壁の外側:感想の続き

現代社会に、社会性が不足している人が多い問題がある。社会性と社交性の違いはなんだろうか。社交性は文章の導入技術に似ている。「始まること」が社交性なら、社会性はそれとはどこか違う。社会から受けたことを社会に返していく連綿とした関係の仕方が社会性だと思う。


10年代ビジネスで「私たち」は盛んに使われた。それは社交的なもので、意識をひくものだった。しかし10年代は人々の様子がおかしかった。今でもまだ、世界的に社会が分断している。「私たち」で社会性が解決することはない。

個性は各人の気分で作られない。社会からずれたところを個性というのではなく、社会の求めるものに一番近いところまで伸びている能力がその人の個性だと思う。

気持ちの上ではそうなる可能性はあるものを、なぜそれができないんだと考えて、あるマニュアル通りにやればできることを発見する。それで何かを成すことはできるだろうけども、マークシート方式を抜け出すことができない。結果は手に入れても、個性とはまた別のものだ。

他者が準備した、この中から自由に選びなさい(どれを選べばいいかわかっているよね?)(良い選択をしましたね)という囲いの中から抜け出せない。ネットを使うとフィルターバブルに捕まるのではなく、外部の教えに頼ろうと思っている態度にフィルターバブル効果がある。


個性は基礎知から伸びるものだ。自分の基礎限界を認めなければ、自分が正体不明だと思う。

各人の気持ちに個性はもちろんあるだろう。しかしそれだけが求められているとは思えない。その人だからできること、成せることに人生の個性があるのではないか。

自分の気持ちの個性を明確につかむことよりも、他者の気持ちを感じ取れる力を持つことで、自分の力が汎用性、柔軟度を増していくのだと思う。

偶然に人から受け入れられることをしていたとしても、自分の思考の壁を壊し他者の世界を重ね互換性と汎用性を持たないと、していることの界が縮小した時に、生き残り競争に巻き込まれ行き詰まると思う。


僕の話をすると、算数理科、計算と化学は小学生の頃で限界だった。スポーツも演技も低いので、語学は記号としてならまだしも、アドリブは難しい。だけど国語と社会科、図画工作はまだまだできた。進むうちに、図画工作で何かはやれるかもしれないけれど、少なくとももう先はないと思った。その点で人文学は最後まで限界に辿り着かなかった。しかしもう限界がわかってしまった。

無知の知とは、基礎知を限界まで広げてみた結果に、自分の枠内でやるしかないとわかることなのではと思う。学ばない言い訳にしてはいけないと思う。

僕は幼少期に原っぱで過ごし、世界を動植物や天気などの現象から教わった。そのせいか学ぶほど、自然が正しいと考えるようになった。産業など背広社会への怒りがはっきりしていった。だけど人生がうまくいかないことも同時に悲しかった。

その時にわかったのが、「自然さん」が正しいのだとしても、なぜ自分まで正しいことになるのだ?と。「自然さん」は僕にとって正しい存在で、地球そのもので全ての基礎でその意味で正しい。だけど何も言葉を発してない。僕が勝手に仕入れてきた言葉で、勝手に自然さんの正さに便乗して、勝手に僕まで正しい存在にしていた。

その後に小説をよく読むようになった。小説で他者の世界の見方がわかる場合がある。そのようにして、「世界観のレイヤー」が重なっていき、僕の土台の世界観に重なっていき、公共性のある、汎用性のある、互換性のある、世界がどことなく感じられるようになっていった。

そうはいっても元々は、なかなか社会的な挙動を無意識的にやれていなかったので、理解できても得意ではないようだ。だけどそれを知らないでいたら、いつまで経っても他者との互換性を持てなかった。


そろそろこの話は終わりだけど、また別の文がある。それは後日、投稿するかもしれない。

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