あったかもしれない人生と貧乏

僕は貧乏ではないが、貧乏性かもしれない。

貧乏ではないというのを偉そうだと取らないでほしい。日常的な暮らしをし余計な贅沢などをしなければ、最低線をくだることがひとまずないだろうと言う風だし、貧乏性というのはそれ要るかなぁと突っ込めるという程度だ。貯金額が高いこともないし、人に紹介されるほど何か極めた風でもない。

僕は、お金を稼ぐことも大事だが時間をもつことも大事だと考える。世の中そううまくいくかと怒らないでほしいが、そうできた運の良い人もやはりいる。

そして、そうだから、余計なことに使えるほどどこまでもお金の余裕を欲しがってもいない。僕は仕事人間ではなく人間なのだろうと思う。

日常には色々な場面がある。そこに色々な自分がいる。ある程度は能力に幅を持つことが大事なのだろうと思う。

優しさ。力持ち。冷静さ。決定力。間やタイミングを取ること。得意技。へたっぴさ。そのほかにもたくさんの人間らしい物事や「〜さ」がある。こういったものがいくつもあっていい。


この時代、身体性が薄れているという。これは本当にそう感じる。例えば心理学が流行っている。一部の心理学だとかは対処的に役立つと思うが、身体を考慮していないものもあるし、そういう方が取っ掛かりやすいはずだ。

頭がピンときやすい。下半身的なものを地下に埋めてしまいがちだ。それは20年後だとか、取り返しつかなくなるだろう。

とにかく今の時代、何かがチグハグだ。なにか正しそうなものや救いになりそうな話がすでにチグハグの中にいて、それをやってもチグハグに合わせられるだけだ。

もがきおわる事がないと。


小説には貧乏の半生が描かれているものもある。そういったものを読むと、確かにそんな人生は苦しい。生涯ずっと続く徒労感。夏の蒸し暑さのようなどうしようもなさと気だるさ。脱しようとしてもきっと何か外している。他者の目からは多分違うなと感じる希望に向かって、それを手に入れても住む世界が変わるわけはないやりきれなさ。

だけど逆に、金持ちの苦しさというか、人間味のない人生を取り戻したくて取り戻せないうつろな幸福。こういった話もある。

結局、金や愛という掴みやすいものを問題だと仮説立てて、一生かける勢いで対決しようとするところが何かずれていく。

気持ちはわかるが、他者の目からすると、多分そうじゃないとぼんやり感じられる。身体性は一旦置いといて、頭で片付けられるものを優先して考える。

もちろんそこも整理しなければいけないのだから、順番というつもりであればいいのだろうけれど。だけどその問題を抜け出ても、ずっとその方式をし続けてしまう。それをやり終わることが目的なのだろうけども。

これはその状況を脱するための方法論で、次の人生タームには別のものが必要になるはずで、切り替えなければ次の人生のスタートがない。

身体性がもう少し濃いめにあれば、今の時代のようなやたら目標を立てるだとか、ビジョンミッションだとかは言わない。あれは身体からするとちょっと遠すぎるよ。信仰。

おそらくそもそも体は手元の何かをしようとする。70年代の暮らしは今よりも体を使ったが、その時代の感覚ならひとまずは今日やることを考えるし、今やることはやってしまう。お金を3ヶ月でいくら貯めて〜〜を買おうとかくらいの目標は立てていたが、ビジョンミッション世界からはほど遠かった。あれはやはり西洋の宗教観の影響が濃いと思う。


貧乏というとお金無しをいうと思う。でも時間無し貧乏もあると思う。時間貧乏。何年生きれるのかはわからないけど、一生の時間が決まっているとしてみる。そのタイムスパンの中で、仮に「一生」を3つやれたら人よりも時間を持っていることになるだろう。

ここで、① 一生のタイムスパンを3つの時期に区切ってやり直して、3つの人生を体験するという発想が浮かぶ。人生をやり直す決意によって。

それとはまた別で、② 同時に3つの生き方を並行してしまうやり方も浮かぶ。①は人生1/3+1/3+1/3で一生。②は一生を3つ掛け持ちで進む。

①はどえらく忙しいと思うのだが。なにせ3倍速。今の僕はどちらかというと②を志向している。ただし、以前の自分と決別して人生やり直して、①をやってきた人ではあるが。

①は「ここ”ではない”どこか」というものを浮かべるのではと思う。これまでを切っていくよね。

②はパラレルワールド。”あったかも”しれない、今とは違う日常はどんなものだろうと考える。自分はほぼ今の自分で、他の土地に住んでいたり今と違うことをやっているのを考える。

能力が3つあるとして、パラレルワールドBでは二つ目の能力を、パラレルワールドCでは三つ目の能力を出せている。今すでに持っている能力で、ここでは使っていないものを出す環境か状況があると想像するのだよ。


①は自分の天才性を探している。②は自分が持っていて使われない能力を使い、器用さを抑えないといった風で天才を指向していない。

専門家専門家という発想も一生がチグハグする元だと思う。

どちらにしても「自分やりおるな」と思える事を持っていることが自分らしくいられる感じだろう。

①は天才を目指すが苦行的で、特殊な存在を目指して浮世離れ。②は人よりちょっとできるくらいのことをやっていれば良いわけで、苦行感は軽い。それにレベルアップがしやすいことを積んでいくので、長期プロジェクトに向いていない僕でも試していける。

*僕には一生物の熱意がない。3ヶ月くらいで別のことを考えている。だからコーチングなどでそこそこしっかりした目標設定をしようと言われても無理だ。


どうだろう。時間をもつということ。

ただ、そのあたりが少しはできるようになってきても、生きていたら何か内から湧いてくる、不安感や悲しみみたいなものはある。他の人は知らないけど僕はそうだ。

そうだとしても、誰かになにかしてあげれたなといったものが、気取らないレベルでいくつかやれたら、それなりに自分に満足するのではと思う。


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