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彼女の名前は、まだ呼ばない

「これ、僕のおやつなんですよ。大容量のを何種類か買って食べてるので、いつも余っちゃうんですよね。そのおすそわけです」

牛ハツを使ったランチを出す恵比寿のイタリアンレストランで、話し好きな店長らしき黒ひげの男性が、食後のテーブル席にやってきてそういった。

丸い銀色の薄い盆の上には、キャンディーのような銀色の包み紙が20個ほどのっている。その包み紙の様子から、中身はキャンディーではなくチョコレートなのだなと予想する。

「ありがとうございます。じゃあ、これ…」

といって、僕は1つを手にした。すると

「あ、もう1個。いいですよ」

というので、手前にあった別の種類のキットカットのようなお菓子を手にとる。本当はキャンディータイプのチョコレートがもう1つ欲しかったけれど、なぜか種類を変えたほうがいいかなと思い、そうした。

「遠慮しないんですね」

と店員がにやけてつぶやいたので、

「あ、すみません」

と笑い返す。



「メインは夜なんですけどね。今はほら、開けたり閉めたりで。その代わり、ランチは毎日違うものを出してるんです。今日みたいに種類は1種類だけなんですけどね。なかなか厳しい時期ですけど、もう逆に、生き残ってやるって感じですよ」

お会計のとき、お菓子をくれた店員がまた話しかけてきた。配膳も、片付けも、デザートのサービスも、そういえばこの人1人でやっている。完全に1人で切り盛りしているようだ。料理は別の人が作っているのかだけは、分からなかった。

「また来ます」

出入り口のドアを押しながら、ランチを共にしていた彼女が店員のほうを見ながらほほ笑んだ。

「ごひいきに」


その声で店をあとにした彼女と僕は「散歩でもしようか」という彼女の提案のもと、駅と反対方向に進んでいった。

「話好きな人だったね」

彼女が話しかけてきたので

「そうだね」

と返す。

無理に話しかけているような気が一瞬したけれど、気のせいだろうと後ろ向きな気持ちをかき消した。




彼女は半年前に別れた、僕の元恋人だ。

付き合っていたのは4年くらいだろうか。


同棲をしていた。

お互いに仕事も安定して生活サイクルもほとんど同じだったので、2人の生活に影のようなものが忍び寄っていたことに、僕はまったく気付いていなかった。


「ようちゃん、背が伸びたんじゃない?」

ゆっくり歩きながら、彼女がいう。

「えー」

僕は背が伸びたかどうか分からなくて、そのまま言葉にする。

最近は薄手のコートを小脇に抱える人もいなくなった。少し強い日差しがビルとビルのすき間から差し込んできて、まぶしさを横目に僕らは歩く。


「背が伸びたんじゃなくて、姿勢が良くなったのかな」

彼女はそういいながら、まぶしそうに僕のほうを見たので、わざとらしく背筋を伸ばし、あごを引いてみる。

「いや、今姿勢良くすな」

と彼女は笑い、僕は満足する。


2人でいたときも、よくこうやって歩いた。

それこそ何時間も。「足の裏がひりひりしてきたよね」と愚痴りながら、それでも歩いた。


歩きながら、少しずつ違うことを考え始めていたのに。



「あのね、いちばんおもしろい女芸人を決める大会ってあるでしょ」

「うん」

「なんだっけ」

「W?」

「そんな感じの」

「うん」

「そこで優勝した、吉住っていう女の子がいるんだけど」

「うん、あ、聞いたことある」

「あ、ある? その子ね、歩くのが好きなんだって」

「へえ~」

「仕事終わりにね、3時間くらいかけて、歩いて家に帰ったりするらしいよ」


長いな。3時間。しかも仕事帰りか。


1人だったら、3時間も歩けない気がするなぁと思ったとき

「1人じゃ3時間も歩けないよね」

と彼女がいった。

「うん」

と僕は強めに答える。





「高岡さん」

僕の声に、彼女はちらっとこちらを向いた。

「なんで俺たち、…こんなふうになったんだっけ」


きっとこれが最後になるかもしれないなんて思っていなかったけれど、今なら答えてくれるかもしれないと思って言葉にした。

ゆるい下り坂を降りていた僕らの足元から、ヒュウと風が吹き抜ける。


知らない人から呼び止められたときみたいな、感情の読み取れない表情で彼女はこういった。

「ようちゃんてさ、最後まで名前で呼んでくれなかったよね」


どこから飛んできたのか、風の中に赤い土煙が混じっている。

せきこまないように、僕は一瞬息をとめる。


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