、ここでは仁義を身につけたり仁義を他人に強要したりすることも、欲望のままに「富貴を貪」ることも、両方ともよくないことだとされています。以前も申し上げたように、『老子』や『荘子』の言う「あるがまま」というのは、好き放題欲望のままにふるまうということではないし、「今のあなたのままでいいんだよ」的な“ふわっとした話”でもないからです。『老子』や『荘子』は、人間を人為的に秩序づけられた文化的な世界だけで孤立している存在だとは考えず、物質世界や動植物や天地などの万物すべてを含めた宇宙全体のなかで人間を捉えるため、そのような広大な世界から見ると、ちっぽけな人間の欲望だとか、人間のさかしらで分析的な「知」なんぞは小便や大便や乾屎橛(乾いた棒状の糞)と斉同だという話になるから、そこには欲望は出てこないわけです。
ところで、ここに出てくる五色や五声に心を乱されて云々という話と密接に関連する箇所が『老子』にあります。第22回でも紹介しましたが、『老子』第12章にはこうあります。
『荘子』にみられる「性」の思想と『老子』の思想はいずれも、仁義忠孝の道徳や名声や富や「知」や五色・五声といった感覚的欲望の対象などといった己の外側にある「もの」を、人間の“本来性”を発揮することを妨げる「もの」だとみなしているわけです。これら外界にある「もの」を遠ざけることによって、人間の本来性を保つことが可能になるというわけです。このような思想は、斉物論篇などにみられる万物斉同の思想とはズレがあります。斉物論篇の「天地は我と並び生じて、万物は我と一たり」とか、徳充符篇の「日夜郤無からしめて、物と春を為す。是れ接して時を心に生ずる者なり(日夜間断なく物と接しながら、いっさいの物を春のような暖かい心で包むべきでありましょう。これこそ、あらゆる物に接しながら、心のうちになごやかな春の時をもたらすものであります)」といった言葉とは距離があります。万物斉同の立場では、己の「内側/外側」などというのは相対的な「分別」にすぎません。そうした差別や区別をすべて離れた無極の風光が万物斉同です。
しかし、己の内なる性が“本来的”な「もの」だと言ってしまうと、その瞬間に、どこかに“本来的”でない「もの」もあるという話になってしまいます。今まで何度も述べてきたように、机という概念が「机でないもの」を前提にしないと成立しないように、“本来性”というのも、「“本来的”でないもの」をどこかに前提にしないと成立しない概念だからです。かくして、己の内側にある本来的な「もの」と、己の外側にある非本来的な「もの」とが切り離され、万物斉同の立場ではなくなってしまいかねません。このように、主に斉物論篇で述べられている万物斉同の思想と、外篇・雑篇によくみられる己の内なる性を重んじる思想にはズレがあります。むしろ、このような性の思想は『老子』の思想に近いと言えます。
実際、外篇・雑篇には『老子』と共通するフレーズやそっくりなフレーズがしばしばみられます(どちらが先でどちらが「コピペ」したのかはよくわかりませんが。念のために申しあげておくと、この「コピペ」という言葉に否定的な含みは全くありません)。また例えば、外篇の馬蹄篇には次のようにあります。
「大国を治むるは、小鮮を烹るが若し」と言って自由放任の政治を説く『老子』と同じような思想です。外篇・雑篇には、内篇では希薄だった政治に対する関心がかなり強まっています。政治に対する関心が強いのも『老子』との共通点です。
さて、人間の「性」をどう見るかという問題をめぐっては、外篇・雑篇には以上のような見方とはやや異なる思想もみられます。そのうちの一つに、人間の本性を生命のうちに求めようとする方向性があります。「生」と「性」という字は、日本語で言うとそれぞれ「うまれる」と「うまれつき」にあたります(日本語でも「生まれついての性(さが)だ」なんて言ったりします)。ですから「生」と「性」は非常に近い関係にあります。この二字は混用されることが多く、古くは「性命」と書かれていたけど、後世になると多くの場合「生命」と書かれるようになった、なんて話もあります。
このような背景もあって、人間の本来的な「性」を守るべきだという主張は、生命を大切に守るべきだという主張と結びつきうるわけです。例えば、外篇の在宥篇にはこうあります。
ちなみに、『老子』第21章にも「窈たり冥たり、其の中に精有り」とあります(どちらが先に書かれたのかはよくわかりませんが)。それはともかくここで述べられているのは、五色・五声といった感覚的欲望の対象をはじめとする己の外側にある「もの」を求めずに己の内なる「性」に復帰するという、これまでみてきた思想と近い考え方です。しかしここでは、そうすることで長生きができると言っているところに特色があります。
このような考え方の背後には、「養生説」という思想があります。これは、病気になったり事故に遭ったりして早死にすることなく、天寿をまっとうし長生きして「生」を「養」うことを目指す思想です。この「養生説」は、戦国時代後期以降に学派を問わずいろんな人が取り入れたり唱えたりするようになった思想です。特に道家が中国思想史上初めて提唱したというわけでもないし、道家に固有の思想だというわけでもありません。
ちょっとだけ『荘子』を離れて、この養生説がどのようなものかを簡単にみておくと、導引とか胎息とか辟穀といった術によって生命を増進させ長生きしようとするといったことが行われていたようです。まず導引というのは、一種の柔軟体操のようなものです。『後漢書』方術伝によれば、これには虎戯・鹿戯・熊戯・猿戯・鳥戯という5つの型があったそうで、後漢時代の医者である華佗の弟子にあたる呉普という人がこれを実行していたところ、90歳になっても丈夫な体を保つことができた、なんてことが書いてあります(本当かどうかは知りません)。この導引については『荘子』でも言及されており、紀元前にすでに行われていたようです。この点についてはのちほど述べます。
次に胎息。これは先ほどの華佗によれば、鼻や口で呼吸せずに、母の胎内にいるときのような状態になることだそうです。この状態に達するためには、吐く息を吸う息よりも少なくするよう練習する必要があるとのことです。エネルギーを節約して長生きするという感じでしょうか?
また、辟穀というのは、穀物を食べないということです。前漢時代の司馬遷が編纂した『史記』によれば、前漢の初代皇帝となった劉邦に仕えた張良という人は、もともと病弱だったこともあって導引や辟穀を行なったそうです。ということは、導引も辟穀もこの時代にはすでに行われていたことになります。
さて、それではこのような養生説・養生術に対して『荘子』がどのような態度を示しているかというと、外篇の刻意篇には次のようにあります。
ここに出てくる彭祖というのは、中国古代の伝説上の仙人で、700年以上生きたなどと言われています。それはともかく、意外だと思う方もおられるかもしれませんが、ここで『荘子』は導引を嘲笑するような態度をみせています。なぜなら、養生術によって寿命を意図的に引き延ばして長生きしようとすることは、まさに『荘子』が斥ける「有為」であり“余計なこと”に
ほかならないからです。そうではなくて、先ほど引用した在宥篇にもあったように、外界の事物を遠ざけ、与えられた「性」のままに生きることで結果的に「身体を長く生かすことができ」るというのが外篇の説く養生です。寿命を意図的に引き延ばして長生きしようという思想ではないのです。この点は『老子』も同様です。例えば、『老子』第7章・第55章・第75章には次のようにあります。
このように『荘子』外篇も『老子』も、寿命をことさらな「有為」によって引き延ばそうとすることに否定的です。また、『荘子』斉物論篇の万物斉同の思想も、寿命を引き延ばそうとする養生説とは言うまでもなく異なる思想です。万物斉同の思想では、生も死も人間の恣意的な「分別」であり、生も死もなくすべて同じことだということになりますから、話が全く違います。いずれにせよ、『老子』も『荘子』も養生それ自体を否定してはいないけれど、寿命を意図的に引き延ばそうとするような種類の養生説ではないわけです。
『老子』や『荘子』から脱線すると、養生説に含まれている導引・胎息・辟穀といった技術は、戦国時代の末頃に出てくる神仙説のなかに取り込まれていくことになります。神仙説というのは、不老不死の仙人になることを求める信仰のことです。秦の始皇帝や前漢の武帝などの皇帝には不死の薬を求めたというエピソードがありますが、それらも神仙説への共鳴を背景にしたものです。この神仙説は、やがて老子をその開祖として信奉するようになっていきます。紀元後一世紀の後漢時代の王充という人が書いた『論衡』という書物には既に、当時の神仙説が老子を開祖としていたという記述があります。『老子』も『荘子』も不老不死を求める思想ではないのですが、神仙説の側が老子を仙人化・神仙化して取り込んでいったわけです。
この神仙説は、後世になると道教のなかに取り込まれていくことになります(道家ではなく道教です)。道教というのは、ざっくり言えば中国の民間信仰を体系化した宗教です。道教は神仙術や陰陽五行説や讖緯思想やいろんな呪術など多様な要素を含んでいますし、(インドから中央アジアを経由して入ってきた)仏教の教理を取り込んでつくりかえることで経典や儀礼を生み出したりもしました。時代の推移とともにそういった様々な要素を取り込んでいったため、多層的で複雑なところがあります。学校の世界史の時間に、後漢末期に張角が太平道という教団を起こして黄巾の乱を起こし、張陵が五斗米道という教団を起こしたと覚えさせられたりしますが、これらが最初の道教教団だと言われています。太平道はすぐに姿を消しましたが、五斗米道はその後も長く存続し、実質的に道教の基礎を築いていくことになります。魚豢という人の手になる『典略』という書によれば、この五斗米道も『老子』を一般の信者に習わせていたとのことです。
この道教に理論的基礎を与えたとされるのが、晋の時代の葛洪という人が書いた『抱朴子』という書です。『抱朴子』は老子について次のように述べています。
ここではもはや、老子は完全に神様と化しています。道教は、老子を含めた多くの人格神を信仰する宗教ですから、『老子』や『荘子』などの道家とは思想的にだいぶ違います。ですが、道教の側が老子を味方として引っ張り込んでいったわけです。
また、『抱朴子』は、神仙は実在するし、人は学ぶことで神仙になることができると言っています。葛洪は神仙になるために実行すべきこととしていろんなことをあげている(例えば、先ほどの導引なんかも出てきます)のですが、なかでも葛洪が最も重視したのが金丹を飲むことです。金丹というのは、還丹と金液のことです。還丹というのは、丹砂(硫化水銀からなる鉱物)を熱して作った薬で、金液は金を液状にしたもの。これらの丹薬を飲むことで永遠の生命を得られるというのです。唐の時代にはこうした丹薬を飲んだ皇帝が命を落とすなんてことも起こっています。
ちなみに葛洪は、老子を高く評価する一方で、荘子については次のように、めちゃくちゃdisっています。
主に『荘子』内篇にみられるような万物斉同の思想は、「有為」によって長生きを目指す養生説・神仙説や、それを取り込んだ道教の思想と異なっています。道教に理論的基礎を与えたとされる葛洪にしても、そう認識していたわけです。
脱線が少々長くなりました。なぜ養生説がどうの、神仙説がどうの、道教がどうのと脱線したかというと、道家と道教は同じだと誤解している人がどうも多いようなので、そうではないということを示しておきたかったからです。「道家」と「道教」で字面が似ているということもあってか、両者を混同する人は多いようで、どちらも仙人になって不老不死を目指す教えだというイメージを漠然と抱いている人も多いようなのですが、違うのです。
実際のところ、例えば南北朝時代の斉の明僧紹という人が書いた『正二教論』という書には、道家は長生きと若死にを同一とみることは説いているが、死をなくすことは説いておらず、長生不死を説く道教は老荘本来の精神と異なると述べられています。また、『資治通鑑』(戦国時代の始めから五代の終わりまでを描く歴史書。これも世界史の時間に覚えさせられたりしますね)を編纂した北宋の司馬光も、老荘は生と死を同じくして生命への執着を離れるのに対して、神仙は不死を求めるものであり、両者は正反対であると言っています。
ただ、公平を期して言っておくと、『老子』にも『荘子』にも、養生説や神仙説に結びつけようと思えば結びつけられるフレーズが散見されるのは確かです。『老子』の場合だと、先ほどみた『老子』第7章の「天地の能く長く且つ久しき所以の者は、其の自ら生ぜざるを以てなり。故に能く長生す(天地が永遠悠久でありうるわけは、自分からその生命をのばそうとしないからである。だから、長生でありうるのだ)」というのもそうですが、ほかにも「止まるを知らば殆うからず、以て長久なる可し(止まることを知っていれば危険を免れられ、いつまでも長らえられる)」(第44章)とか、「国の母を有たば、以て長久なる可し。是れを根を深くし柢を固くし、長生久視の道と謂う(国を治める根本の道を保っていくならば、いつまでも長らえる。このことを、深くしっかりと根をおろし、久しく生きながらえる道というのだ)」(第59章)とあります。『老子』では、長生きそれ自体は否定されずにプラスイメージで語られているし、養生それ自体を否定しているわけではありません。こういうところに、神仙説が『老子』の取り込みをはかった理由があると言えるでしょう。しかし、繰り返しになるようですが、その『老子』も「有為」によって寿命をことさらに引き延ばすことをよしとはしていないという点を見落とすわけにはいきません。
『荘子』についても例えば、
このように、確かに『荘子』にも神仙説っぽい気分を漂わせている箇所はみられます。しかし、だからといってこういったテキストを書いた人たちが養生術や神仙術を実行していたかというと、それは別の問題です。もしこれらの作者が養生術や神仙術を好んだり実行したりしていたとしたら、『荘子』はそこそこ分量がある書物ですし、養生術や神仙術について詳しく語っている箇所があるはずです。ところがそのような箇所はないどころか、逆に先ほどみたように、導引や胎息を嘲笑する言葉が出てきたりする。確かに、在宥篇や天地篇などの外篇にみられるこれらの言葉をみてると、「後期道家」のなかには、長生きそれ自体を目標にするようになった人たちもいた“可能性”はあるかもしれませんが、それは文献的に証明できることではないし、何とも言えません。「藐姑射の山の神人」などの表現も、『荘子』を書いた人たちの理想が、当時の世間で信じられていた仙人と雰囲気的に通じるところがあるから、それに託して理想を象徴的に語っただけかもしれません。少なくとも、『荘子』の思想は何百年も生きる文字通りの仙人を目指す思想ではないことは、これまでみてきたとおりです。
ともあれ、道家思想が直接的に発展して道教になったとは言えないし、同じようなもんだというわけでもありません。「『老子』や『荘子』などの道教の思想」といった言い回しをする人を時々見かけますが、正確ではありません。正しくは、道教ではなく道家です。
道家と道教は同じではないという話が長くなりました。『荘子』外篇・雑篇の性の話に戻りましょう。人間の内なる性をどうみるかという問題をめぐっては、雑篇には、人間の欲望に“本来性”を見い出そうとする方向性もあらわれました。雑篇の盗跖篇にはそういう思想がみられます。盗跖というのは、中国の古い文献に登場する伝説の大盗賊です。盗跖篇には、孔子が盗跖にお説教をしようとしたら、逆に盗跖に言い負かされてしまったというお話が出てきます。そこでは盗跖はこう言っています。
繰り返しになりますが、元々の『老子』や『荘子』の「あるがまま」というのは、好き放題欲望のままにふるまうということではないし、「今のあなたのままでいいんだよ」的な“ふわっとした話”でもありません。『老子』や『荘子』は、人間を「人為」によって秩序づけられた文化的な世界だけで孤立している存在だとは考えず、万物を含む宇宙全体のなかで人間を捉えるため、そのような広大な世界から見ると、ちっぽけな人間の欲望だとか、人間のさかしらで分析的な「知」なんぞは小便や大便や乾屎橛と斉同だという話になるから、そこには欲望は出てこないわけです。だから、元々の道家思想は人間の欲望に否定的です。しかし、人間の内部に「あるがまま」の“本来性”を求めた結果、この盗跖の言葉のような、欲望のままに生きようとする享楽的な思想も出てきたのです。かくして、人間に宿った内なる性というコンセプトを媒介にすることで、古い時代の道家とは全く逆の思想までもが生まれることになったわけです。「時代が下るにつれて思想が変容し、現世肯定感が強まっていく」というのはどこかで聞いたような話ですが、それがどこなのかについては、これから少しずつ述べていきたいと思います。
さて、これまで述べてきたように、外篇・雑篇では、「天」から与えられた「性」を受け止めて満足するとか、「性」を「生」と捉えて生命を大切に守るとか、「性」を欲望のことだと捉えてそれを肯定するとか、いろんな方向性の思想がみられるわけです。このように方向性が様々に分裂するのは、人間に宿っている本来的な性に復帰するとなると、その人間の“本来性”とは一体何なのかがはっきりしないということに原因があるように思います。人間は複雑極まりない存在ですし、人間の“本来性”なる「もの」を定立するしようというのであれば、何をもって人間の“本来性”だとみなすかは、人によって意見がわかれることになるでしょう(そもそも、そんな“本来性”などという「もの」など存在するのかと思われる方もいるでしょう)。内なる性のままに生きるとなると、行動の基準が己の内部だけにあるということになりますので、純粋な主観主義にもなります(これもどこかで聞いたような話です)。いずれにせよ、人間の本来性はこれだとを決定する客観的な基準はないから、人間の性に復帰するなどと一口に言ってもどのような方向性になるかは不確定だし、無数にありうるとすら言えます。かくしていろんな分裂が生じた。ここではひとまずそのように捉えておきます。
ちなみに、少しだけ先走ったことを言っておくと、『荘子』外篇・雑篇の思想にみられる性の思想は、インド仏教でナーガールジュナの後の時代に出現した如来蔵思想(仏性思想)とものすごく相性がいいです。というのも、「天と性との関係」は「仏の法身と仏性との関係」と非常に似ており、両者の構図はほとんど同じなのです。そのせいもあってか、如来蔵思想はインド仏教の世界では必ずしも主流にはならなかったものの、中国で非常に浸透した結果、東アジアでみられるほぼすべての仏教思想の不動の前提と言っていいほどまでになっていきます。一体何を言っているのかさっぱりわからないという方もおられるかもしれませんが、如来蔵思想(仏性思想)については第26回か第27回あたりで述べますので、わからなくても気にしないでください。
さて、外篇や雑篇についてはほかにも重要な論点や面白い箇所がいろいろあるのですが、この雑文の目的にかんがみてひとまずはこれくらいにしておきます。よって、これでひとまず『老子』や『荘子』の中身については述べ終わったことになりますので、『老子』と『荘子』という書物の作者の問題についても触れておこうと思います。
まず『老子』については、文字通り老子という人物が書いたことに一応なってはいますが、この点についてはいろいろと問題があります。現存する老子の最古の伝記は、前漢時代の司馬遷という人が執筆した『史記』の老師伝です。これをひもとくと司馬遷は、
①老子は老聃である
②老子は老來子である
③老子は太史儋である
という三つの説を併記したうえで、③の最後に「或ひと曰わく、儋は即ち老子なり。或ひと曰わく、非なり。世に其の然否を知るもの莫し。老子は、隠君子なり(太史儋が老子であるともいい、あるいはそうでないともいう。世にそのいずれが正しいか否かを知る者はない。老子は世に隠れた君子である)」と言っています。まるで匙を投げてしまっているかのようです。
要は、司馬遷が生きた紀元前2世紀から前1世紀ごろの時代にはすでに、『老子』を書いた人の正体はわからなくなってしまっていたわけです。この『史記』老師伝は、老來子や太史儋ついてはあまり語っていませんが、老聃についてはあれこれ語っています。司馬遷が①を有力視していたことは間違いなさそうですが、②や③を否定しているわけでもありません。そんなありさまです。
司馬遷はまず①の老聃について、「老聃は周の守蔵室の史なり」と言っています。周は元々は諸侯の国々を統括していた由緒ある国でしたが、この時代には勢力の弱い小さな国になっていました。守蔵室というのは図書室のこと。つまり、周の図書室の役人だったというわけです。そして、孔子が老聃のところにやってきて礼について教えを受けようとしたが、それをたしなめたといいます。その後周が衰えたのを見て老聃は周を離れ、関所をこえて西の方へと去っていってしまいます。そして関所をこえる際に、尹喜という関令(関所の長官)が老聃に対して、「あなたは隠遁者になろうとしておられる。どうか私のために本を書いてください」と言いました。老聃はそこで上下二篇の書物を書いて(これが『老子』だというわけです)どこかへ去ってしまい、その後老聃がどこで生涯を終えたのか知る者はいない。司馬遷はそのように記しています。
次に司馬遷は②の老來子について、十五篇の著書があり、道家の「用(はたらき・作用)」について述べた人だと言っています。また、160歳あまり、あるいは200歳あまりまで生きたとも言っています。最後に③の太史儋については、孔子の死後129年のときに秦の献公に謁見して秦の天下統一を予言したと歴史書に書いてある、と司馬遷は述べています。
なお、①の老聃は孔子と同じ時代の人であるというお話については、もちろん事実ではありません。というのも、『老子』に出てくる用語をみると、『論語』のそれよりも新しいものが少なくありません。例えば『老子』には「仁義」という言葉が出てきますが、『論語』では仁と義を別個に言うことはあっても、これをまとめて仁義という例はありません。仁義が熟語になるのは『孟子』以降のことですから、『老子』の成立は『論語』よりだいぶ下ることになると言われています。「仁義」という語を根拠に『老子』は『論語』よりも成立が新しいとするこの見解は、江戸時代の日本で伊藤蘭嵎や山片蟠桃や斎藤拙堂といった人が提唱したものです。この三人の見解は現代の文献学の立場からみても妥当なものであり、現在に至るまでほぼ不動の定説になっています。この雑文の第1回で紹介した富永仲基といい、すごい人がいたものです。
ともあれ、最古の伝記ですらこんな具合ですので、老子についてはその実在すらも疑われています。『老子』という書物が一人の人間によって書かれたのか、あるいは複数の人の手になるものなのかもよくわからないという問題もあります。老子は、ひげをたくわえて牛にまたがっている仙人のような風貌の人物として描かれたりもしますが、これは、後世の人たちが想像した「単数あるいは複数の老子たち」の合成像だということになるのでしょうか。
一方、『荘子』の作者とされる荘周についてはどうなのかというと、荘周についても現存する最古のまとまった伝記は『史記』に記されています。そこには、荘周は蒙の人で、蒙の漆園の吏だったとあります。蒙というのは地名で、戦国時代の宋という国に属していました。宋の都は商邱で、現在の河南省商邱県にあたるとされています。その商邱というのは商の丘という意味で、商というのは周王朝の前の殷王朝のことです。殷王朝の丘というのはどういうことかというと、宋は元々、周によって滅ぼされた殷の帝辛(紂王)の異母兄にあたる微子啓という人が領土を与えられた国です。それで、亡国の遺民の国だということで、周の正統的な国から馬鹿にされていたとも言われています。というのも、宋の人を馬鹿にするような話が古い書物によく出てくるのです。
例えば『孟子』に、とある宋人が畑に植えた苗があまり伸びないもんだから、一本一本引っぱって無理矢理成長させようとしてみんな枯らしてしまったなんていう話が出てきます。このお話が元ネタとなって、「不必要な力を加えてかえって害になること」を指して「助長」と言うようになりました(最近の日本語では少し違った意味でも使われている言葉ですが)。また『韓非子』には、兎が木の切り株にぶつかって死んだのを見た宋の農民が、仕事を投げ捨てて毎日切り株を見張るようになったが、二匹目の兎は手に入らなかったなどという話もみえます。これが元ネタとなって、「古い習慣を守って臨機応変に物事に対処できないこと」を守株と言うようになりました。
この手のエピソードには宋人に対する偏見や誇張が含まれているのでしょうけど、そのようになんとなく蔑視されていた土地柄だという背景があって、儒教とは反対の、現象世界にとらわれない観点から物事をみようとする『荘子』のような思想が生まれたんじゃないかという説もあります。とはいえ、荘周の友人でありライバルでもあったとされる恵施(のちほど触れます)のように、大国の魏(大梁に遷都して以降は梁とも呼ばれます)に仕えて宰相に出世した人もいるのだから、宋の特殊事情を過大視して荘子思想と結びつけようとするのもどうかという見解を唱える人もいます。そのあたりはよくわかりません。
話を戻すと、荘周は蒙の漆畑の役人だったことになっています。漆畑の番人みたいな役人ですから、官吏になったというほどでもないし、高い身分でもありません。また、『史記』は荘子の生存年代については、老子の場合とは違って具体的な時期を述べており、梁(魏)の恵王や斉の宣王と同時代の人だと言っています。ただ、ここには少々問題があります。というのも、司馬遷は、魏(梁)の恵王と斉の宣王は同じ時代の人だという前提で『史記』全体を書いています。ところが『史記』とは別の史料が後に発見されて、そこでは二人の年代は恵王の最後の一年(紀元前319年)しかかぶっていないのです。恵王の在位は前370年から前320年頃で、宣王の在位が前320年から前300年頃までです。司馬遷はそのあたりを取り違えているので問題があるのですが、司馬遷の言葉どおりなら、荘子の年代は前370年から前300年頃ということになります。
また、荘周の友人でありライバルでもあった恵施は、魏(梁)の恵王と、恵王の後を継いだ襄王に仕えたとされています。恵施は『荘子』全体を通じて20回ほど登場しますし、荘周との対話も10回ほど出てきますので、両者の親密な関係を思わせるものがあります。恵施との関係を考えると、老子はともかく荘周については(100%とは言えないし、疑問をさしはさむ余地はあるけれども)実在したと言えそうな感じです。もちろん、この雑文でも見てきたように、『荘子』に出てくるエピソードは事実を述べたものではなく作者が創作したものが多いので、そこに荘周と恵施にまつわるエピソードが何度も出てくるといっても、それを額面通りに受けとることはできません。荘周の生存年代についても異論の余地はあります。そのあたりは素人の私には何とも言えません。とはいえ、老子よりは実在性がありそうな感じではあります。
『史記』は、荘周が優れた人物であることを楚の国の威王が耳にして、宰相として迎え入れようとしたというエピソードも記しています。威王が遣わした使者に対して荘周はこのように言ったといいます。「君はお祭りで用いられる生贄の牛を知っているだろう。あの牛は数年の間大切に育てられ、美しい着物を着せられ、祖先の霊廟に入れられ、そしてあっけなく殺されてしまうのだ。その時になってからただの豚になって助かりたいと思っても、もうだめじゃないか。さっさと帰って、つまらない話で私を汚してくれるな。私はむしろ汚い泥のなかで楽しく遊んでいたい。権力者に拘束されるのはまっぴらだ。生涯誰にも仕えず、思いのままに生きていたい」
『荘子』外篇の秋水篇と雑篇の列禦寇篇にも、これとほぼ同じエピソードがみられます。司馬遷はそこからエピソードをとってきたんじゃないかと言われることもあります。しかし、いずれにせよ在野の隠者を一国の宰相に迎えようとするのも不自然な話ですし、おそらく後世の人による創作でしょう。しかし、たとえ創作であったとしても、後世の人が抱いた荘周に対するイメージをよく物語っているお話ではあります。言うまでもなく、『荘子』で語られている思想は宮仕えするとか、政治や社会のために貢献することを目指すものではない(外篇・雑篇では政治への関心も強まってきますが)からです。
さて、ここらへんで『史記』を離れて、荘周と親交があったとされる恵施という人物についても少し触れておきたいと思います。戦国時代の諸子百家のなかには、論理を問題として取り上げ、一種の論理学を説いた人々がいました。彼ら論理学派は、名家と呼ばれています。名家のうちでも特に有名なのが、恵施と公孫龍という人です。恵施の著書は残念ながら散逸して現在には伝わっていないのですが、『荘子』雑篇の天下篇に、恵施の主張を取り上げている箇所があります。そこにはこうあります。
これら10種類の命題は、恵施の「歴物十事」と呼ばれています。これはあくまでも「道家側のフィルターを通した恵施の主張」ですので、恵施が言ったことを忠実に述べているかどうかはわかりません。しかも、困ったことに命題だけが示されていて、論理学において一番大事な論証の過程が一切書かれていません。どうもこの一節を書いた人は、恵施が提示した命題をその文脈から切り離して掲げ、ただの詭弁扱いして馬鹿にしようとしたんじゃないかと思えなくもありません(´・ω・`) 例えば、この雑文で扱った『中論』第2章の「『歩行者は歩行行為を行なう』という命題は成立しない」というのも、何も知らずにこれだけを読んだら単なる詭弁にしか見えないでしょう。そのような問題がありますから扱いに非常に困るところです。
ただひとつ言えそうなのは、(恵施が実際にはどんな主張をしたのかは置いといて)ここに述べられている「道家側のフィルターを通した、文脈から切り離された恵施の主張」は、『荘子』の万物斉同の思想とどうも通じるものがありそうだということです。というのも、ここで述べられていることは時間と空間におけるあらゆる区別や差別の否定だからです。
例えば、「私は世界の中央にあたる場所を知っている。それは北国の燕の北、南国の越の南にある」という命題をみてみましょう。常識的に考えれば北国のさらに北に位置する場所や、南国のさらに南に位置する場所は真ん中ではありません。しかし、上下左右とか東西南北というのは、人間が今いる場所を基準にして恣意的につくったものさしでしかありません。例えば、左や右という言葉がありますが、自分が今いる場所から左に移動すれば、それまで左と呼ばれていた場所は真ん中と呼ばれるようになり、それまで自分がいた場所は右と呼ばれるようになります。上下左右とか東西南北というのは、人間が勝手にそう決めただけであり、外界に上下左右とか東西南北という「もの」が実在しているわけではない。だから、人間のものさしを離れた立場からみれば方角などという「もの」はないし、無限の大きさの円においてはあらゆる場所が中心になるのと同様に、北国の燕の北も南国の越の南も世界の中央だと言える。“一応は”このように解釈できます。
「天と地とは同じ高さにあり、山と沢とは同じ高さにある」という命題なども、“一応は”同様に解釈できます。人間の常識的で限定されたものさしではかると、天や山は当然、地や沢より高いところにあることになります。しかし、そのような人間の有限なものさしを離れた無限の立場からみれば、天と地の差や山と沢の差など無にも等しい。また、「万物は生まれると同時に、死んでいる」という命題は、『荘子』斉物論篇の「方び生じ方び死し、方び死し方び生ず(生に並んで死があり、死に並んで生がある)」や、「其の分かるるは、成るなり。其の成るは、毀つなり。凡そ物は、成ると毀つと無く、復通じて一たり(自然の道の立場からみれば、分散し消滅することは、そのまま生成することであり、生成することは、またそのまま死滅することでもある。すべてのものは、生成と死滅との差別なく、すべて一つである)」に近いところがあります。「万物をひろく愛すれば、天地のあいだにあるすべてのものは一体となる」という命題も、「愛する」というのは『荘子』っぽくないかもしれませんが、斉物論篇の「天地は我と並び生じて、万物は我と一たり」に通じるものがあります。
以上のように、恵施が実際にはどんな主張をしたのかはわかりませんが、『荘子』の万物斉同の思想は“なんらかの形で”恵施の思想の影響を受けているようなのです。天下篇の作者は、恵施を次のように評しています。
恵施の言うことは不毛な言葉の遊びであり詭弁にすぎないと評しながらも、同時に恵施の優れた才能を認め、その才能を浪費しただけで終ったことを惜しんでもいます。ここで思い出されるのは、インドで仏教の誕生と同時期に出てきた、六師外道の一人であるサンジャヤ・ベーラッティプッタです。この雑文の第5回で述べたように、仏教で初期経典の頃からみられる四句否定(テトラレンマ)という論理形式は、サンジャヤ・ベーラッティプッタの鰻論法と呼ばれるもの言いにも含まれていたものです。仏教にみられる四句否定の論理形式や無記の思想は、“なんらかの形で”サンジャヤの影響を受けて形成された痕跡があることは第5回でも触れたとおりです。また、初期の仏教教団をまとめるうえで重要な役割を担っていたと伝えられているサーリプッタやモッガラーナが、元々はサンジャヤの高弟だったと伝えられていることも第5回で申し上げたとおりです。
どうも荘周と恵施の関係は、釈迦とサンジャヤ・ベーラッティプッタの関係を思わせるものがあります。「仏教側のフィルターを通したサンジャヤ」が、四句否定を用いた鰻論法で言葉をもてあそんだのに対して、仏教の初期経典は四句否定を用いて、経験できる事実から出発しない議論には答えない無記を説いた(その無記を大規模に発展させたのがナーガールジュナの『中論』だということはすでに述べたとおりです)。そして、「道家側のフィルターを通した恵施」が、人間の常識的なものさしに反するような詭弁を弄したのに対して、『荘子』はそれと相通じるような論法で「有為」のものさしを斥けて万物斉同の思想を切り開き、人間はいつかは死なねばならぬという問題に対する解決策を示してみせた。ひょっとしたら、現在知られている仏教思想や荘子思想は、サンジャヤや恵施がいなかったら成立しなかったのかもしれません。
さて、これまで『荘子』についてあれこれ述べるなかで、私は“あえて”仏教の思想との共通性を随所で記してきました。しかし、この雑文で述べてきた初期仏教の思想や初期大乗の空の思想と荘子思想を比べると、見過ごすことができない違いがあることも事実です。ここでは、両者がどのように違うのかを少し探ってみたいと思います。
まず、人間の言語は文字通りに現象世界を言い表しているわけではないという思想は、仏教にも『荘子』にも共通してみられます。この世において存在しているとみなされている「もの」の多くが言語的な仮構であるという思想は、初期経典にも十分に認められるということは第18回でも指摘したとおりです。そういう思想を大きく発展させたのがナーガールジュナであることや、同様の思想が『荘子』にも認められるということも、何度も述べたとおりです。現象世界を言語的な「分別」によって切り分けて秩序立てていくところに落とし穴があるという思想は、初期大乗の空の思想にも『荘子』にもみられるわけです。空の思想も荘子思想も、「分別」を斥ける点は同じだと言えます。「有」も「無」も人間の言葉の世界にしか存在しない「分別」だと言って「有」も「無」も斥けるところも似ています。ちなみに、何度か申し上げたように『老子』は第40章で「天下の物は有より生じ、有は無より生ず」とはっきり言って「無」を実体視していますから、空の思想は『老子』よりも『荘子』に近いと言えます。
それでは何が異なっているのかというと、初期仏教から初期大乗までの仏教は、万物が斉同であるとか、AとBは同一であるとは言わないことでしょう。『荘子』斉物論篇には「天地は我と並び生じて、万物は我と一たり」とありました。「有為」の「分別」の世界を離れれば、我という主体も天地万物という客体もなく、すべては一つだというわけです。これは、例えばナーガールジュナの『中論』とは異なっています。第13回以降でみたように、『中論』は「歩行者と歩行行為が同一だと考えても別異だと考えても矛盾に陥る」「原因(種)と結果(芽)が同一であると考えても別異だと考えても矛盾に陥る」と言っているのであって、歩行者と歩行行為が同一であるとか、原因(種)と結果(芽)が同一であるとは言っていません。「AとBは同一でも別異でもない」というのが『中論』の思想で、「AとBは一つであり、すべては一つである。ただし、一というのは二や三といった概念を前提にした概念だから、一つであるとも言わない方がいい」というのが『荘子』の万物斉同の思想です。『荘子』においては、一なる「あるがまま」の世界は最後の最後まで否定されないわけです。『中論』の場合、縁起を離れた単一の実在であるとか、一なる全体世界を認めているわけではありません。
『老子』の場合は、第40章で「天下の物は有より生じ、有は無より生ず」と言っており、第42章で「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」と言っています。ですので、現象世界の万物の根源に「道」という本体があって、すべての『もの』はそこから流出して生じたというお話です。だからその「あるがまま」の「道」に復帰しようという話になります。いわば流出論的本体論です。それに対して『荘子』の万物斉同の思想は、人間の「分別」の差別性や相対性や有限性を乗り越えて、「有為」によって限定されていない渾沌とした「あるがまま」の世界に逍遥しようとします。「分別」を離れた混沌とした「あるがまま」の「一」なる実在世界それ自体は、最後の最後まで否定されないのです。そして、この「人為」を離れ「はからい」を捨てて「道」=あらゆる「もの」が生成消滅を続ける物化の「流れ」それ自体を受け入れ肯定していく。「青春をよしとし、老年をよしとし、人生のはじめをよしとし、人生の終わりをよしと」し、「何ものも失う恐れのない境地、いっさいをそのままに受け入れる境地に遊び、すべてを
そのままに肯定する」(大宗師篇)。ここには、「有為」の「分別」の世界に埋没している人間にとっては、現象世界は酷薄で救いはないようにみえるが、その「有為」を離れた混沌とした「あるがまま」の世界は実は調和的なのだという見方がみてとれます。最後の最後まで否定されることなく全肯定される「あるがまま」の「一」なる実在世界それ自体は、非常に調和的にとらえられているのです。
第20回で申し上げたように、初期仏教や『中論』の思想においては、現象世界はすべて流動的な「ままならぬ事態」です。「ままならぬ」がゆえに、「一切のつくられたものはドゥッカである」(『ダンマパダ』第277偈より)と言われる。「私」も「私の愛する『もの』」も、『老子』や『荘子』が説く「道」のような究極の根拠によって根拠づけられてはいない。それはただ根拠なく縁起する“ままならぬ”「事態」です。人間の知覚を超えた「道」のような宇宙の真理や究極の根拠を立てることはありませんし、「はからい」
や「有為」を手放して「道」に随順するという話にはなりません。ですから、初期仏教やナーガールジュナの思想は、現象世界を無常で不安定な「事態」として捉える鋭い危機意識があります。それに対して、荘子思想は「有為」や「はからい」を捨てれば、調和的で安定的な「あるがまま」の世界が立ち現れてくるという話です。
もちろんこの雑文で何度も申し上げているように、道家思想の文脈で言われる「あるがまま」というのは、「ありのままのあなたでいいんだよ」みたいな毒にも薬にもならない話とは全く違いますし、「あるがまま」といっても人間の常識的な「分別」に基づいた認識によって色づけられた世界を“そのまま”肯定するという話では全くありません。「有為」は乗り越えられなければならない。しかし、「有為」を離れた「あるがまま」の世界は非常に調和的で安定的であり、生成消滅の「流れ」それ自体としての「道」には全幅の信頼が置かれていると言っていいでしょう。究極の根拠としての「道」は「流れ」それ自体であり、あるともないとも言えず人間の「分別」を離れているが、最後の最後では否定されない。ゆえに“なるようになる”というわけです。
無常に縁起する不安定な「ままならぬ事態」として浮かび上がった己という現象を、放逸なるまま「自然」な性向のなすがままに放っておくとロクなことをしでかさない。だから戒定慧の三学や八正道を実践することが必要である。放逸であってはならない――初期仏教にはそのような思想がみとめられると言っていいでしょう。それに対して、「有為」によって色づけられた世界を文字通り“そのまま”肯定はしないものの、最終的に「有為」や「はからい」を手放して「あるがまま」の「流れ」それ自体に随順していくのが荘子思想だと言えるでしょう。そうすると、「ままならぬ」と「あるがまま」
では話が逆なのではないか。
『荘子』の場合は、「有為」を手放してひらける「あるがまま」の世界に随順し逍遥するという話ですから、努力によって「あるがまま」の世界に至るという発想はとりません。努力というのは「有為」の作為的な営みにほかならないからです。よって、仏教のように修行によって「自分(假)」という現象を変えていこうといった発想にはならないのです。『荘子』はただ「有為」を手放せば万物斉同の世界がひらけると言っているだけで、そのためには具体的にどのような修行や修養を実践すればよいのかといったことは説いていません。『荘子』全体を通じて、努力によって万物斉同の世界に至るという発想は非常に希薄です。例えば、内篇には次のような一節があります。
顔回というのは孔子の最愛の弟子です。『論語』によれば、顔回が亡くなった時孔子は「噫、天予れを喪ぼせり、天予れを喪ぼせり(ああ、天はわしをほろぼした。天はわしをほろぼした)」と言って慟哭したそうです。もちろんこの二人が道家思想を語るわけがないし、『荘子』のこの一節を書いた人が二人の口を借りただけで……などということは今さら説明するまでもないでしょう。
それよりも大事なのは内容です。この一節は「坐忘問答」と呼ばれるもので、しばしば後世の禅宗の坐禅と比較されることもあります(ちなみに、『荘子』という書物には、“忘れる”ということを肯定的に説いた箇所がいくつもあります)。例えば、唐の時代の詩人である白居易の睡起晏坐詩には「行禪與坐忘 同歸無異路」とあります。坐禅と坐忘に違いはないというわけです。これをどう見るべきか。
まず、ここでは己の存在を忘れ去って「大道」と一体になった「境地」について語っているとは言えそうですが、その「境地」に至るためにはどんな修行を実践すればいいかは語っていません。『荘子』に坐忘という語が出てくるのはここだけです。万物斉同の思想や「有為」を離れて「道」に随順していくという思想や性の思想などは『荘子』のあちこちで何度も繰り返し言葉を変えて語られているのですが、坐忘は『荘子』をひっくり返してもここにしか出てこないのです。こうしたことを踏まえると、坐忘というものが『荘子』という書物にとってなくてはならぬ核心的な要素だとは言い難いし、この一節で修行や努力について語っているとも言い難いのです。『荘子』は「有為」を斥ける思想であるという性格もあってか、万物斉同の世界に至るための方法論についてはほとんど語っていないのです。ただ、一応次のような箇所もあるにはあります。
ここで最後に出てくる副墨の子とか洛誦の孫とか瞻明とかいうのは、「道」を知るための手段を擬人化したものです。まず、副墨というのは墨の添えもののことですから、書物です。洛誦というのは、その副墨を熟読すること。瞻明は目で見て理解することで、聶許は耳で聞いて理解することです。需役というのは(それらを)実践することで、於謳は(需役によって得た成果を)謳歌すること。そうやって玄冥という幽玄な境地に入り、参寥(虚無)に入り、道の根源になぞらえる(疑始)。書物を熟読して、見たり聞いたりして理解し、実践を行うことで道に至るという、実践的で段階的なプロセスが一応は語られています。ここには漸進的に少しずつ道に至るという発想が一応はみてとれます。でも、『荘子』という書物でこのような修行の段階が語られている箇所はここだけですし、『荘子』全体をみると、このように修養によって段階的・漸進的に「道」に至るという傾向は非常に希薄です。ついでに言うと、ここで最初の段階として副墨と洛誦、すなわち読書をすることがあげられているのは、道家思想らしからぬものを感じさせます。というのも、これまでに何度も申しあげてきたように、道家思想では言語に対する不信が強いからです。
ともあれ、話を坐忘に戻しましょう。先ほども申し上げたように、坐忘という言葉が出てくる一節は、努力や修行や具体的な修行実践などについて語っているというわけではないようです。それでは、坐忘は後世の禅宗の坐禅修行とは異なるのでしょうか。ただ、ここには少々面倒な問題があります。禅宗といえば、「覚り」を目指して坐禅に励む宗派だというイメージを抱く人も多いかもしれません。しかし実際には、中国で禅宗という新たな独立した宗派が歴史の表舞台に登場してくる唐の時代を通じてこの一派に起こったのは、坐禅修行の解体なのです。もし坐禅を「覚り」を目指して行なう修行というイメージでとらえるのであれば、坐禅と坐忘は違うものだということになります。しかし、例えば唐代の禅僧である荷沢神会のように、念の起こらぬことを「坐」とし、自己の本性を見るのを「禅」とするととらえるような方向性でいくのならば、坐禅と坐忘はかなり近いものだと言うことが可能です。一体何を言っているのかさっぱりわからないという方も多いかと思うので、この点についてはのちほど中国仏教篇で説明しますので、わからなくても今は気にしないでください。
いずれにせよ、『荘子』全体を通じて、努力や修行によって「あるがまま」の世界に至るという発想は希薄です。そうすると、「有為」を離れれば“即”「あるがまま」の世界がひらけるのであり、万物が斉同であることに気づきさえすればそれでよく、それで話は終わるということになりそうです。ですが、道家が残した文献をひもとくと、実際にはそれでは話が終わらなかったようなのです。例えば、『荘子』のなかでも成立が新しめだと言われている外篇には、次のような非常に興味深い箇所があります。
これは一見すると何でもないような話だし、さらっと読み流してしまいそうですが、ここには重要な問題が含まれています。ことさらな作為をせずとも「自然体」で「地面に落ちているものを拾うように蟬がとれる」レベルに到達するためには、練習の積み重ねという「有為」が必要だったという話だからです。「有為」を離れて「無為」に至るためには、練習や努力という
「有為」が必要なんじゃないか。ただ観念的に「ものの見方」を変えるだけでは、「あるがまま」の世界に至るのは無理なんじゃないか。『荘子』の成立が新しい部分には、そのような「揺らぎ」が生じていると言えるように思います。ちなみにこの外篇の達生篇には、鐘や太鼓をかける台座をつくる名人が、鐘をつくる際に精進潔斎(ものいみ)を行なって、自分に手足や身体があることさえも忘れてから仕事を行なうのだという話も出てきます。これも、「無為」の状態で仕事を行うためには精進潔斎という「有為」を経る必要があるという話です。
このような「揺らぎ」と関連して、例えば雑篇の庚桑楚篇にはこんな箇所もあります。
「やむにやまれぬ必然のままに」喜怒哀楽を発したり行為したりするのであれば、それは「無為」である。ことさらな作意や小細工を交えずに、“ただ”怒り“ただ”喜び“ただ”行為するのであれば、それは「有為」ではなく「無為」である。これは、一切の行為を「有為」として斥けるのではなく、「無為」の範囲を拡張しようとする思想です。「有為」に対する否定が、古い時代の道家よりも緩められています。「大乗道家」とでも形容できるかもしれません。この問題に関連して、『荘子』外篇の天地篇には、畑をたがやす老人が次のように言う箇所があります。
ところが、この老人に対して孔子は次のように言うのです。
「其の内を治めて、其の外を治めず(心の内を治める道だけは知っているようだが、外の世界に処する道は、まったく心得ていないよ)」という一文が目を引きますが、ともあれ、ここで孔子の口を借りて語られている「世俗の世界に遊ぶ」という思想は、中国思想史を通じて受け継がれていくことになります。例えば、『史記』滑稽列伝に登場する東方朔という人がいます。東方朔は、前漢の武帝の時代に朝廷に仕えながらも奇行が多く、朝廷に仕える臣下たちは彼を狂人扱いしたそうです。しかし東方朔はそんなことを気にすることもなく、「昔の人は深山のなかに世を避けたが、わしは朝廷に世を避けているのだ」と言ったそうです。これが「朝隠」という言葉の元ネタになりました。朝隠というのは、朝廷にいる隠者という意味です。また、南北朝時代に編纂された詩文集の『文選』に収められている、晋の時代の王康琚の詩には「小隠は陵藪に隠れ、大隠は朝市に隠る」とあります。陵藪というのは丘やヤブのことで、朝市は朝廷や市場のことです。これが元ネタとなって、「市隠」という語が生まれました。
これらは要は、「道」を体得した者は山奥に隠遁するのではなく、俗人が生きる現実の世界に生きながら「道」を全うするという、「俗にまみれた聖者」とでも言うべき思想です。ちなみに、この雑文の第13回で紹介したように、『維摩経』の主人公であるヴィマラキールティも、聖と俗の二項対立を否定し、沈黙によって不二を説いてみせた「俗にまみれた聖者」とでも呼ぶべき在家者です。大乗仏教は、梵天勧請の時点で既に存在していた「向下」のベクトルを大幅に拡張したものであるということは第11回でも述べたとおりですが、隠者は山林ではなく街に隠れるものだという後期道家の思想も、「大乗道家」とでも形容していいのではないかと思います。
ちなみに、この問題に関連して、『荘子』に対して現存する最古の註釈を書いた晋の時代の郭象という人がいます。郭象はその註釈のなかで、人が己に与えられた性のままに行為することは「有為」ではなく「無為」であり、「無為」というのは何もせずに沈黙を守ることではないという「大乗道家」的な思想を述べています。この郭象は、荘子思想の理解者として名声を得たそうですが、その後政治にコミットし、司馬越(西晋が崩壊するきっかけとなった八王の乱の八王の一人です)に招かれてその参謀として暗躍するようになります。その後郭象はかつての清廉さを捨て去って権勢を誇示するようになったため、その評判を落としてしまったと言われています。このように郭象が世俗的な政治の世界にコミットしていったのは、彼の「大乗道家」的な思想と無関係ではないのかもしれません。
以上のような「大乗道家」的な傾向は例えば、『老子』や『荘子』と同じく道家に分類される『列子』という書物にもみとめられます。『列子』は昔から偽書だと言われるなど扱いが非常に難しい書物で、戦国時代から六朝初期頃までの非常に長い期間にいろんな人によって書かれたテキストがまとめられているんじゃないかと言う人もいます。素人の私は『列子』の成立をめぐる問題に立ち入ることはできませんが、ともかく『列子』にも「大乗道家」的な思想を次のように語っている箇所があります。
『老子』第56章には、「知る者は言わず、言う者は知らず」とありました。言語という「有為」によっては「道」をとらえることはできないからです。しかし『列子』のこの一節は、そのような「有為」を排除する「無為」ではなく、「有為」と「無為」という線引きをも乗り越えた「無為」を主張するわけです。そうやって「有為」をも包容した「無為」に至った者は、「自分とか他人とかと区別する意識もぜんぜんなくなって」一切の差別を忘れながらも、一切にとらわれることなく俗にまみれ「心の考えたい放題に」考え、「口の言いたい放題に」しゃべることができる。これは『老子』の「無為にして而も為さざる無し」(第48章)の新解釈と言えるかもしれません。
さて、繰り返しになるようですが、『荘子』はただ「有為」を手放せば万物斉同の世界がひらけると言っているだけで、そのためには具体的にどのような修行や修養を実践すればよいのかといった方法論については説いていません。努力というのは作為的な「有為」の営みですから、『荘子』全体を通じて、努力によって万物斉同の世界に至るという発想は非常に希薄です。『荘子』は現象世界の「有為」の「もの」すべてを鋭く批判していますが、その批判は観念的なレベルでなされるものです。現象世界のあらゆる制約や限定から心を自由にすることによって立ち現れる「あるがまま」の世界に逍遥するというのは、悪く言えば観念的なレベルの話です。しかし、これまでみてきたように、より成立が新しいと言われている外篇には、練習や努力を積み重ねることで、ことさらな「有為」を弄さずとも蝉を捕まえられるようになるという話が出てくる。また、より成立が新しい部分には「大乗道家」的な思想もみられる。
このような事実からみえてくるのは、どうも観念的に「有為」を斥けて、万物は斉同であることに気づきさえすればよい、「ものの味方」を変えさえすればよいというだけでは話が終わらなかったんじゃないかということです。道は万物を貫いており、狗にも猫にも小便にも大便にもあり、目の前の世界が「即」万物斉同の「あるがまま」の世界である。だが、目の前にあるはずの万物斉同の世界に至るためには、多大なや努力や修養が必要なのではないか。しかし、『荘子』は「あるがまま」の世界に至るための方法について語ってはくれない。「即」という名の難問には答えてくれないのです。
私は『中論』と『荘子』という二つ書物は、現代においてもその価値を全く減じていないと考えております。しかし、インドと中国でそれぞれ『中論』と『荘子』という書物が紡がれても、話は終わらなかったのです。無常に縁起する空なる「事態」を静かに見守っておればよいとか、万物斉同の「あるがまま」に世界に随順しておけばよいというだけでは話は終わらなかったのです。では、『中論』以後のインドで空の思想に何が起こったのか。また、道家思想という土壌のある中国にその後仏教が輸入されることで何が起こったのか。人間の言葉で「思想史」と呼ばれている現象は複雑きわまりないですし、そのすべてをここに記すことはもちろんできません。それでも私は次回から、『中論』や『荘子』以後に起こった事態のほんの一部を記してみたいと思います。
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