「即」という名のアポリア 第2回

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 今回から、さっそく初期仏教で説かれている具体的な教説の内容にわけいっていくことにします。

 以前書いたことの繰り返しになりますが、初期仏教では、他の宗教のように絶対的な神様がいて不可思議なパワーで世界を動かしたり、人々に何かを強制したりするとは考えませんし、世界の成立や構造を、なにがしかの永遠に変わらない絶対的な根本原理(「ブラフマン」とか「道」とか「イデア」とか「一なるもの」などと古今東西の人類が呼んできた「もの」です)によって説明したりもしません。そこには、「この世界の物事はすべて(因果関係などの)関係によって動いている。だからすべての物事は関係によって条件づけられており、条件がなくなれば滅びる。だから永遠なるものなどない」という現代人にも納得できるような発想があります。

 そういう発想をとる初期仏教が、悩み苦しむ人々に対していかなる処方箋を提示したのかをこれから見ていくわけですが、ここではまず、釈迦が「覚り」をひらいた後に最初に行ったとされる説法(これを初転法輪といいます)を見てみることにします。ここで釈迦は、五人の比丘(彼らは初転法輪を聞いて、仏教における最初の出家者になったと伝えられています)に対してこのように語っています。


(二) そのとき、世尊は五人の比丘の群れに告げられた。「比丘たち、出家した者はこの二つの極端に近づいてはならない。二つとは何か。
(三) 第一にさまざまの対象に向かって愛欲快楽を追い求めるということ、これは低劣で、卑しく、世俗の者のしわざであり、とうとい道を求める者のすることではなく、真の目的にかなわない。また、第二には自ら肉体的な疲労消耗を追い求めるということ、これは苦しく、とうとい道を求める者のすることではなく、真の目的にかなわない。比丘たち、如来はそれら両極端を避けた中道をはっきりとさとった。これは、人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ・すぐれた智慧・正しいさとり・涅槃のために役だつものである。
(四) 比丘たち、では如来がはっきりとさとったところの、人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ・すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役だつ中道とは何か。それは八つの項目から成るとうとい道(八正道、八支聖道)である。すなわち、正しい見解・正しい思考・正しいことば・正しい行為・正しい暮らしぶり・正しい努力・正しい心くばり・正しい精神統一である。比丘たち、如来はそれをはっきりとさとった。それは、人の眼を開き、知を生じさせ、心の静けさ・すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役だつものである。
(五) 比丘たち、とうとい真実としての苦(苦諦)とはこれである。つまり、生まれることも苦であり、老いることも苦であり、病むことも苦である。悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い・悩みも苦である。憎いものに会うのも苦であり、愛しいものと別れるのも苦である。欲求するものを得られないのも苦である。要するに、人生のすべてのもの――それは執着をおこすもとである五種類のものの集まり(五取蘊)として存在するが――それがそのまま苦である。
(六) 比丘たち、とうとい真実としての苦の生起の原因(集諦)とはこれである。つまり、迷いの生涯を繰り返すもととなり、喜悦と欲情とを伴って、いたるところの対象に愛着する渇欲である。すなわち、情欲的快楽を求める渇欲と、個体の存続を願う渇欲と、権勢と繁栄を求める渇欲である。
(七) 比丘たち、とうとい真実としての苦の消滅(滅諦)とはこれである。つまり、その渇欲をすっかり離れること、すなわちそれの止滅である。それの棄捨であり、それの放棄であり、それから解放されることであり、それに対する執着を去ることである。
(八) 比丘たち、とうとい真実としての苦の消滅に進む道(道諦)とはこれである。つまり、八項目から成るとうとい道、すなわち、正しい見解・正しい思考・正しいことば・正しい行為・正しい暮らしぶり・正しい努力・正しい心くばり・正しい精神統一である。(サンユッタ・ニカーヤ56・11 桜部建訳・太字引用者)


 ここでは、中道と呼ばれる教えや四諦八正道と呼ばれる教えが語られています。まず最初の方で、快楽追求の世俗的生活からも苦行主義からも離れ、両極端を避けよと説かれています。これが中道と呼ばれる教えです。「言うは易く行うは難し」というやつではありますが、このバランス感覚は現代人にも理解しやすいでしょう。

 以前も述べたように、伝承の語るところによれば、かつて釈迦は王子様として何不自由なく生きることができたし、快楽を求めて得られぬことなどなかったにもかかわらず、生きることの苦しみや虚しさに苦悩していました。一方、出家してからは苦行に没頭し、肉体を痛め続けることで心の苦しみを消滅させようとしましたが、苦行によっては苦しみや迷いを乗り越えることができませんでした。それを踏まえると、仏教では中道というのは釈迦の実体験に根差した教えだと伝えられていることになります。

 中道について語った後で出てくるのが、四諦八正道と呼ばれる教えです。諦というのは真理という意味です。ですので、四諦八正道というのは、4つの真理と8つの正しい道という意味になります。そして四諦というのは具体的には、苦諦・集諦・滅諦・道諦の4つです。中身を整理すると、


苦諦 この世は苦しみに満ちているという真理
集諦 苦しみは原因があって起こるのであり、その原因とは渇欲(渇愛)であるという真理
滅諦 苦しみの原因である渇欲(渇愛)を滅ぼせば苦しみも滅びるという真理
道諦 渇欲(渇愛)を滅ぼす道があるという真理


という具合になります。詳しく見ていきましょう。

 まず苦諦。苦諦では具体的に、生・老・病・死という四つの苦しみ(四苦)と、怨憎会苦・愛別離苦・求不得苦・五取蘊苦という四つの苦しみをあげています。全部あわせると八種類で、あわせて四苦八苦と言います。日本語で俗に四苦八苦と言うのはここから来ているわけです(念のために言っておくと、四苦八苦といっても4+8で12種類の苦しみがあるということではなく、あくまでも八種類です。日本語の四方八方が12方向というわけではないのと同じことです)。

 八種類の苦しみを一つずつ見ていくと、まず生苦。ここでいう「生」については、「生まれたこと」だという解釈もあれば、「生きること」という解釈もあり、「新生児が母親の産道を通ってくること」だとする説もあります。しょっぱなに生まれることや生きることの苦しみが説かれていることが何を意味するのかについては、これから徐々に明らかになるでしょう。

 次に老苦病苦死苦。これらは文字通り年をとって老い衰える苦しみ、病気になる苦しみ、死の苦しみのことであり理解しやすいです。いずれも、人間が生きていく限りは決して避けられない苦しみです。どんなイケメンも年をとるとシワや白髪が出てくる。ロコツな言い方ですが、大きいおっぱいも老いると垂れてくる。老いは残酷なものであります。そもそもイケメンであろうが醜男醜女であろうが、死んでしまえば骨以外は何も残りはしない。

 老・病・死は肉体的苦痛をもたらすのみならず、老・病・死を縁として強い精神的苦悩をもたらします。現代でも、大病を得たせいで人生設計や家族計画が一瞬にしてパアになってしまうということは何ら珍しいことではないし、人は自分や家族の不確実な将来を憂い悩む。今までずっと他人事だとしか思っていなかった老苦や死苦が、ほかならぬ己の問題であるということに直面することで、己が一生かけて築きあげた地位や名誉や権力が全ていつかは滅びるものだということに気づいてしまったりもする。こういったことはいずれも、人間はみんな老い衰え、病を得て、いつかは死ぬという運命を避けることは不可能であるという厳然たる事実に起因している、という教えであるわけです。

 この生老病死については、伝承によれば次のような有名なエピソードがあります。
 出家する前の釈迦が城の東門から出ると、老人が目に入った。次に南門から出ると、病人が目に入った。続いて西門から出ると、死人を見てしまった。最後に北門から出て、出家者を見た。老苦と病苦と死苦という人間が避けられない苦しみを痛感して悩んだ末に、そうした苦しみから逃れる道を出家者の中に見てとったというわけです。このエピソードを四門出遊と言います。
 これはいかにも出来すぎた話だし、後世の人による創作であって歴史的事実ではないのでしょうけど、人間の宿命である四苦についてうまく物語っているとは言えます。

 次に怨憎会苦愛別離苦。怨憎会苦は「自分が怨み憎んでいる者に会わなければならない苦しみ」で、愛別離苦は「愛するものと別れなければならない苦しみ」です。これも理解しやすいでしょう。怨憎会苦は、嫌なやつとかいじめっことか嫌いな上司とか、誰しも経験することでしょう。
 愛別離苦も文字通りですが、これも人間が永遠には生きられず、いつかは死ぬ以上別れは避けられないということから来ている苦しみです。愛は永遠などではないというわけです。
 怨憎会苦はマイナスの感情に起因する苦しみであり、愛別離苦はプラスの感情に起因する苦しみですが、いずれも対象に対する渇愛(喉が渇いた者が水を求めるような激しい欲求のこと。引用文中では渇欲と訳されています。後ほど集諦のところで触れます)に起因している点では同じです。

 次は求不得苦。これは「ほしいものを求めても手に入れられない苦しみ」です。文字通りであり、あまり説明の必要はないかもしれません。これは経典に書いてあるわけではありませんが私の考えを述べると、人間は、自分とは完全に別世界にいるアラブの石油王のような億万長者になりたいと本気で渇望することはそうそうないだろうけど、「ひょっとしたら自分にも手が届くかもしれない」とか「あとちょっとでいいんだ、あとちょっとであれが手にできるんだ」というレヴェルの「もの」には筆舌に尽くしがたいまでに執着して苦しみ、自分も自分以外の人も苦しめたりすることがあるとは言えるのではないかと思います。また、アラブの石油王ということでいえば、人間は億万長者になって全てを手にした後でも「欲しいものがないのはつらい、欲しいものが欲しい」などと言い出したりするから困ったものです。

 最後に五取蘊苦。これについては、後ほど説明します。現時点では、「対象が何であれ、自己中心的な執著をもつならばそれらはすべて苦である」ぐらいの意味だと思っておいていただいていいかと思います。


 苦諦についてはこのくらいにして、集諦にいきます。
 ここでいう「集」というのは、「ものが集まり起こる原因」ぐらいの意味だと思っていただいていいかと思います。つまり、集諦というのは原因や理由に関する真理だということになります。集諦では、あらゆる苦しみの根本原因は喉が渇いた者が水を求めるような激しい欲求=渇愛(渇欲)であると説かれています。

 先ほど引用した経典の中には出てきませんが、パーリ経典では、この渇愛は、欲愛(感覚的・情欲的な欲望)・有愛(存在・生存の永続への欲望)・無有愛(生存の断絶への欲望。非存在や虚無への欲望)の三つに分類されることもあります。とりあえずここでは、永遠を望む願望のみならず、死や虚無を望む渇望も斥けられているということと、仏教では「愛」という言葉は(いい意味で使われることがないわけではないけど)基本的には執著であり悪い意味の言葉であるということを頭の隅にでも置いておいてください。

 次に滅諦。あらゆる苦しみの根本原因は渇愛(渇欲)なのだから、渇愛(渇欲)を滅ぼせば苦しみも滅びるという真理という意味になります。最後に道諦。渇愛を滅ぼし苦を滅ぼす道=方法があるという真理です。その道とは、中道であり、八正道だと説かれています(太字にした箇所からもわかるように、中道と八正道はつまるところは同じことだと考えられていると言っていいでしょう)。

 八正道について説いている箇所では、渇愛を滅ぼすための八つの具体的な修行法があげられています。それが「正しい見解・正しい思考・正しいことば・正しい行為・正しい暮らしぶり・正しい努力・正しい心くばり・正しい精神統一」ですが、これらはそれぞれ、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定と呼ばれています。要はしっかりと身を修め、しっかりと精神集中して、この世をきちんと観察し正確に捉えよ、という話です。

 ついでに、引用文中に出てくる「涅槃」という言葉についても触れておきます。これは一言で言えば、渇愛(渇欲)が克服された境地のことです。「涅槃」はパーリ語でニッバーナ、サンスクリットでニルヴァーナという言葉で、火の消え去った状態を意味すると言われています(ただしこの点については異説もあります)。渇愛(渇欲)の炎が消え去って、「眼」が「開」かれ、「理解」が「生じ」、「心の静けさ・すぐれた智慧・正しいさとり」が実現された境地が「涅槃」であると、一応言うことができるでしょう。救済はこのようにして達成される、と言っているわけです。


 さて、以上ざっとではありますが四諦八正道について説明しました。この四諦八正道を仏教の根幹の一つだと考える人も多いです。四諦八正道は一言でまとめれば「人間の苦しみには原因がある、その原因を滅ぼせば苦しみは滅びる」という非常にシンプルなものです。
 ここには、絶対的な神様だとか人知を超えた不可思議なパワーだとかいったものは出てきません。人間がその存在を経験によって知ることができない、「あるともないとも言えない」ものを何か持ち出して人間や世界について説明しようとはしません。あるのは因果関係や法則性だけです。シンプルだし、現代人にも納得できる話です。

 ただ、「この世は苦しみに満ちているというけど、世の中にはつらいことや悲しいことばかりじゃなくて、楽しいことや嬉しいこともあるじゃないか。この世は苦しみに満ちているというのはあまりに悲観的で偏った見方だ」という疑問を抱いた方もおられるでしょう。この疑問には初期仏教を理解するうえで非常に重要なポイントが含まれているので、後ほど詳しく述べます。

 とりあえず「苦」について一言だけ言っておくと、これまで「苦しみ」とか「苦」という言葉を何度も使ってきましたが、実はこれはちょっと誤解を招きやすい表現・訳語です。
 苦諦の「苦」というのは、パーリ語でドゥッカという言葉を漢訳したものです。ドゥッカには、「骨折して腕が痛くて苦しい」とか「人間関係がうまくいかなくて苦しい」といったような普通の意味での苦しみも含まれますが、それに加えて「不完全さ、無常、虚しさ、実質のなさ」といった意味あいも含まれており、パーリ経典の中では、普通の意味での苦しみよりもはるかに広い意味で用いられている言葉です。あえて日本語でドゥッカに近い言葉を探せば、「不満足」というのが近いかと思います(だから本当は「苦しみ」とか「苦」とかいった表現をあまり使いたくはなかったのですが、説明の便宜のためここではやむなく使用しました)。このへんの問題については、先ほども言ったようにまた後ほど詳しく述べます。


 さて、四諦説に関連して、『サピエンス全史』という世界的なベストセラーになった本の中に、初期仏教の核心を非常に精確に捉えた記述があるので紹介します。この本の著者であるユヴァル・ノア・ハラリは、歴史学者であり中世史や軍事史の専門家なのですが、仏教の瞑想修行体験がある人でもあり、仏教に関して述べている箇所が非常に含蓄に富んでいて興味深いのでここに引用します。


「心はたとえ何を経験しようとも、渇愛をもってそれに応じ、渇愛はつねに不満を伴うというのがゴータマの悟りだった。心は不快なものを経験すると、その不快なものを取り除くことを渇愛する。快いものを経験すると、その快さが持続し、強まることを渇愛する。したがって、心はいつも満足することを知らず、落ち着かない。(中略)快いものを経験したときにさえ、私たちはけっして満足しない。その快さが消えはしないかと恐れたり、あるいは快さが増すことを望んだりする。人々は愛する人々を見つけることについて
何年も夢見るが、見つけたときに満足することは稀だ。相手が離れていきはしないか不安になる人もいれば、たいしたことのない相手でよしとしてしまったと感じ、もっと良い人を見つけられたのではないかと悔やむ人もいる。周知のとおり、不安を感じながら悔やんでもいる人さえいる」
「ゴータマはこの悪循環から脱する方法があることを発見した。心が何か快いもの、あるいは不快なものを経験したときに、物事をただあるがままに理解すれば、もはや苦しみはなくなる。人は悲しみを経験しても、悲しみが去ることを渇愛しなければ、悲しさは感じ続けるものの、それによって苦しむことはない」
「ゴータマは、渇愛することなく現実をあるがままに受け容れられるように心を鍛錬する、一連の瞑想術を開発した。この修行で心を鍛え、『私は何を経験していたいか?』ではなく『私は今何を経験しているか?』にもっぱら注意を向けさせる。このような心の状態を達成するのは難しいが、不可能ではない」
「二五○○年にわたって、仏教は幸福の本質と根源について、体系的に研究してきた。科学界で仏教哲学とその瞑想の実践の双方に関心が高まっている理由もそこにある」
「幸福に対する生物学的な探求方法から得られた基本的見識を、仏教も受け容れている。すなわち、幸せは外の世界の出来事ではなく身体の内で起こっている過程に起因するという見識だ。だが仏教は、この共通の見解を出発点としながらも、まったく異なる結論に行き着く」
「ブッダの洞察のうち、より重要性が高く、はるかに深遠なのは、真の幸福とは私たちの内なる感情とも無関係であるというものだ。事実、自分の感情に重きを置くほど、私たちはそうした感情をいっそう強く渇愛するようになり、苦しみも増す。ブッダが教え諭したのは、外部の成果の追求のみならず、内なる感情の追求をもやめることだった」(ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』 柴田裕之訳)


 ここでは四諦説が非常にうまく、かつ精確にパラフレーズされています。
ちなみに、ここに出てくる「心を鍛錬する、一連の瞑想術」という部分を誤解する人がいるかもしれないのでちょっと説明を加えておきます。
 初期仏教に対するよくある誤解に、「仏教の瞑想は神秘体験をすることを目的としており、世界の真実の姿と一体になるためのものだ」というものがあります。ですが、瞑想によって宇宙の理法と一体になることこそが仏教の究極の目的であり、そういう神秘的な体験それ自体が悟りなのだという考え方は、仏教内部では時代が下ってから前面に出てくる考え方なのです。以前、仏教史は壮大な伝言ゲームの歴史だという側面があり、二次創作に次ぐ二次創作によって(いいか悪いかは別として)釈迦の教えとは別なものに変容していく歴史であるということを、富永仲基の加上説を紹介しながら説明しましたが、「瞑想によって真理と一体に!」という考え方が前面に押し出されるのも後世になってからのことです。

 では初期仏教における瞑想はどういうものかというと、あくまでも「智慧」を得るための手段です。手段であって目的ではありません。瞑想による体験それ自体が目的だというわけではないのです。ここでは簡単に述べるにとどめますが、瞑想の目的はあくまでも人間の日常的な認知がいかに錯覚に満ちているかをさとり、錯覚や偏向した認知や幻想や「物語」を解体し、目の前の現象を如実に見る「智慧」を得ることです(この点についてはまた後ほど説明します)。

 ついでに言っておくと、これも世間でよくある誤解ですが、これは欲望を無理やり抑え込むような類の「禁欲」とも違います。世の人が禁欲と呼ぶものは多くの場合、精神ないし理性を人間の本質であると見て、肉体を次元の低いものないし罪悪に導くものと見る、身体と精神の対立という二元的な見方に基づいています。その上で、肉体的な欲望を理性によって無理やり抑え込もうとするわけです。仏教の瞑想は、そういう種類の「禁欲」とは全く違うものです。

 こういった点に関する詳しい話や、「心が何か快いもの、あるいは不快なものを経験したときに、物事をただあるがままに理解すれば、もはや苦しみはなくなる。人は悲しみを経験しても、悲しみが去ることを渇愛しなければ、悲しさは感じ続けるものの、それによって苦しむことはない」というのは具体的にどういうことなのかといった話については、また後ほど述べることにします。

 話が少し脱線しました。この引用文中で私が興味深いと思うのは、「真の幸福は私たちの内なる感情とも無関係である」「ブッダが教え諭したのは、外部の成果の追求のみならず、内なる感情の追求をもやめることだった」という箇所です。

「幸せは外の世界の出来事ではなく身体の内で起こっている過程に起因する」というだけなら、特に目新しい考え方でもないし、現代日本ではそのように考える人も珍しくないでしょう。
「価値観は人それぞれだし、幸福の形も人それぞれだ。他人が自分のことをどう思っていようが、他人が自分のことを不幸だとみなしていようが、それは他人の勝手であって自分の幸福には関係ない。大事なのは自分がどう思うかであり、自分が幸福を感じてさえいればそれでいい。他人が何と言おうが、自分は幸福だと思えればその時点でその人は幸福なのだ。だからレッツ・ポジティヴシンキング!」といった感じの考え方を述べる人は今の日本ではよく見かけます。

 そういえば、日本国憲法とかいう政治的なケンイのある文書には「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と書いてありますし、個々人には各種の権利が保証されることになっています。ですから、個人の自由を尊重するとか「他人に迷惑をかけなければ何をやっても自由である」といったような思想は、少なくとも建前として流通していることは確かだし、そういう考え方に同意する人も多いでしょう。そうなると、このような幸福観を語る言葉が多いのもむべなるかなという感じがします。

 私自身は、大文字の政治や経済や社会をめぐる問題に関心が薄い人間なので、こういう世の中の趨勢は、特にいいことだとも思っていませんし、悪いことだとも思っておりません。まあこういう考え方であれどんな考え方であれ、それで幸福を感じられる人がいるなら、それはそれでいい面はあるだろうとは思います。

 ただ、仏教はこういう幸福観はとりません。引用文中にもあるように、「自分の感情に重きを置くほど、私たちはそうした感情をいっそう強く渇愛するようになり、苦しみも増す」と考えるのです。
 そもそもここでいう「自分」とか「自分の感情」というのは一体何でしょうか。最近は少なくなったようですが、世の中には「自分探し」などというものもあるそうです。そういうときの「自分」とは一体何なのか。仏教はこういう問いに対して、「自分」などというものに実体はないと答えるのです。次回はその点についてお話することにします。(続く)

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