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本を読まないあなたへ

もう10年以上前のことになるが、家の近所の個人経営の美容院で、アシスタントの女の子と仲良くなったことがある。
仲良くなったといっても、好きなドラマの話とか、どこのコンビニスイーツが美味しいとか、そんな他愛のない会話をするくらいだ。

あるとき、私の仕事に話になって、出版社に勤めていて本を作っているのだと言うと、本当に「本を作っている」と思ったらしく「私、工作とか好きなんですよ~」と返され、そうではないのだ、印刷は印刷会社、製本は製本会社がするのだというと「じゃあ何をするんですか?」と聞かれた。

まったく屈託がなく、とてもシンプルな質問をされ、逆に「うっ」となる。確かに物理的に本を作るのは、印刷会社であり製本会社である。出版社は「本を作っている」と言っていいのか。……もちろんいいのである。

出版社は、著者から原稿を預かって、編集をするのだというと、全然ピンとこないようだった。そこで私は、ざっくりと出版社の仕事について説明し、1冊の本が出来上がるまでに、どんな種類の仕事があって、どれだけの人が関わっているのかを教えた。

「へえ~、そういうしくみなんですね~」
彼女はわかったのかわからないのか、いちおう客である私を立ててくれて、わかったふりをしてくれた。

「私、ふだん全然本を読まないんですよ」というので「全然?」と聞くと、「はい、全然、まったく」と、本づくりを生業としている私に向かって、きっぱり答えた。
私は、自分の目の前にあるファッション誌を指して「こういうのも読まないの?」と鏡越しの彼女に問うと「あ~、ファッション誌とかヘアカタログとか、そういうのは読みますけど、字はとばします。写真だけ見ます」とにこにこして言う。
「写真、きれいだもんね」
「そうなんですよ、写真見てるとあっという間に時間が経ってて」
今ならインスタとかを見るんだろうけど、その頃はまだそういうものはなかったのだ。

「高校の教科書は卒業したらソッコー捨てました。読まないからめっちゃきれいでした」
「あはは…」(笑っていいのか?)

という流れで、「なんかオススメの本ってあります?」と聞かれたのだ。
絶句した。この子にどんな本を勧めるのが正解か?
もちろんお勧めしたい本はたくさんある。しかし長編なんかもってのほかだ。軽くてサクサク読めて、面白い本。いい読書体験をしてもらって、読書の習慣をつけてもらえるような本。数秒でめっちゃ考えた。そして出した答えが、「そうねぇ、絵本なんてどう?」だった。

私は子供のころから絵本が好きだった。文字が読めないくらい小さいときから親に読み聞かせてもらっていたし、読めるようになってからはひとりで何度も擦り切れるほど読んだ。今でもときどきながめることがある。
その本を読んだ時のわくわくする気持ちや、どんな場所で読んだかを思い出すこともある。絵本は私にとって、よい思い出しかない。

「え? 絵本ですか?」
だからまさか絵本を勧めていやな顔をされるとは思ってもみなかった。
「そう、絵がきれいだし、おはなしも楽しいし、癒されるわよ」
「絵本って、子どもの読み物ですよね? 私、もう二十歳ですよ?」
「絵本は誰が読んでもいいのよ。今は大人向けというか、大人が読むのに堪える絵本もたくさん出ているし、まずは本を読むということをしてみるにはうってつけだと思うの」
そう説明してみたけれど、彼女は納得していないようだった。本を読まない自分に子供向けの本なんか勧めて、バカにしていると思ったのか。

私が浅はかだった。彼女は「絵本は子どもの本、大人が読むのは大人向けの本、大人は子どもの本を読まない」と考えているのだ。自分はもう大人だから、私が「本を読まない大人向けの本」を勧めてくると思ったのだろう。

いつ、どんなジャンルの本を読むのかは、まったくその人次第だ。もちろん、子どもが大量殺人や過激な性描写がある本を読むのはよくないと思う。そこには制約があってしかるべきだろう。それでも、自分の読書体験からいって、子供のころに少し背伸びした本を読んだことも思い出す。親の本棚からこっそり本を抜き出して読んだりもした。

彼女もおそらく学校で「本を読め」と言われたことがあっただろう。そして夏休み前なんかに「中学生(あるいは高校生)にふさわしい本」という一覧が配られたりしただろう。だから大人にもそういうリストのようなものがあると思ったのかもしれない。
本を読む習慣がないというのは、こういうことなのだと思い知った。

「そっか、絵本はダメか。じゃあなんだろうなぁ。次に来る時までに考えておくね」

私は敗北感に打ちひしがれて、しおしおと家路についた。
その美容院から足が遠のいたのには、そういう理由があったのだ。

私は彼女にどんな本を勧めればよかったのだろう。その答えはまだ見つかっていない。

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